国道3号線は宗像から三郡山地に沿うようにして筑後・肥後に達しています。その狭隘部、二日市地峡の北の入り口、春日丘陵は弥生遺跡が密集し、考古学者の間では弥生銀座と呼ばれ、その出土品には目を見張るものがあります。その中心的存在が須玖岡本遺跡で、前漢鏡三五面、銅剣、ガラス製品などが出土しています。
私は須玖岡本遺跡の年代を通説よりも数十年新しく見て、一世紀の初めのものだと考えています。五七年に奴国王が遣使し「漢委奴国王」の金印を授与されていますが、通説では須玖岡本遺跡の主は奴国王だとされています。しかし福岡平野は奴国ではなく邪馬台国です。戸数七万の邪馬台国は前漢時代百余国の内の何ヶ国かが併合されたもので、そうした国の王の一人と見るのがよいようです。
本稿ではこの王を那珂海人の王と呼ぶことにします。 那珂海人とは志賀島の阿曇海人、宗像郡の宗像海人に対応させたもので、筑前那珂郡を本拠とする海洋民で、後世に住吉神社や警固神社を奉祭するようになる海人集団という意味です。
現在の須玖岡本遺跡は那珂川、三笠川の沖積が進み、埋め立てが行われて海岸線から遠くなっていますが、当時は海岸線から二キロほどだったと言われています。その那珂川と三笠川に挟まれた陸地が那珂海人の活動する場所でした。
その北には博多湾を隔てて「海の中道」と、金印の出土した志賀島があり、志賀島には志賀海神社が鎮座しています。志賀島は海洋民として知られる古代豪族、阿曇氏の発祥の地であり、阿曇氏が玄界灘の航行に従事したことは、各地に綿津見神が祭られていることなどでも知ることができます。
住吉神社、志賀海神社は『古事記』『日本書紀』の神話に起源を持つ古社で、黄泉国から逃げ帰ったイザナギは「竺紫の日向(つくしのひむか)の橘の小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あわぎがはら)」で禊(みそぎ)をして、住吉神社の筒之男三神、志賀海神社の綿津見三神などを生んだとされています。
もとよりこれは神話上のもので、日向とあることから宮崎市にも伝承地がありますが、この神話は須玖岡本と住吉神社・志賀海神社を結ぶ線上、あるいはその付近の博多湾岸で生まれたと考えています。
私はかつて居たであろう那珂海人の王の活動の記憶が、イザナギの神話になったと考えていますが、須玖岡本遺跡の主もイザナギのモデルのひとりであろうし、阿曇海人、住吉海人の遠祖たちもそのモデルになっていると思っています。その人達が福岡平野、二日市地峡、甘木平野を併合していき、戸数七万の邪馬台国を形成することになるのでしょう。
通説では福岡平野は奴国とされていて、その根拠のひとつとして志賀島から金印が出土したことがあげられていますが、福岡平野が奴国なら金印は福岡平野のどこかに埋められそうなもので、志賀島に金印が埋められたのには別の理由がありそうです。
私は志賀島が神話のオノゴロ嶋のモデルだと考えています。イザナギ、イザナミ二神はオノゴロ嶋に天の御柱を見立て(見なして)、その柱を回って国を生み神々を生みます。その中心がオノゴロ嶋だとされているようで、阿曇・那珂海人は志賀島がそのオノゴロ嶋だとして神聖視したようです。
五七年と一〇七年の間のある時、おそらくは一〇七年に近いころ奴国王から面土国王に倭の支配権が移りますが、この時に金印は志賀島に埋められたと考えています。それは阿曇・那珂・宗像などの海人の海洋祭祀に係わるものだったように思われます。
国生み・神生みの神話の舞台になっているこの地域が、倭人伝の邪馬台国であったことは考えられてもよいことです。ところが邪馬台国という国名からは海人の国であるとは考えられず、むしろ山に関係する国名のように思われます。ということは、邪馬台国には海に近い部分と山に近い部分があり、本来の邪馬台国は山の部分だということでしょう。
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