2009年9月8日火曜日

投馬国

投馬国は「水行二十日」となっていますが、これは海に面した国だということであり、田熊・土穴の南の海といえば有明海です。投馬国は有明海に面した筑後と考えるのがよいようです。邪馬台国の戸数は七万、奴国は二万であり、それに対し投馬国は五万ですが、七万、二万に対する五万といえば筑後全体だと考えるのがよいでしょう。

地図はその位置関係を示したものですが、当時、筑後川の下流部は広大な湿地帯であったことが考えられます。倭人伝の国名を見ると地勢を国名にしているものが見られますが、私は投馬国という国名は、三潴郡(みずまぐん)の「潴」の音を表記したものであり、低湿地帯を意味する国名だと考えています。

土着豪族の水沼君の「水沼」も同じような意味を持つのでしょうが、筑後川下流域は低湿地帯が広がっており、投馬国の面積は現在よりも狭かったことが考えられます。

地図を見ると卑弥呼がなぜ甘木・朝倉を国都にしなければならなかったが理解できます。北は奴国であり、西(北西)が邪馬台国の主要部であり、南は投馬国ですが、卑弥呼共立の経過からも分かるように、卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならなかったのです。

私は卑弥呼姉弟は投馬国の王族ではなかったかと考えています。三郡山地の東側には立岩遺跡以外に甕棺墓が見られません。三郡山地を境にして異質の文化が存在しそれが対立していたように思われます。その対立が倭国大乱の遠因であり、卑弥呼共立の原因でもあったと考えます。投馬国はその対立の圏外にあり、その王族の卑弥呼姉弟が倭国を統治するようになると考えます。

継体天皇21年(6世紀前半ころ)、筑紫君磐井が火の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)に勢力を張って反乱を起こしましたが、筑紫の御井郷(三井郡)で交戦し磐井は殺され、磐井の子、葛子は父の罪に連座するのを恐れて糟屋屯倉(福岡県糟屋)を献じて罪を贖ったと言われています。

磐井が生前に造っていたのが八女市の岩戸山古墳だとされていて、磐井の本拠は筑後八女郡です。投馬国は八女郡を中心とした筑後であり、磐井は卑弥呼姉弟の末裔に当たるのではないか考えています。磐井は継体天皇が卑弥呼(天照大神)の王権を継承していないと考えて、天皇が大和入りした翌年に蜂起したのだと思います。

これで倭人伝に登場してくる国は全て触れましたが、女王国は北部九州に在りました。面土国の存在を認め、それを宗像郡と考えると、倭人伝が説明しようとしているのは主に筑紫(筑前・筑後)であることが分かってきます。

冊封体制には「王城を去ること三百里」以上を支配してはならないという職約(義務)がありました。その王城を中心にした300里以内が「稍」ですが、女王国(稍筑紫)の東には出雲や大和を中心とする稍が存在し、それぞれ王がいました。そのことについては追々に触れていきますが、これで一応邪馬台国の位置論は終わりにします。

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