2010年5月18日火曜日

倭人伝と稍 その3

卑弥呼は魏から四千里四方を支配する権限を与えられていましたが、南の狗奴国はこれを認めず、その実質的な支配地は二千里四方(130キロ四方)でした。このように述べると邪馬台国は「水行十日陸行一月」とあり、投馬国は「水行二十日」とあるではないかという反論が出てくるでしょう。

『大唐六典』に「凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里」とあります。唐代の一里は約560メートルですから「歩及驢五十里」は日に28キロになり、これが30日だと840キロになります。

残念ながら『大唐六典』には海路の記載がありませんが、海路は気象条件に左右されるからでしょう。私は海路を馬・歩・驢の2倍の150~100里程度と見ています。「水行十日」は840~560キロになり、「水行二十日」だとその倍になりますが、女王国の南4千里に侏儒国があるというのですから、これが倭国内を移動する距離であるはずはありません。

日数は信用できないというのなら別ですが、事実だとすればなぜそのように書かれているかを考えてみる必要があります。倭人伝の地理記事は正始8年の張政の見聞ですが、邪馬台国・投馬国の水行・陸行についても張政の言動を推察してみるのがよいようです。

「水行十日陸行一月」の終点は内陸部であり、「水行二十日」の終点は海岸部であることが考えられます。魏都の洛陽は内陸にあり陸行が必要ですが、呉都の建業は揚子江の河口部にあり陸行の必要がありません

邪馬台国の水行十日は840~560キロになりそうですが、これは邪馬台国から山東半島の登州までの所要日数に当り、また陸行一月は登州から洛陽までの所要日数に当るようです。「水行二十日」は投馬国から建業までの所要日数であることが考えられます。

正始6年に魏は倭の大夫、難升米に黄幢・詔書を授与していますが、難升米は239年に率善中朗将に任ぜられ銀印青綬を授けられています。中朗将は中央政府の官職ですが、黄幢・詔書は難升米に軍事権が追加付与されたことを表すものでしょう。   

倭は載斯烏越らを帯方郡に遣わして、女王国と南の狗奴国とが不和の関係にあることを訴え、それに対し魏は難升米に黄幢・詔書を授与します。黄幢・詔書は正始8年(247)に張政が難升米の元に届けており、 張政は難升米に対し「檄を為して之を告喩」したと述べられています。

難升米はこれを大儀名文にして狗奴国の官の狗古智卑狗を殺すようです。それにしても魏皇帝の詔書が必要なほど深刻な不和の関係だったのでしょうか。私は背後に呉が絡んでいるように思っています。 卑弥呼は魏から親魏倭王に冊封され、四千里四方(260キロ四方)を支配する権限を与えられていましたが、南の狗奴国はこれを認めていませんでした。

狗奴国の男王の卑弥弓呼は、卑弥呼に対抗して呉から冊封を受ていたのではないでしょうか。そうだとすると女王国と狗奴国の関係は、魏と呉の関係でもあるということになり、そのために魏皇帝の黄幢・詔書が必要だったと考えることができます。文献に見えないので推察ですが、公孫氏の例もあり可能性があります。

もしもそうであれば何等かの兆候があるはずであり、北に隣接する投馬国(筑後)がそれを察知するはずです。張政は狗奴国と呉の関係を疑っており、難升米との問答の中でこのことが話題になったのでしょう。建業までの所要日数が伊都国から投馬国までの所要日数のように書かれているようです。

コースは二十日という日数から見て南西諸島沿いに南下し、沖縄あたりから東シナ海を渡る、遣唐使船の南島路であろうと考えます。朝鮮半島西南部・山東半島沿岸を経由して南下し、建業に至るコースも考えられます。

倭人伝の記事は正始8年(247)で終わり、その正始8年の記事には台与が掖邪狗ら20人を魏の都、洛陽に遣わしたことが記されています。張政の送還を兼ねての遣使でしたが、帰国する張政には掖邪狗らを洛陽に送るという新任務ができました。

掖邪狗らが洛陽に行くについては、邪馬台国から洛陽までの所要日数が話題になったのでしょう。それが投馬国から邪馬台国までの所要日数のように書かれているようです。そのコースは帯方郡・山東半島を経由する遣唐使船が通った北路だと思われます。

2 件のコメント:

  1. 検索してたどり着き、さっそく読者登録させて頂きました。今後のブログ更新を楽しみに致しております。

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  2. takagarasu様

    登録頂き有難うございました。励みになります。
    瀬戸内に分布する平形銅剣はもちろんそうですが、山陰の「出雲銅剣」についても芸予諸島が関係しているように思っています。お気付きの点、教示いただけたら幸甚です。

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