『日本書紀』神功皇后紀は『魏志』倭人伝などの文を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与だと思わせようとしており、これを認める説もありますが、白鳥庫吉はこれを誤りだとして、天の岩戸の神話と卑弥呼の死の前後の様子がよく似ていると述べ、そのことを「その状態の酷似すること、何人も之を否認すること能はざるべし」と言っています。
この白鳥庫吉の考えに反論したのが、白鳥の弟子の津田左右吉で、『津田左右吉全集』別巻序文には二人の間に論争があったことが述べられています。論争は決着しなかったようですが、津田左右吉は次ぎのようなことを言ったでしょう。意訳しています。
ところが支那の文献に見えるこれらの記事は記紀によって伝えられている神話の物語とは、何の接触点もなく、まったく交渉のないものである。(宋書以下の歴史書にみえる倭は、同じく倭と記されていても、それは記紀の言い伝えと対照できるから、その性質が違う)実際に『魏志』によると三世紀のツクシ地方は政治の上で、それより東方の勢力に服属していないことが明らかであり、そうしてこの状態は、さかのぼってはすくなくとも後漢時代、つまり一、二世紀にも、また下がっては少なくとも、邪馬台の勢力が晋に貢物を献上していた時、つまり三世紀の終わりに近いころまで同じだったと考えられ、その考えがまちがいだという証拠はなにもないから、この地方は三世紀より前にヤマトの朝廷によって統一された国家の組織にはいっていなかったと見なければならず、それは支那の文献の記事と記紀の物語とがたがいに交渉のないものである、という事実に応ずるものである。
ここでは特に『魏志』倭人伝が意識されています。「宋書以下の歴史書に見える倭」とは、いわゆる倭の五王が宋(そう、四二〇~四七九)に朝鮮半島の支配を認めさせようとした時代以後という意味で、倭の五王の時代以後は『古事記』『日本書紀』の物語と中国の文献とを対照させることができるが、それ以前は対照させることができない。したがって神話の物語とは何の接触点もなく、まったく交渉のないものだというのです。
津田流論法でよく理解できないのですが、那珂道世が『上代年代考』などで、神武天皇の即位を紀元前後としていることを問題にしたいようです。那珂道世は神武天皇元年が辛酉の年とされていることから、辛酉の年に革命が起きるという『辛酉革命説』に従って、推古天皇九年(六〇一)を基点とし、その一蔀(ぼう)(二一元、一二六〇年)前の紀元前六六〇年が神武天皇元年とされたとしています。
しかし初期の天皇の在位年数が異常に長いことや、その所伝に矛盾が多いことなどから、平均在位年数を三〇年と見て、紀元前後に実在した人物だと考えました。那珂道世の論考は神武紀元の問題だけでなく、神話は史実ではないとする風潮を強め、今日でも細部についてはともかくも、基本的には通説になっています。
津田左右吉は邪馬台国は九州にあったと考えています。そしてツクシ地方が政治の上で1,2世紀に東方の勢力に服属していないことは明らかだとしていますが、この東方の勢力とは大和朝廷のことを言っているのでしょう。大和朝廷の成立が紀元前後なら、それよりも五代前の天照大御神が三世紀の卑弥呼、台与であるはずがないと言いたいようです。
0 件のコメント:
コメントを投稿