9番目の対蘇から15番目の鬼奴までが肥前にあったのであれば、2番目の巳百支国から8番目の沮奴国までは豊前にあったということになります。伊都国は糸島郡ではなく田河郡であり、不弥国は遠賀郡です。
②巳百支=企救 ③伊邪=京都 ④都支=仲津 ⑤彌奴=筑城 ⑥好古都=上毛 ⑦不呼=下毛 ⑧沮奴=宇佐
宇佐の宇佐神宮を邪馬台国と結び付ける説がありますが、宇佐は沮奴国ということになり宇佐説も成立しないようです。また京都郡を邪馬台国とする説もありますが、京都郡が伊邪国ならこの説も成立しないことになります。
大宰府天満宮蔵の『翰苑』には『廣志』を引用した次の文が見られますが、私はこの文が邪馬台国論争の「決め手」だと考えています。『翰苑』は唐代の書ですから遣隋使・遣唐使から得た情報が加わっている可能性があります。
邪届伊都、傍連斯馬。廣志曰く倭國東南陸行五百里、伊都國に到る、又南邪馬嘉国に至る。自女王国以北、其の戸數道里、略載を得ること可。次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り、布帛は無く、革を以って衣と爲す、蓋し伊耶國也。
表題の「邪届伊都傍連斯馬」は、「ある地点」の東南五百里に伊都国があり、南には邪馬嘉国があるということです。「ある地点」は宗像郡の田熊・土穴付近であり、邪馬嘉は邪馬台国のことです。伊都国は田川郡であり斯馬国は志摩郡です。
『廣志』の引用文には「自女王国以北」の奴国・不弥国が省略されていますが、倭人伝にも巳百支国・伊邪国が見えますから、巴百支國・伊邪國が奴国・不弥国というのではなさそうです。この2国は「自女王国以北」や伊都国(田川郡)に近く、また邪馬台国にも近い国のようです。
巴百支国は倭人伝の巳百支国のことで、不弥国(遠賀郡)の東の企救郡であり、伊都国(田川郡)の東は伊邪國(京都郡)と都支国(仲津郡)のようです。あまりに辻褄が合い過ぎて、勘違いしているのではないかと不安になってきます。
「案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り」とありますが、通説では伊邪分国の「分」は「久」の誤りで『隋書』流求国伝に登場する「夷邪久国」のことであり、現在の屋久島と考えられています。
以前の投稿では裸国・黒歯国の方位・距離が東南一年だと太平洋上になるので、『翰苑』の編纂者の張楚金は遣隋使の説明に従い、これを屋久島まで西南海行一日だと考えたとしました。この場合、遣隋使は南島路を採って隋に渡ったことになります。
しかし京都郡が伊邪国であれば、瀬戸内海航路の要津になっていた草野津(かやのつ、行橋市草野)から東南に海を渡った所にある、倭人伝のいう裸国・黒歯国が伊邪分國だと考えることができるようになります。
伊邪分國は裸国・黒歯国のうちの裸国のことだと考えられそうですが、「布帛は無く、革を以って衣と爲す」とあります。奇妙な一致ですが普段は布がないので裸で生活しているが、寒い時には毛皮を纏ったことが考えられます。
「蓋し伊耶國也」の伊耶國とは伊予国のことではないでしょうか。伊予は草野津の西南ではなく東南になりますが、海行一日とは言えるでしょう。伊予は九州で作られた銅矛が四国に搬入される経路になっていて密接な関係が見られます。
銅矛を配布した部族にとって伊予は、草野津のある伊邪國(京都郡)の分国のようなものだと述べられているように思えてきます。しかし実際には分国というわけではなく、そこで伊耶國が出てくるように思われます。
伊耶と伊予は音が似ているとは言えますが、どのような関係があるのか予想もつきません。問題は西南ということと、果たして伊予には布が無かったかということになりそうです。
西南については沖縄まで南下する南島路を採った遣隋使・遣唐使が屋久島のことだと考えたとも思えますが、果たして伊予には布がなかった(少なかった)のでしょうか。新しい課題が出てきましたが、ご存知の方、教示いただければ幸甚です
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