2009年9月5日土曜日

邪馬台国 その4

邪馬台国問題の決め手は卑弥呼に授与された「親魏倭王」の金印が出土することだとも、また卑弥呼が住んだ宮室・楼館が発見されることだともいわれていますが、それはよほどの偶然が重ならなければ望めないことです。その点で卑弥呼の墓が現存しているのであれば、そうとは知らずに日常的に見ているかも知れません。

倭人伝は「卑弥呼は以って死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者奴婢百余人」と記しています。径百余歩については140メートルをはじめとして70~80メートル説、180メートル説など様々な説がありますが、いずれにしても巨大な墓が造られ、盛大な葬儀が営まれたようです。

帯方郡使の耳に入るくらいですから、大きいばかりでなくよく見える場所にあって目立ったのでしょう。三世紀になると見晴らしのきく丘陵上に、50メートルを越える墳丘墓が築かれるようになります。ことに山陰・山陽でこれが顕著になります。

後期も後半になると階級差が明確になって墓が大きくなるのですが、卑弥呼の墓も丘陵上に有って古墳時代の古墳と変わらない感じがすることが考えられます。しかし卑弥呼の時代は弥生時代であって古墳時代ではありませんから、卑弥呼の墓と古墳時代の墓には違いがあるはずです。

奈良県箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が注目を集めていますが、私には奈良盆地の東南部という限られた地域の前期古墳だけが弥生時代の墓とされるのが不思議です。箸墓古墳が卑弥呼の墓なら全国の前期古墳は弥生時代の墓でなければならないことになりますが、これには土器の形式だけの問題ではない、別の意図があるように思えます。

倭人伝は「卑弥呼は以って死す。大いに冢を作る」と記していますが、「冢」とはどのような墓を言うのでしょうか。森浩一氏は「中国では冢(ちょう)と古墳は区別されており、冢はいわゆる高塚古墳ではない」と言っていますが、時代に似つかわしくない大きな墓を冢と呼んでいる事があるそうです。

そこで漢字が表意文字であることから冢(ちょう)の文字の意味そのものを分析してみました。冢はワ冠(わかんむり)と豕、および8画目の丶(てん)の3部分で構成されており、ワ冠(わかんむり)には「覆う」とか「覆うもの」という意味があります。

豕は豚に関係する文字ですが、中国では豚と猪を区別しないそうですから「豕」は猪のことだと考えてよさそうです。丶(てん)は注意を喚起することによって意味を持たせる記号のようです。猪の巣は窪地に落ち葉などを敷いて作り、出産前や冬期には枯枝などで屋根のある巣を作るそうです。

そこで冢(ちょう)の8画目の丶(てん)は猪が巣の窪地の中に居ることを表すと考えてみました。そうすると出産前や冬季の猪の巣の窪地が冢(ちょう)だということになりそうです。猪が巣を出ると「家」になり、土でできた冢が塚です。

猪が巣で寝ている姿と死者が墓穴に納められた状態が似ていることから墓穴を冢(ちょう)というのでしょう。とすれば冢は棺を納める部分ということになり、「大いに冢を作る。径百余歩」は墳丘の大きさや高さを言っているのではなくて、墓域の広さを言っていると見ることができます。

倭人伝に「其死、有棺無槨、封土作冢」とありますが、槨(墓室)がないというのですからそれは冢といえるようです。卑弥呼の墓もあまり高さはないと考えるのがよさそうです。箸墓古墳には棺だけがあって槨がないのでしょうか。古墳の常識から言ってそのようには考えられません。

墓穴を埋め戻すと塚ができますが、塚を意図的に大きくしたものが古墳です。墳の『賁」には「飾る」という意味があります。おそらく卑弥呼の墓は塚の段階であり、「径百余歩」とありますから、円形の墓域が強調された、弥生時代の墓制でいう台状墓でしょう。少なくとも箸墓のように高さや形を強調したものではないはずです。

箸墓古墳では吉備地方の特色を持つ特殊器台が見られるということですが、これは明らかに「墳」です。また前方後円という定型化された墳形も「墳」そのものです。箸墓古墳は槨(墓室)のない冢とは言えないようです。箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないのです。

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