古墳時代の大和朝廷は有力な氏族長に君、直、首、公などの姓(かばね、身分)を与え、人民と土地の私有を認めましたが、定形化された前方後円墳は大和朝廷の統治に服属して姓を与えられた氏族長の墓なのでしょう。その墓の祭祀を継承することが姓を継承し氏族を支配していることを表し、その祭祀の場が神社になると思われます。
弥生時代の青銅祭器を神体とする祭祀では、部族から青銅祭器を配布された人物が始祖とされ、その始祖を基点とする父系出自集団が形成されていましたが、氏姓制に移行すると大和朝廷から姓(かばね)を与えられた人物を始祖とする父系出自集団を形成するようです。
前回に紹介した兵庫県川西市加茂遺跡の場合、中期後半の大型建物でも銅鐸の祭祀が行なわれていたかどうかが問題ですが、後期末には確実に銅鐸の祭祀が行なわれ、そして古墳時代にはこの地方がカモ氏の支配下にあったことが考えられます。
加茂遺跡の東の崖下に銅鐸が埋納されると、近くにある勝福寺古墳、万籟山古墳などが祭祀の対象になったようです。大庭磐雄氏によると大和朝廷がこれらの古墳の被葬者に与えた姓は祝(ほうり)ですが、鴨神社を祭っていたことを思わせる姓です。
弥生時代から古墳時代に移る時、部族が消滅し宗族は氏族へと再編成されていくようです。弥生時代の宗族が大和朝廷の成立で政治性をおびて、古墳時代の氏族になるのですが、それと共に宗廟祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に移っていくようです。
『古事記」『日本書紀』に見える氏族の祀る神は、例えば賀茂氏の祭るコトシロヌシのように、この時期の遠祖が氏族の始祖とされ、鏡を神体とする神として祭られる例が多いようです。私はその接点に卑弥呼・台与がいると考えていますが、卑弥呼と台与が合成されたものが天照大御神のようです。
卑弥呼・台与は「親魏倭王」として邑君・邑長のような魏の官職を授ける特権を持っており、印綬に代わるものとして銅鏡を配布していたと考えています。その銅鏡を神体とすることが行なわれるようになり、それが古墳時代の氏姓制度に引き継がれて、祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に変わり、神社の神体も銅鏡になると考えます。
ひとつの考え方として銅鏡を配布した部族が倭国を統一したことにより、神社の神体が銅鏡になると考えることもできそうです。神話からみるとその部族は天照大神を中心とする「高天が原」で活動する神ということになりますが、青銅祭器と銅鏡とでは性質が違うようです。
律令時代になると大和朝廷は土地と人民の支配権を氏族長から取り上げ(公地公民)それに代えて有力な氏族に属している者に高い官位が与えられるようになります。氏族は官僚を生み出すための組織になりますが、その格付けは『古事記』『日本書記』の記録するところとほぼ一致します。
『古事記』には猿女君の一族の稗田氏の伝えた氏族の歴史が語られており、その多くは天神・皇別と呼ばれる氏族のもので、地祇・諸蕃に関するものは多くありません。天神・皇別は「高天が原」で活動する神の子孫であり、地祇は「葦原中国」で活動する神の子孫で、諸蕃は渡来系氏族です。
氏族の格付けを天神・皇別だけに行い、地祇・諸蕃をないがしろにすれば地祇・諸蕃から反発が来ます。『古事記』よりも『日本書記』が先に成立するのは地祇・諸蕃の諸氏族の歴史を加える必要があったからでしょう。格付けは大和朝廷(天皇)への貢献度で決まりますが、それは氏族の始祖や祖先の功績によるところが大きかったようです。
672年に起きた壬申の乱は天智天皇の子である大友皇子に対する、天皇の弟の大海人皇子の反乱でしたが、大友皇子を支持したのは天智天皇の側近であった中臣(藤原)氏などの中央豪族(氏族)であり、大海人皇子を支持したのは地方豪族でした。
この乱については諸説がありますが、私はその主因は皇極天皇が斉明天皇として再度即位した理由や、その後の朝廷の施策に対する地方豪族の不満であろうと思っています。天智天皇を補佐した側近の中央豪族には天神・皇別が多く、地祇の地方豪族、ことに東国の豪族が不満を募らせていたところに、皇位継承問題が起き大海人皇子の反乱に至ったと考えます。
大海人皇子が即位し天武天皇になりますが、初期の天武天皇は中央豪族を遠ざけて下級役人の舎人(とねり)に補佐されて政治に当ります。壬申の乱の原因になった氏族は「八色の姓」を制定して真人(まひと、応神天皇以後の皇族の子孫)、朝臣(あそみ、皇別・天神・及び天神に順ずる地祇クラス)・宿禰(すくね、地祇クラス)、忌寸(いみき、諸蕃クラス)などに最編成されます。
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