2009年9月7日月曜日

邪馬台国 その6

その4、その5 の続きです。前期古墳に葬られているのは基本的に一人ですが、弥生時代の台状墓には複数の埋葬が見られます。卑弥呼の墓も卑弥呼一人だけが埋葬されているのではないようです。

名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす〉

この文には卑弥呼の日常生活が述べられています。卑弥呼は武器を持った兵士が守衛する宮殿に住み、千人の侍女に傅(かしず)かれるという生活を送っていますが、女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。

卑弥呼は女王とはいうものの実態は巫女(みこ)で、政治は弟が補佐していました。卑弥呼が神憑りして下す託宣は常人には意味が理解できないものでした。当の巫女自身にも理解できません。そこで意味が分かるように通訳する者が必要で、これをサニハ(審神者)といいます。

これが倭人伝の言う鬼道ですが、サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。この巫女とサニハの関係の名残りは、形式的ではあるが現在の宮参りの時に見られます。宮参りをすると巫女さんが鈴を鳴らしながら舞いますが、これは神憑りした巫女が神の託宣を下している所作です。

鈴の音が神のお告げというわけです。その前後に神主さんが祝詞を奏上しますが、祝詞が終わると神主さんは「願いは聞き届けられるであろう」といった意味のことを言います。神主さんがサニハなのです。今度宮参りをした時に一連の経過を観察してみてください。

卑弥呼の居処には一人の男子が出入りして辞を伝えていたというのですが、卑弥呼が巫女であることから見て辞とは託宣のことだと考えてよいでしょう。この男子がサニハであることが分かりますが、この男子は辞を伝えるだけではなく、婢千人がいるというのに飲食の給仕までしていました。

卑弥呼は巫女として、サニハであるこの男子に全面的に依存した生活を送っていたのです。 この男子については魏には隠された影の夫であろうという説があり、また情人だという穿ったことを言う者もいますが、巫女やサニハは神に仕える清浄なる者として独身であることが求められました。

それだけに巫女とサニハは夫婦以上の強い絆で結ばれていました。巫女は女性ですが、一般にサニハは男性が多いようです。理性的な男性の方がサニハに適しているからでしょう。この文から俗世間からは隔絶した巫女やサニハの特異な日常生活が窺えます。

このペースで行くと何時のことになるか分かりませんが、卑弥呼とサニハの具体的な関係にも触れてみたいと思っています。要点を言うと卑弥呼が神話の天照大神であるのに対し、サニハは蛭子(ひるこ)であろうということです。

天照大神は別名をオオヒルメと言いますが、神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っています。後世には「る」の音が消滅して「ヒルコ」はヒコ(彦)になり、ヒルメはヒメ(姫)になります。

六世紀の古墳に二基を接合した例を知りません。卑弥呼が死んで墓が造られた時、そばにこの男子(蛭子)の墓も造られたと考えます。斉明天皇の筑紫西下までは卑弥呼の墓であることが知られていたが、卑弥呼が斉明天皇にすり変えられて、御陵山は斉明天皇の墓とされるようになったのでしょう。付近に神功皇后の伝承が多いことも忘れてはならないでしょう。

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