昨年6月に投稿を始めて今回で149回目になります。さすがに書き尽くしたようで同じことの繰り返しになりそうです。しかし強調すべきことは強調しなければならないと思い直して、倭面土国(倭の面土国)のことを、繰り返しになりますが述べてみます。
内藤湖南は「倭面土国」を「ヤマト国」と読み、大和国のことだとしましたが、それに対し白鳥庫吉は「倭の面土国」と読んで伊都国のことだとしました。面は回の古字の誤りで「回土国」が正しいとし、その音が伊都に似ているというのです。
また橋本増吉はやはり「倭の面土国」と読んで末盧国のことだとしました。通説では末盧国は佐賀県東松浦半島付近とされていますが、『日本書記』に神功皇后が松浦郡の玉島川で鮎を釣って「珍しいものだ」と言ったので「梅豆羅国」と呼ばれるようになり、それが訛って松浦になったという地名説話があります。
橋本増吉は「梅豆羅」と「面土」の音が似ているとしていますが、白鳥庫吉の伊都国のことだとする説と同様に語呂合わせに過ぎないようです。
問題は「倭面土国」と読むのがよいのか、「倭の面土国」と読むのがよいのかということですが、57年に遣使した「漢委奴国王」については「漢の倭の奴国王」と読むのが一般的です。倭人伝などに奴国の名が見えるので「委奴国」などと読む必要がないからです。
それでは「倭面土国」も「倭の面土国」と読んでもよさそうなものですが、内藤湖南の「倭面土国」を「ヤマト国」と読み、大和国のことだとする説が有力です。確かに「倭面土」と「ヤマト」は音がよく似ていますし、倭人伝にも面土国という国名は見えません。
面土国について東洋史に造詣の深い西島定生氏は次のように述べておられます。(『邪馬台国と倭国』、吉川弘文館、平成6年)
私はこの面土国については、いまでも疑問をもっています。しかし「倭面土国」という記載が一方にとにかく存在するのですから、これを否定することができない限り、奴国のほかに面土国という他の倭人の国が朝貢したことになりますが、なお疑問が残る名称です。
倭国に大乱が起きたのは後漢の霊帝の光和年中(178~183)だとされています。倭人伝は卑弥呼が女王になる以前の70~80年間は男子が王だったと述べていますが、光和年中から70~80年を遡ると面土国王の帥升が遣使した107年ころになります。
帥升については奴国王だとする説もありますが、帥升が奴国王なら男子が王だった期間は120~130年以上でなければならず、帥升は奴国王ではありません。そこで西嶋氏は奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるとされています。
この西嶋氏の考えを受けて寺沢薫氏は面土国の存在を否定した上で、帥升を伊都国王だとされています。(『王権誕生』、講談社、2000年)そして卑弥呼共立以前の70~80年間を「イト倭国」と呼び、卑弥呼の時代を「新生倭国」と呼んでいます。
大乱以前の倭国は伊都国王を盟主とする北部九州の部族的な国家の連合体だったが、その「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わる新たな倭国の枠組みが求められて、ヤマト(大和)に中枢を置く卑弥呼を王とする新しい政体が誕生したと考え、これを新生倭国(ヤマト王権)と呼んでいます。
寺沢氏は邪馬台国=畿内説を取り、纏向遺跡を卑弥呼の王都とされています。それでは九州説だとどうなるでしょうか。伊都国が中心だったと考えられなくもありませんが、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるという、以前の西島氏の考えに従うと、倭国大乱以前の男王は帥升の孫か曾孫の面土国王だと考えるのがごく自然です。
後漢王朝が衰退して冊封体制が機能しなくなり、面土国王の倭王としての権威が失墜し大乱が起きたことが考えられます。面土国王は倭国大乱・卑弥呼共立の一方の当事者であり、その最大の当事者だと考えるのが自然です。
西嶋氏は『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)では面土国の存在を完全に否定されるようになり、「ヤマト国」と読む考えに転換されています。そして「面土国は何処に求めるべきであるかなどという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか」と述べられています。
今では面土国の存在を認めようとする専門家はいません。西嶋氏の考えの転換が残念ですが、肝心の倭人伝に面土国の名がないので無理もないことです。(実際には倭人伝の記事の多くは面土国での見聞です)
西嶋氏が奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるとされていることは認められなければならないでしょう。これはその一例ですが、その他にも面土国が3世紀に存在していることを前提にしないと理解できないことが幾つもあります。
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