スサノオ(須佐之男)がオオケツヒメ(大気津比売)を、ツキヨミ(月読)がウケモチ(保食神)を殺すのは、狗奴国の官の狗古智卑狗が殺されたということだと考えていますが、狗奴国は肥後と肥前の長崎県部分と考え、狗古智卑狗は肥後の菊池川流域の支配者だと考えます。
中国の諸王朝は冊封体制によって東夷諸国の王の支配領域を「王城を去ること三百里」、或いは「方六百里」に制限していたようです。これを「稍」と言いますが、魏の1里は434メートルですから三百里は130キロになり、「方六百里」は260キロ四方になります。
東夷伝には7条(伝と通称)がありますが、韓伝と倭人伝以外の諸伝では300里を千里と称し、「方六百里」を「方二千里」と称しています。しかし韓伝と倭人伝に限っては300里を二千里と称し、600里四方を「方四千里」と称しているようで、倭人伝の千里は65キロになります。
図は千里を65キロとして地理記事を考察したもので、筑前・筑後・豊前・豊後と肥前の佐賀県部分を女王国とし、肥後と肥前の長崎県部分を狗奴国としています。
細い赤線は倭人伝の地理記事から推定した交通路で、赤い円は各国の中心地と推定する場所です。また赤い方形が卑弥呼の王都があったと推定している筑前上座郡(かむつあさくら、朝倉郡)です。
図の太い赤線は地学上の臼杵・八代構造線ですが、構造線以北の肥後の北部が上座郡を中心とする2千里圏内に入っています。このことが女王国と狗奴国の狗古智卑狗との不和の主因になっているようです。
倭人伝には女王国の南には狗奴国と侏儒国があって、侏儒国は「女王(国)を去ること四千余里」とあります。倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡東郷・土穴付近だと考えていますが、東郷・土穴の南四千里(260キロ)といえば肥後と薩摩の国境付近になります。侏儒国は薩摩であり狗奴国は肥後ということになりますが、魏が認めた卑弥呼の支配領域は「稍」の考え方に従った「方四千里」(260キロ四方)で、狗奴国の大部分は卑弥呼の支配が認められた地域でした。
肥後の文化は臼杵・八代構造線の北側と南側、及び天草諸島部で異なることが考えられていますが、臼杵・八代構造線以北には多数の青銅祭器が見られます。南側にはほとんど見られず肥前でも佐賀県部分には見られるのに長崎県部分には見られません。これは前々回の投稿で述べたように、女王国が渡来系弥生人の形成する国であるのに対し、狗奴国は縄文系弥生人の熊襲が形成する国であることによります。
肥前の佐賀県部分では渡来系弥生人と縄文系弥生人の通婚があったようで、青銅祭器も分布していて女王国に属していたようです。それに対し肥後の臼杵・八代構造線以北は渡来系弥生人と縄文系弥生人の通婚があり青銅祭器も分布しているものの狗奴国に属していたようです。
狗古智卑狗が殺されたことで構造線以北が女王国の版図に入ると考えますが、それには青銅祭器を祭っていた宗族の協力があったでしょう。狗古智卑狗が殺されたことで女王国の臼杵・八代構造線以南への進出が可能になったと考えることができます。
このころ女王国では台与共立の一方の当事者だった面土国王が排除されて、女王制が有名無実になり男王が擁立されます。この男王がホノニニギですが狗古智卑狗が殺されたことでホノニニギの「天孫降臨」が始まることになります。
私のイメージする天孫降臨は、女王国が臼杵・八代構造線以南の九州を統合したというものですが、それには狗古智卑狗の支配の及んでいなかった肥前の長崎県部分や天草諸島を含めるべきであり、それは女王国の東にある倭種の国(神話の出雲)にも及んでいくと考えます。
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