2010年11月14日日曜日

纒向遺跡 その3

『日本書紀』綏靖天皇紀の紀年を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間があります。この空位期間は、東征以前から神武天皇に従ってきた中臣・忌部・猿女など天神系氏族と、東征後に服属するようになった大神・賀茂など地祇系氏族との間に大王位(天皇位)を巡る抗争があったためでしょう。

沼河耳(ぬなかわみみ、綏靖天皇)の異母兄の当芸志美美は、神武天皇の東遷に九州から同行して朝政を自由にしていましたが、神武天皇が死ぬと沼河耳を殺そうと計画します。このことを母から聞いた沼河耳は葬儀が終わるのを待って逆に当芸志美美を殺します。

大和朝廷が成立しても、その初期の大王位(天皇位)はまだ安定しておらず、後継争いで神武天皇の殯(もがり)が三年間に及んだのでしょう。『日本書紀』はこの殯を「山陵の事」と記していますが、この三年間に盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが推察されます。

死者が埋葬されるまでの殯の期間に後継者が決まり墓(古墳)が築かれますが、古墳を築いた者が後継者として認められます。箸墓古墳が造られる間に弔問した者の間に定型化された墓、つまり前方後円墳が築造されるようになるようです。

綏靖天皇の母は美和(三輪、大神神社)の大物主の孫娘で、賀茂氏の祭る事代主の娘の伊須気余理比売(古事記)とされています。綏靖天皇と大神・賀茂氏との関係が強調されていますが、これは神武天皇との関係でもあります。

7人の乙女が高佐士野(たかさじの)で遊行しているのを見た神武天皇は、先頭の伊須気余理比売を妻にすることにします。高佐士野が何を表し、その場所が何処なのかは分かっていませんが、綏靖天皇の誕生について『古事記』が次のように記しています。

是に其の伊須気余理比売の家、狭井河の上に在りき。天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行でまして一宿御寝座しき。・・・然してあれ坐しし御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命、三柱

7人の乙女は大神氏・賀茂氏・磯城県主など、大和盆地の土着豪族を表していると見ることができそうです。神沼河耳命が綏靖天皇ですが、狭井河は大神神社の摂社、狭井神社の北側を流れる川で、母の伊須気余理比売の家は大神神社の東北の台地にあったと伝えられています。

狭井神社と箸墓古墳は二キロほどしか離れておらず、箸墓古墳は綏靖天皇の母の家の庭のような場所です。私は高佐士野を「高い桟敷のような野」と解釈し、三輪山西麓の「山の辺の道」の光景と見るのがよいと思っていますが、伊須気余理比売の家が狭井河の川上にあるということからのイメージで根拠はありません。

いずれにしてもこの物語には神武天皇と大神氏・賀茂氏など大和土着の勢力との間に縁戚関係が生じたことが語られているようです。2代綏靖・3代安寧・4代懿徳天皇の妃を出した磯城県主は磯城郡の支配者ですが、この時に神武天皇と磯城県主との関係も生じるのでしょう。

橿原市大字洞にある現在の神武天皇陵は、神武田(じんぶでん、ミサンザイ)と呼ばれていた、田の中にある高さ3~4尺(1メートル程度)の小さな丘だったようです。それが文久3年(1863)に神武天皇陵とされ、その後拡大・整備されたということですが、綏靖天皇紀から考えられるような盛大な葬儀は想像できません。

通説では箸墓古墳の築造は260~280年ころとされていますが、これは私の考える神武天皇の即位時期、つまり大和朝廷の成立時期と一致します。大和朝廷が成立したことにより「氏姓制社会」になり、古墳が築造されるようになるのでしょう。

箸墓古墳は大神氏、賀茂氏など伊須気余理比売に関係する氏族や、磯城県主の祖が、当芸志美美を擁立しようとする中臣・忌部・猿女氏など天神系氏族に対抗して、綏靖天皇を大王に擁立するために造った神武天皇の墓だと考えるのがよさそうです。

『日本書記』は神武天皇の別名を「神日本磐余彦天皇」としていますが、これは「磐余の男」という意味で磐余は箸墓古墳のある磯城郡の地名です。大和朝廷の成立に纒向遺跡が係わっていることが考えられます。

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