2009年9月13日日曜日

天照大神

白鳥庫吉は天の岩戸に隠(こも)もる以前の天照大御神を卑弥呼とし、天の岩戸から出てきた天照大御神を壱与(台与)と考えていますが、天照大神が天の岩戸に隠るのは、二四七年ころに卑弥呼が死んで径百余歩の冢(墓)が造られたことを表しています。

前回に示した表では天照大神をAとBに分けていますが、Aは天ノ岩戸に隠る以前の天照大神で、これが卑弥呼であり、Bは天ノ岩戸から出てきた天照大神でこれが台与です。天照大神が岩戸に隠(こも)ったことによって天地が暗黒になったというのは、卑弥呼の死後に千余人が殺された争乱が起きたことが語り伝えられています。

天地が暗黒になったことについては、これを日食だとする説があります。卑弥呼が死んだ二四七、八年ころに、二年連続して日食があったということで、日食の原理を知らない古代人が不吉な予兆と思ったことは想像できます。そして日食を夜明けだと思って鶏が長鳴きしたことから、この神話が生まれたことは考えられてよいことです。

天地が暗黒になったので、八百万神は天の安の河原に集まって、高御産巣日神(たかみむひのかみ)、(『日本書紀』では高皇産霊尊)の子、思金神(おもいかねのかみ)に思はしめて(考えさせて)、常世の長鳴鳥を鳴かせたとあります。思兼神が長鳴鳥を鳴かせたというのは夜明けが近いということで、台与が擁立されようとしていることを表しています。台与の共立を発案したのは思兼神だったということのようですが、私は思兼神を大夫の難升米だと考えています。

天照大神は、天の岩戸の前後で性格が大きく変わります。天の岩戸前にはスサノヲ(須佐之男命、素戔嗚尊)の姉として自ら行動しますが、天の岩戸以後には自ら行動することはなく、高御産巣日神とペアで神々に指令を下すだけになります。むしろ高御産巣日神だけが単独で指令を下すことが多くなりますが、この高御産巣日神が大倭です。 

岩戸から出てきた天照大神が台与ですが、台与は13歳の少女で卑弥呼ほどのカリスマ性がなかったのでしょう。彼女がくだす託宣よりも大倭と呼ばれている実力者の意向が優先されるようになったと考えられます。『日本書紀』は266年の倭人の遣使を台与が行なったと思わせようとしていますが、台与は名目だけの女王であり、在位期間も極めて短かったようです。 

『日本書紀』第一の一書には稚日女尊(わかひるめのみこと)という女神が登場してきます。天照大神の妹ではないかとされる神ですが、スサノヲの狼藉に驚いて死ぬことになっていて、そのために天照大神が岩戸に隠れることになっています。この稚日女尊に台与が投影されているように思われます。

オオヒルメ(大日孁貴、卑弥呼)とワカヒルメ(台与)を合成したものが天照大神のようです。『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼・台与だと思わせようとしていますが、神功皇后の伝承では(『古事記』『日本書紀』には見られません)神功皇后にも豊比売(淀比売とも)と呼ばれる妹が居るとされています

私は神功皇后紀の編纂者は天照大神が卑弥呼・台与であることを知っていたと考えています。その上で台与(稚日女尊)に合うように豊比売が創られたと考えます。豊比売は宇佐神宮の三殿の中央に祀られている神でもあり、香春の香春神社第三殿の祭神でもあると考えています。 

安本美典氏は万幡豊秋津師比売を台与とされていますが、名前に豊を含んでいることや、その系譜を見るとそのように思えますし、そうなのかもしれません。しかし稚日女尊に「尊」の文字が使われていることから見て、台与には稚日女尊のほうがふさわしいように思えます。尊は皇室の祖神だけに用いられるものです。ただスサノヲの狼藉に驚いて死ぬことになっている点が、台与の場合と異なるような感じがします。伝承の過程で変わったと考えるのがよいのかも知れません。

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