邪馬台国は戸数七万の大国ですが、前漢時代の倭の百余国の頃にはそれが幾つかの小国に分立していたようです。そうした小国の一つが須玖岡本遺跡を中心とした福岡平野にあったことが考えられます。しかしその国は那珂海人の国であって元来の邪馬台国ではないようです。
地政学的に見て玄界灘・響灘沿岸地域の中心は須玖岡本遺跡付近になります。しかし内陸部を含めると小郡市・鳥栖市・甘木市など、二日市地峡の南の入り口付近になります。このことは現在の主要な鉄道、道路がこの付近で交差することを見ても明らかです。
ここは筑後平野・佐賀平野と福岡平野の接点であり、また筑後川沿いに東に行くと豊後であり、豊後灘を渡ると四国に至ります。三郡山地を越えると遠賀川流域です。 元来の邪馬台国はこの地域にあり、卑弥呼の墓や宮殿が有ったことは考えられてよいことです。
私は邪馬国は豊後日田郡だが、その日田郡と筑紫平野(筑後・佐賀・甘木平野)との境を邪馬台と言ったのか、あるいは甘木平野と三郡山地の境の微高地を邪馬台と言ったのか、どちらかであろうと考えています。あるいは両方の意味があるのかもしれません。
二日市地峡の周辺を邪馬台国とする説はいくつかありますが、その一つに甘木・朝倉とする安本美典氏の説があります。安本氏は倭人伝の記事だけでは情報が不足して邪馬台国の位置は定まらないとし、神話と結びつけることで甘木・朝倉地方を邪馬台国としています。
私は倭人伝の記事だけでは面としての邪馬台国の位置は分かるけれども、点としての位置は分からないと考えます。 点としての邪馬台国とは卑弥呼の宮殿や墓のある場所と言う意味です。倭人伝に見える方位・距離の終点は国境であって、国都などような「中心地」ではありません。
そうした意味で安本氏の説に魅力を感じているのですが、安本氏は甘木そのものが高天が原や天(アマ)に通じ、神々が集ったという天の安川に相当する夜須川という川があり、夜須町という町も現存していとしています。
夜須町の夜須は『日本書紀』や『万葉集』に古くは安と記されているほか、『古事記』『日本書紀』の天の香山と呼ばれた山もこの地に存在すると指摘しています。またこの地域一帯には大和地方と一致する地名が多く存在し、その方角もほとんど一致しており、この地の勢力が畿内に進出し地名も移動した可能性があるとされています。
さらに高木神を祭る高木神社が多いことを指摘されていますが、これを軽視してはならないようです。 私は髙木神を倭人伝の大倭だと考えていますが、高天が原神話では髙木神が極めて重視され、『日本書紀』では皇祖としている一書もあります。この地が神話の高天が原のモデルになっていることは確かなようです。
甘木・朝倉について不思議なことは、この地が斉明天皇の筑紫西下の地になったことです。 斉明天皇七年(661)、新羅・唐の大軍に攻められた百済を救援する出兵が行われ、斉明天皇は筑紫の朝倉を大本営として出兵を指揮しますが、その宮を朝倉橘広庭宮と言っています。
朝倉では疫病が発生して近従が多数病死し天皇自身もその年の7月に急死します。天皇の遺体は8月に磐瀬宮に移されていますが、磐瀬宮は那珂郡三宅郷(福岡市南区三宅か?)に有ったとされています。斉明天皇 の筑紫西下には出兵の指揮とは別の目的があったように思われます。
出兵を指揮するというのであれば博多湾岸の磐瀬宮の方が有利です。なぜ斉明天皇の皇宮は磐瀬宮でなくて朝倉橘広庭宮でなければならなかったのでしょうか。そもそも高齢の女帝が出兵を指揮するのも不思議です。しかも中大兄皇子(後の天智天皇)も同行しているのです。
『日本書紀』は朝倉橘広庭宮造営のために朝倉の神の社の木を切ったために、神が祟って宮殿を壊し、宮中に鬼火が現れたと伝えています。私は卑弥呼の宮殿が有ったと話すことがためらわれるような事情が有ったと考えていますが、それには神功皇后が絡んでいると考えます。
神功皇后が絡んでいるとは、応神天皇の出自が絡んでいるということです。私は卑弥呼(天照大神)+斉明天皇÷2=神功皇后だと考えていますが、斉明天皇・神功皇后の蔭に卑弥呼が見え隠れしているように思っています。
卑弥呼の死は247年であり、神功皇后は4世紀末ごろに実在したと考えます。斉明天皇の筑紫西下は661年です。その間隔は 口伝ではあっても歴史の記憶が完全に消失するほどの期間ではありません。
卑弥呼の宮殿が有ったという言い伝えも、神功皇后の伝承や朝倉橘広庭宮の記憶に吸収されたのでしょう。ことに神功皇后の伝承は卑弥呼の記憶を意図的に撹乱し、抹消しようとしているように思っています。
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