その4 の続きです。朝倉郡朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の背後の山は御陵山(ごりょうざん)と呼ばれていて、朝倉で病死した斉明天皇の殯陵という伝説のある古墳があります。しかし天皇の遺体はすぐに朝倉を離れており殯(もがり)も大和の飛鳥川の川原で行われていて、朝倉で殯が行われたという事実はありません。
安本美典氏はこの古墳について『卑弥呼と邪馬台国』で「恵蘇八幡宮の上に斉明天皇の陵といわれる場所があり、石塔が立てられている。あるいは古い女王のゆかりの地であったのだろうか」と述べられていますが、「古い女王のゆかりの地」とされているだけで卑弥呼の墓だとは断言されていません。
御陵山は今は樹木が生い茂って只の山にしか見えませんが、造られた時には非常に目立ったでしょう。この地は甘木平野の東南端であり、ここで筑後川と三郡山地が接しています。頂上からの眺めは雄大で、西には広大な朝倉平野・筑後平野・佐賀平野が広がり、その中を筑後川がゆったりと流れています。
南には水縄山地が屏風のように峻立し、その前は筑後平野の東端部分で豊後日田郡(邪馬国)に連なっています。脚下の道は律令制官道の豊後路で福岡平野・佐賀平野から直接に大分県に行く場合には必ず御陵山の下を通ることになって、筑後川に沿って東西に往来する人々は、必ずこの墓を見上げることになります。
この墓に葬られている人物は筑紫平野の王であったように思われます。卑弥呼の墓とは断定できるわけでありませんが、ふさわしいとは言えるようです。現地の説明標柱によればこの墓は二つの古墳が接合した形になっているということで、前方後円墳ではないかとも双円墳だとも言われていました。
その全体の形は楕円形で前方後円墳のようにも見えますが、前方部の墳丘に特有の直線が見られないし、前方部と後円部を区別するくびれ部もありません。教育委員会は六世紀(古墳時代終末期)に多い群集墳と見て一号墳・二号墳と呼んでいますが、六世紀の群集墳なら墳丘が明確に区別できるはずですが、両者は一体化していてほとんど区別することができません。
また大きさの割には高さがありません。よく観察してみると一つの墳丘に二つの棺が並べて置かれ、それぞれが別の封土で覆われているように見えます。古墳は追葬されることはあっても、基本的に墓室は一つですが、二つの棺が接近しているのは弥生時代の楕円形の台状墓だということでしょう。
南側の墳丘は丘陵の先端が巧みに利用されていて、いかにも大きく見えます。それに対し北側の墳丘は貧弱で、南から見ることを計算して築造されているのでしょう。その長径は「径百余歩」という卑弥呼の墓にふさわしい大きさだといえます。
この「径百余歩」を現在に見られる石柵で囲まれた範囲の直径と考える必要はないと思っています。石柵を設けたためにその範囲が狭まくなったのであり、現に石柵の西側の外周を辿ることができません。 南側から見た地山の頂上部全体が卑弥呼の墓域と見られていたと考えます。
前回には卑弥呼の墓は台状墓であろうと述べました。棺が二つ並んだ古墳の例を見たことがありませんが、台状墓なら棺が二つ並んでいてもおかしくありません。私は倭人伝の記事と神話からこの墓に葬られている人物を、卑弥呼と卑弥呼の元に出入りしている男子と見ています。
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