倭人伝の記事は台与が王になった時点で終わっており、倭人伝からはその後のことは分かりません。しかし『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも、国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、并せて中国の爵命を受ける
この文には臺與(台与)の後に、また男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は、中国(おそらく晋ではなく魏)が倭王に冊封したということですが、并には二人が前後に並び、それを一組にするという意味があり、台与と男王の二人の王がいると考えないといけません。
このことが無視されていることが不思議なのですが、その原因は『日本書紀』神功皇后紀が266年の倭人の遣使を神功皇后が行ったと思わせようとしていることにあります。しかし『梁書』『北史』の「その後また男王を立て、并べて中国の爵命を受ける」から別の考え方ができます。
266年の倭人の遣使までに女王制は有名無実になっており、台与の後の男王が立てられるようです。卑弥呼死後の男王がオシホミミであるのなら、台与の後の男王はホノニニギということになります。天孫降臨の神話は、台与の後の男王の時代に侏儒国が併合されたことが語られているようです。
遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主とせむと欲す。然も彼地に多に蛍火の光く神、および蠅聲す邪しき神有り。複草木咸に能く言語有り。
ニニギ(邇々芸命・瓊瓊杵尊)は台与の後の男王ですが、台与を退位させて男王を立てようとしたが、それに反対する者があったというのです。それが「蛍火の光く神、及び蠅聲(さばえな)す邪(あ)しき神」であり、「草木咸(ことごとく)に、よく言うこと有り」と説明さています。
草木とは政治に関与することが許されない名もない庶民のことで、それらの者までが陰で批判しているというのです。私はこの批判をかわすために台与と、その後継の男王という、二人の王のいる時期があったと考えています。その男王がホノニニギなのでしょう。
ホノニニギは葦原中国の統治を命ぜられて日向の高千穂の峰に降臨しますが、日向三代の神話は侏儒国に女王国の支配が及んで来たことが語られているようです。王の支配地は冊封体制によって稍、つまり六百里四方に制限されていて、六百里四方の外側は隣の国で別の王が支配しています。ホノニニギが高千穂の峰に降臨したのは、九州南半の稍(稍O)を支配する王に冊封されたということだと思っています。
ホノニニギには天孫降臨という重責のわりには事績がなく、オシホミミとホホデミの系譜を中継しているだけのように見えます。ニニギと木花之佐久夜毘売の間に、火照命・火須勢理命・火遠理命の三神が生まれますが、津田左右吉はニニギを中心とする物語は高千穂の峰に下ったことと、国つ神の娘をめとってホホデミを生んだことであり、その子のホホデミは、もともとは海幸彦、山幸彦とは関係がなく、ヤマトへの東征の主人公であったとしています。
2009年9月27日日曜日
忍穂耳命
卑弥呼の死後に男王が立ちますが、国中が服さず千余人が殺される争乱が起きました。神話では卑弥呼の死と台与の共立が天の岩戸に隠もった天照大神が引き出されたと語られていますが、天照大神が岩戸に隠もっている間に卑弥呼の死後の男王が立ったことになります。
神話では天の岩戸の後にはスサノヲが追放されて出雲に降り、マタノオロチを退治することになっていますが、天の岩戸の神話には男王が立ったことを表す部分がありません。しかしオオクニヌシの国譲りの後にオシホミミ(忍穂耳命)が葦原中国に降臨することになっています。
天照大神はオシホミミに葦原中国の統治を命じますが、統治を命ぜられたのは高天が原ではなくて葦原中国であることに注目する必要があります。『日本書紀』本文は次のように記しています。
是の時に、勝速日天忍穂耳尊、天浮橋に立たして、臨睨り(おせり)て曰はく「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国か」とのたまひて、乃ち更に還り登りて、具に降りまさざる状を陳す
「未平(さや)げり」は平らでないということで、卑弥呼死後の争乱を意味しているようです。「不須也(いな)」は不用である、要らないという意味です。「頗傾(かぶ)」は曲がり傾いていること、「凶目杵之国(しこめきくに)」は不安定で平らかでなく悪い国だという意味です。
オシホミミは葦原中国に降るために天の浮橋(あめのうきはし)まで来ますが、下界を見ると葦原中国は頑迷で乱れており不安定な所です。どうしても降りていく気になれないので高天が原に引き返し、天照大神に降りなかった理由を説明したというのです。
卑弥呼の死後に男王が立ちますが国中が従わず、千余人が殺される争乱になり、台与が共立されます。一方のオシホミミも天の浮橋に立ちながら、下界が騒がしいので引き返しています。倭人伝と神話とではその時期が多少違いますが、男王と忍穂耳尊の立場はよく似ています。
神話は年代を示す方法がなかったので紀伝体になっていて、年代の異なる史実が物語風に纏められています。この部分ではスサノオの追放の物語が喚入されたために別の物語のようになっていますが、卑弥呼の死後の男王はオシホミミなのです。
葦原中国は具体的には出雲ということになっていますが、出雲には律令制出雲國という意味のほかに、銅鐸・銅剣を配布した部族というという意味もあるようです。高天が原が邪馬台国であるのに対し、葦原中国には邪馬台国以外の国という意味もあって、それには面土国や銅戈を配布した部族も含まれているようです。
忍穂耳尊が葦原中国の統治を命ぜられたのは、稍を支配する王と、これを擁立する部族を統一し、倭国を統一国家にしようとする動きがあったということで、卑弥呼の後の男王は単に卑弥呼の後継の王というだけではなかったようです。卑弥呼死後の争乱は銅矛を配布した部族と、銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立でした。
私が降りようと衣装を整えている間に子供が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志 天津日高日子番能邇々芸命です。この子を降すのがよいでしょう」といわれた
結局、降臨したのはオシホミミではなく、子の穂のホノニニギ(番能邇々芸命・瓊瓊杵尊)ですが、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれ、面土国王家は滅び、銅戈を配布した部族も消滅します。もはや女王は不必要になり男王が立てられますが、これがホノニニギです。それを画策したのは大倭(タカミムスヒ)や難升米(オモイカネ)などの、台与のブレーンたちだったのです。
神話では天の岩戸の後にはスサノヲが追放されて出雲に降り、マタノオロチを退治することになっていますが、天の岩戸の神話には男王が立ったことを表す部分がありません。しかしオオクニヌシの国譲りの後にオシホミミ(忍穂耳命)が葦原中国に降臨することになっています。
天照大神はオシホミミに葦原中国の統治を命じますが、統治を命ぜられたのは高天が原ではなくて葦原中国であることに注目する必要があります。『日本書紀』本文は次のように記しています。
是の時に、勝速日天忍穂耳尊、天浮橋に立たして、臨睨り(おせり)て曰はく「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国か」とのたまひて、乃ち更に還り登りて、具に降りまさざる状を陳す
「未平(さや)げり」は平らでないということで、卑弥呼死後の争乱を意味しているようです。「不須也(いな)」は不用である、要らないという意味です。「頗傾(かぶ)」は曲がり傾いていること、「凶目杵之国(しこめきくに)」は不安定で平らかでなく悪い国だという意味です。
オシホミミは葦原中国に降るために天の浮橋(あめのうきはし)まで来ますが、下界を見ると葦原中国は頑迷で乱れており不安定な所です。どうしても降りていく気になれないので高天が原に引き返し、天照大神に降りなかった理由を説明したというのです。
卑弥呼の死後に男王が立ちますが国中が従わず、千余人が殺される争乱になり、台与が共立されます。一方のオシホミミも天の浮橋に立ちながら、下界が騒がしいので引き返しています。倭人伝と神話とではその時期が多少違いますが、男王と忍穂耳尊の立場はよく似ています。
神話は年代を示す方法がなかったので紀伝体になっていて、年代の異なる史実が物語風に纏められています。この部分ではスサノオの追放の物語が喚入されたために別の物語のようになっていますが、卑弥呼の死後の男王はオシホミミなのです。
葦原中国は具体的には出雲ということになっていますが、出雲には律令制出雲國という意味のほかに、銅鐸・銅剣を配布した部族というという意味もあるようです。高天が原が邪馬台国であるのに対し、葦原中国には邪馬台国以外の国という意味もあって、それには面土国や銅戈を配布した部族も含まれているようです。
忍穂耳尊が葦原中国の統治を命ぜられたのは、稍を支配する王と、これを擁立する部族を統一し、倭国を統一国家にしようとする動きがあったということで、卑弥呼の後の男王は単に卑弥呼の後継の王というだけではなかったようです。卑弥呼死後の争乱は銅矛を配布した部族と、銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立でした。
私が降りようと衣装を整えている間に子供が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志 天津日高日子番能邇々芸命です。この子を降すのがよいでしょう」といわれた
結局、降臨したのはオシホミミではなく、子の穂のホノニニギ(番能邇々芸命・瓊瓊杵尊)ですが、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれ、面土国王家は滅び、銅戈を配布した部族も消滅します。もはや女王は不必要になり男王が立てられますが、これがホノニニギです。それを画策したのは大倭(タカミムスヒ)や難升米(オモイカネ)などの、台与のブレーンたちだったのです。
2009年9月26日土曜日
高御産巣日神 その2
タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)は神話の冒頭で高天が原にいる「別天つ神」とされていて、イザナキ、イザナミ二神に至る、いわゆる神世七代とは別系統の神だと書かれています。イザナギ、イザナミ二神もスサノヲも高天が原の神ではありません。
また『日本書記』本文は天照大神も元から高天が原に居たのではなく、「天の御柱」によって、天に送り上げられたとしていますから、高天が原の元来の神はタカミムスビとその眷族、及びそれに従属する神ということになります。卑弥呼は邪馬台国の王だという人がいますが、王都が邪馬台国にあったというだけで 、邪馬台国の王ではありません。
天地が初めて明かになった時に、高天が原に現われた神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神である。この三柱の神は単独の神として現れ、身を隠された。次に国が稚く、浮かんでいる脂のようで、くらげのようにただよっている時、葦の牙が萌え上がるように現われた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神、この二神も単独の神として現れ、身を隠された
上の件の五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)である
戸数7万の邪馬台国は律令制の郡程度の面積を持つ部族国家が統合されたものです。私は人口密度の高い所では、1郡当り7千戸ほどではなかったと考えています。福岡平野の那珂川・御笠川流域にそうした部族国家があり、その王がイザナギですが、イザナギは那珂(なか)海人の王です。
タカミムスビが大倭であれば、大倭もそうした郡程度の大きさの部族国家の王であることが考えられ、その国が元来の邪馬台国のようです。私はそれを甘木・朝倉地方だと考えています。
神話には「天の安川」という川が登場してきますが、天照大神が岩戸に籠もったので八百万の神々が「天の安の河原」に集まったとされています。甘木市の近くに夜須という地名があり小石原川という川があります。別名を「夜須川」とも呼ばれていますが、安本美典氏はこの小石原川の周辺に髙木神社が多いことを指摘しています。
大倭は小石原川の周辺に居たように思われます。小石原川の河原に広場があり平素は河原で市が開かれており、大倭が市を管理していたのでしょう。その広場は非常時には宗族長が召集されて討議の場になったようです。
私は大和の纏向遺跡も弥生時代にはそうした広場であったものが、古墳時代に政治の場になっていくと考えています。出雲の斐伊川河口にもそうした広場があり、そこは出雲の特殊神事の神在祭の舞台になっています。
甘木平野にあった邪馬台国に卑弥呼が都を置くように画策した人物が「別天つ神」(ことあまつかみ)の最初の天之御中主神のようです。卑弥呼が都を置いたことによりタカミムスビ、すなわち大倭は女王国の経済を支配し、倭人社会の実力者になっていったと考えられます。
女王国の経済を支配することによって女王制を操作していたと推察するのですが、もとより王は卑弥呼ですから大倭が表面に出ることはなく陰の実力者です。大倭は女王国の経済を支配している実力者でしたが、タカミムスビの孫はホノニニギであり、『日本書記』本文は「皇祖高皇産霊尊」としています。
このように見てくると台与は実質のない飾りの女王で、事実上の倭王は大倭であり、大倭は皇祖に位置づけられることになる人物であったことが考えられてきます。
また『日本書記』本文は天照大神も元から高天が原に居たのではなく、「天の御柱」によって、天に送り上げられたとしていますから、高天が原の元来の神はタカミムスビとその眷族、及びそれに従属する神ということになります。卑弥呼は邪馬台国の王だという人がいますが、王都が邪馬台国にあったというだけで 、邪馬台国の王ではありません。
天地が初めて明かになった時に、高天が原に現われた神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神である。この三柱の神は単独の神として現れ、身を隠された。次に国が稚く、浮かんでいる脂のようで、くらげのようにただよっている時、葦の牙が萌え上がるように現われた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神、この二神も単独の神として現れ、身を隠された
上の件の五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)である
戸数7万の邪馬台国は律令制の郡程度の面積を持つ部族国家が統合されたものです。私は人口密度の高い所では、1郡当り7千戸ほどではなかったと考えています。福岡平野の那珂川・御笠川流域にそうした部族国家があり、その王がイザナギですが、イザナギは那珂(なか)海人の王です。
タカミムスビが大倭であれば、大倭もそうした郡程度の大きさの部族国家の王であることが考えられ、その国が元来の邪馬台国のようです。私はそれを甘木・朝倉地方だと考えています。
神話には「天の安川」という川が登場してきますが、天照大神が岩戸に籠もったので八百万の神々が「天の安の河原」に集まったとされています。甘木市の近くに夜須という地名があり小石原川という川があります。別名を「夜須川」とも呼ばれていますが、安本美典氏はこの小石原川の周辺に髙木神社が多いことを指摘しています。
大倭は小石原川の周辺に居たように思われます。小石原川の河原に広場があり平素は河原で市が開かれており、大倭が市を管理していたのでしょう。その広場は非常時には宗族長が召集されて討議の場になったようです。
私は大和の纏向遺跡も弥生時代にはそうした広場であったものが、古墳時代に政治の場になっていくと考えています。出雲の斐伊川河口にもそうした広場があり、そこは出雲の特殊神事の神在祭の舞台になっています。
甘木平野にあった邪馬台国に卑弥呼が都を置くように画策した人物が「別天つ神」(ことあまつかみ)の最初の天之御中主神のようです。卑弥呼が都を置いたことによりタカミムスビ、すなわち大倭は女王国の経済を支配し、倭人社会の実力者になっていったと考えられます。
女王国の経済を支配することによって女王制を操作していたと推察するのですが、もとより王は卑弥呼ですから大倭が表面に出ることはなく陰の実力者です。大倭は女王国の経済を支配している実力者でしたが、タカミムスビの孫はホノニニギであり、『日本書記』本文は「皇祖高皇産霊尊」としています。
このように見てくると台与は実質のない飾りの女王で、事実上の倭王は大倭であり、大倭は皇祖に位置づけられることになる人物であったことが考えられてきます。
2009年9月25日金曜日
高御産巣日神 その1
倭人伝は国々に市があり大倭が「之を監せしむ」(管理している)と述べていますが、従来のこの文の前後の解釈には問題があり、検討が必要なようです。大倭については、①倭人中の大人とする説、②邪馬台国の設置した官とする説、③大和朝廷のこととする説の三説があります。
租賦を収めるに邸閣有り。国国に市有り有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。自女王国以北に特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国は之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於て(国中に於ける?)刺史の如き有り、王の遣使の京都、帯方郡、諸韓国に詣でるに・・(略)
この文について東洋史の植村清二氏は、交易と大倭とは関係がなく、大倭は一大率を管理しているのだと解釈し、一大率に諸国を検察させている大倭は、大和に有った国の高官だとしています。一大率はあたかも中国の州刺史のようなものであり、諸国を検察し、また津(港)で捜露しているのだとしています。
「邪馬台国と面土国 その6」で述べたようにこの解釈はたいへんな誤解で、一大率があたかも中国の州刺史のようなものだというのと、面土国王が「自女王国以北」の国を州刺史のように支配しているのとでは大変な違いです。一大率があたかも中国の州刺史のようだと最初に解釈したのは植村氏のようです。
一大率があたかも中国の州刺史のようだという解釈は大和朝廷、あるいはそれに代わる邪馬台国=畿内説を前提にしなければいけませんが、今まで述べてきたように邪馬台国=畿内説は成立せず、大和朝廷もまだ成立していません。植村氏の説は成立しないのです。
従って大倭は租賦(租税)や市を管理しているのだと考えなければいけませんが、私は①の倭人中の大人とする説と、②の邪馬台国の設置した官とする説を折半したものが大倭だと考えています。面土国王は刺史の如く「自女王国以北」を支配し、大倭は市場や交易などの経済を管理、支配しており、一大率は軍事を担当しており、それぞれ役割を分担しているのです。
政治も経済抜きでは運営できませんから、大倭は女王国を陰で操っている実力者だったのでしょう。大倭という文字の意味からもそのように考えることができますが、天の岩戸以後活動する神の中にいかにもそれらしい神がいます。タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)です。この神は神話の冒頭にも高天が原にいる五柱の別天つ神(ことあまつかみ)として出てきます。
この神は天の岩戸以前には活動が見られず、それ以後に天照大御神とペアで、時には単独で神々に指令を出すようになります。つまり卑弥呼の時代には活動が見られず、台与の時代になると台与と対等か、それ以上に活動するようになるのです。
台与が即位して間もなく面土国王と、それを擁立した銅戈を配布した部族が滅ぼされ女王制は有名無実になっていきます。これがスサノオの高天が原からの追放ですが、その後事実上の倭王になったのが大倭で、これがタカミムスビなのです。
租賦を収めるに邸閣有り。国国に市有り有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。自女王国以北に特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国は之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於て(国中に於ける?)刺史の如き有り、王の遣使の京都、帯方郡、諸韓国に詣でるに・・(略)
この文について東洋史の植村清二氏は、交易と大倭とは関係がなく、大倭は一大率を管理しているのだと解釈し、一大率に諸国を検察させている大倭は、大和に有った国の高官だとしています。一大率はあたかも中国の州刺史のようなものであり、諸国を検察し、また津(港)で捜露しているのだとしています。
「邪馬台国と面土国 その6」で述べたようにこの解釈はたいへんな誤解で、一大率があたかも中国の州刺史のようなものだというのと、面土国王が「自女王国以北」の国を州刺史のように支配しているのとでは大変な違いです。一大率があたかも中国の州刺史のようだと最初に解釈したのは植村氏のようです。
一大率があたかも中国の州刺史のようだという解釈は大和朝廷、あるいはそれに代わる邪馬台国=畿内説を前提にしなければいけませんが、今まで述べてきたように邪馬台国=畿内説は成立せず、大和朝廷もまだ成立していません。植村氏の説は成立しないのです。
従って大倭は租賦(租税)や市を管理しているのだと考えなければいけませんが、私は①の倭人中の大人とする説と、②の邪馬台国の設置した官とする説を折半したものが大倭だと考えています。面土国王は刺史の如く「自女王国以北」を支配し、大倭は市場や交易などの経済を管理、支配しており、一大率は軍事を担当しており、それぞれ役割を分担しているのです。
政治も経済抜きでは運営できませんから、大倭は女王国を陰で操っている実力者だったのでしょう。大倭という文字の意味からもそのように考えることができますが、天の岩戸以後活動する神の中にいかにもそれらしい神がいます。タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)です。この神は神話の冒頭にも高天が原にいる五柱の別天つ神(ことあまつかみ)として出てきます。
この神は天の岩戸以前には活動が見られず、それ以後に天照大御神とペアで、時には単独で神々に指令を出すようになります。つまり卑弥呼の時代には活動が見られず、台与の時代になると台与と対等か、それ以上に活動するようになるのです。
台与が即位して間もなく面土国王と、それを擁立した銅戈を配布した部族が滅ぼされ女王制は有名無実になっていきます。これがスサノオの高天が原からの追放ですが、その後事実上の倭王になったのが大倭で、これがタカミムスビなのです。
2009年9月24日木曜日
蛭児 その2
卑弥呼の鬼道とは神憑りして神の託宣を伝えるシャーマニズムのようです。律令が整備されていない時代には慣習や前例が法になっていました。後の大和朝廷でこれを職掌としたのが中臣氏(藤原氏)です。しかし慣習や前例がない場合にはシャーマンの下す託宣が法になりました。
今のイギリス憲法も形式的にはそうなっているようで、シャーマンの役割はイングランド王になるようです。また日本では国会で討議して新しい法律を決議し、天皇が認証するという形になります。卑弥呼の場合には討議は重臣たちが行なっていたでしょうが、決議案の採択の部分を神の託宣とすることのできる立場にいたと思います。
卑弥呼の鬼道については当時中国で流行していた道教と関係付ける説があり、他にも奇妙な説を見かけますが、その重臣と卑弥呼を結び付けるのがサニハ(審神者)なのです。
名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす
女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。この男子については卑弥呼の弟と見る説がありますが、文脈上からみて弟とするのには無理があります。
卑弥呼の弟がツキヨミであるのに対し、卑弥呼の居所に出入りしている男子はヒルコ(蛭兒)と見るのがよいようで、ヒルコはサニハ(審神者)のようです。『日本書紀』本文は蛭兒について次のように記しています
次ぎに蛭兒を生まれた。すでに三歳になるのに脚が立たなかった。そこで天磐樟船に乗せて、風のままに放ち捨てた。
『古事記』にもイザナギ・イザナミ2神が水蛭子を生んだという同じような記事がありますが、『古事記』の神話は島を生む物語ですから両者は無関係と考えるのがよいようです。
卑弥呼の元に出入りする男子については魏には内緒にされた影の夫であろうとか、情人だという穿ったことが言われています。孝謙天皇と弓削道鏡との関係にも同じようなことがいわれていますが、それは俗世間から見た邪推です。巫女やサニハは神のお告げに誤りが生じないように俗事に係わることを避けますから、独身であることが求められていました。
神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っているのです。『先代旧事本記』は天照大神を大日靈女貴尊(おおひるめむちのみこと)とし、蛭子を大日靈子貴尊(おおひるこむちのみこと)としていますが、換言すると女性の大蛭女(おおひるめ)に相対する男性が蛭子(ひるこ)ということになります。
巫女にしてもサニハにしても霊感が働かなければならずそれには修行も必要で、子供が三歳くらいになると自我が芽生えてきて、能力の有無が判ってきます。能力の有る子供は俗世間から隔離されて、巫女なりサニハなりの修行をしました。
私は伊都国は福岡県田川郡だと考えていますが、田川郡で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。ヒメは五色の着物を着ていて、何事でも見通す力を持っているが、その姿は修行を積んだ者だけに見えるということです。
修行を積んだ者だけに姿が見えるということから見て香春神社の祭神の豊比売神か、宇佐神宮の比売大神のことを言っているのでしょうが、巫女にしてもサニハにしても修行が必要であり、ヒルコが三歳になるまで脚が立たなかったので船に乗せて捨てたというのは、サニハとして俗世間とは隔絶した社会にいることを表しているようです。
福岡県朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の背後の山は御陵山と呼ばれていて、朝倉で病死した斉明天皇の殯陵という伝説のある古墳があります。「邪馬台国その6」で卑弥呼の墓ではないかと述べましたが、6世紀の古墳に2基を接合した例を知りません。
卑弥呼の元に出入りする男子は飲食の給仕までしていました。卑弥呼はその男子に全面的に依存した生活を送っていたようです。二人は神事に携わる者として男女の間柄を超えた強い絆で結ばれていたようです。卑弥呼が死んで墓が造られた時、人々はそばにこの男子(蛭児)の墓を造ってやったのでしょう。
今のイギリス憲法も形式的にはそうなっているようで、シャーマンの役割はイングランド王になるようです。また日本では国会で討議して新しい法律を決議し、天皇が認証するという形になります。卑弥呼の場合には討議は重臣たちが行なっていたでしょうが、決議案の採択の部分を神の託宣とすることのできる立場にいたと思います。
卑弥呼の鬼道については当時中国で流行していた道教と関係付ける説があり、他にも奇妙な説を見かけますが、その重臣と卑弥呼を結び付けるのがサニハ(審神者)なのです。
名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす
女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。この男子については卑弥呼の弟と見る説がありますが、文脈上からみて弟とするのには無理があります。
卑弥呼の弟がツキヨミであるのに対し、卑弥呼の居所に出入りしている男子はヒルコ(蛭兒)と見るのがよいようで、ヒルコはサニハ(審神者)のようです。『日本書紀』本文は蛭兒について次のように記しています
次ぎに蛭兒を生まれた。すでに三歳になるのに脚が立たなかった。そこで天磐樟船に乗せて、風のままに放ち捨てた。
『古事記』にもイザナギ・イザナミ2神が水蛭子を生んだという同じような記事がありますが、『古事記』の神話は島を生む物語ですから両者は無関係と考えるのがよいようです。
卑弥呼の元に出入りする男子については魏には内緒にされた影の夫であろうとか、情人だという穿ったことが言われています。孝謙天皇と弓削道鏡との関係にも同じようなことがいわれていますが、それは俗世間から見た邪推です。巫女やサニハは神のお告げに誤りが生じないように俗事に係わることを避けますから、独身であることが求められていました。
神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っているのです。『先代旧事本記』は天照大神を大日靈女貴尊(おおひるめむちのみこと)とし、蛭子を大日靈子貴尊(おおひるこむちのみこと)としていますが、換言すると女性の大蛭女(おおひるめ)に相対する男性が蛭子(ひるこ)ということになります。
巫女にしてもサニハにしても霊感が働かなければならずそれには修行も必要で、子供が三歳くらいになると自我が芽生えてきて、能力の有無が判ってきます。能力の有る子供は俗世間から隔離されて、巫女なりサニハなりの修行をしました。
私は伊都国は福岡県田川郡だと考えていますが、田川郡で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。ヒメは五色の着物を着ていて、何事でも見通す力を持っているが、その姿は修行を積んだ者だけに見えるということです。
修行を積んだ者だけに姿が見えるということから見て香春神社の祭神の豊比売神か、宇佐神宮の比売大神のことを言っているのでしょうが、巫女にしてもサニハにしても修行が必要であり、ヒルコが三歳になるまで脚が立たなかったので船に乗せて捨てたというのは、サニハとして俗世間とは隔絶した社会にいることを表しているようです。
福岡県朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の背後の山は御陵山と呼ばれていて、朝倉で病死した斉明天皇の殯陵という伝説のある古墳があります。「邪馬台国その6」で卑弥呼の墓ではないかと述べましたが、6世紀の古墳に2基を接合した例を知りません。
卑弥呼の元に出入りする男子は飲食の給仕までしていました。卑弥呼はその男子に全面的に依存した生活を送っていたようです。二人は神事に携わる者として男女の間柄を超えた強い絆で結ばれていたようです。卑弥呼が死んで墓が造られた時、人々はそばにこの男子(蛭児)の墓を造ってやったのでしょう。
2009年9月23日水曜日
蛭児 その1
卑弥呼は「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」とありますが、この鬼道を当時中国で流行していた道教と関係があるとする説があります。卑弥呼と天照大神が似ているのであれば天照大神に道教の影響が見られるはずですが、見えてくるのは古代神道の一部分であるシャーマニズムであり、道教との関係を思わせるものはありません。
紀元前136年(建元5)、前漢の武帝が儒教を国教にしますが、冊封体制を通じて儒教の宗廟祭祀を重視する思想が倭人に伝わり、縄文時代以来の古代祭祀と習合して神道が生まれると考えています。神道は弥生時代にすでに存在していたと思われます。その神道の重要な要素がシャーマニズムですが、『日本書紀』神功皇后紀にその具体的な記述があります。
神功皇后は神憑りして、夫の仲哀天皇に新羅を討てという神託があったことを伝えますが、仲哀天皇はこれを信じず祟る神があって崩御します。神功皇后紀九年三月条にはその祟る神を知るために、神功皇后が再び神懸かりすることが述べられています。
三月の壬申の朔に、皇后は吉日を選んで、齋宮に入りみずから神主になられた。そして竹内宿禰に命じて琴を弾かせた。中臣烏賊津使主を召し出して審神者にされた。(中略)請いて言われるに「先の日に天皇に教えられたのは何という神でしょうか。願わくはその名を知りたい」と言われた。七日七夜すぎて神が答えて(中略)そこで審神者の言うのに、「今答えられないで、さらに後に言われることがあるでしょうか」
卑弥呼の鬼道には神主(巫女)の神功皇后、サニハ(審神者)の中臣烏賊津使主、琴を弾く竹内宿禰に当たる当事者が必要でした。先に宮参りの時に見られる巫女さんと神主さんが、巫女とサニハの名残りだと書きましたが、竹内宿禰のひく琴は笛や太鼓になります。
笛や太鼓のにぎやかな奏楽の間、巫女さんと神主さんは平伏していますが、これは巫女とサニハが奏楽に導かれて神憑りする所作です。神憑りした巫女は神の託宣を降すのですが、これが巫女さんが鈴を鳴らしながら舞う所作になっています。
竹内宿禰が弾く琴の音に誘導されて巫女である神功皇后と、サニハである中臣烏賊津使主が神憑りするのですが、中臣烏賊津使主のサニハとは、巫女が神憑りして降す神託を通訳する者のことです。卑弥呼の行なう鬼道に於いても同じような光景が見られたはずですが、倭人伝には『王と為りて自り見る有る者少なし」とありますからそれを見た者はいないでしょう。
神功皇后紀に「是に、審神者の曰さく《今答えたまわずして更に後に言ふこと有(ま)しますや》」とあります。これは神功皇后が神に質問しているのではなく、サニハである中臣烏賊津使主が巫女である神功皇后を介して神に質問しています。巫女を介して神と人を結び付けるのがサニハです。
近時の例としては大本教教祖の出口なおと娘婿の出口王仁三郎が巫女とサニハの関係にあることが知られています。孝謙天皇は巫女ではないし道鏡も僧侶であってサニハではありませんが、孝謙天皇は巫女的な性格だったようで、その関係は巫女とサニハの関係に似ているようです。
サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。巫女の下す神の託宣はサニハ以外には意味が理解できず、それは巫女自身にも理解できません。それを通訳するのがサニハですが、サニハの解釈次第で託宣の意味が全く違ってきます。
卑弥呼は巫女であると同時に女王ですから、卑弥呼の下す託宣は政治的な意味を持ちます。それだけに卑弥呼の元でサニハを勤める者の立場は極めて重要でした。 倭人伝にそのような人物が見られます。
卑弥呼の居所には飲食を給仕し、また辞を伝える(伝言する)ために、一人の男子が出入りしていましたが、卑弥呼は巫女ですから辞とは神の託宣ということになります。この男子がサニハだと考えることができます。この男子は中臣烏賊津使主、竹内宿禰に当たるような役割を一人で果たし、さらには飲食の給仕までしていたと考えられます。
紀元前136年(建元5)、前漢の武帝が儒教を国教にしますが、冊封体制を通じて儒教の宗廟祭祀を重視する思想が倭人に伝わり、縄文時代以来の古代祭祀と習合して神道が生まれると考えています。神道は弥生時代にすでに存在していたと思われます。その神道の重要な要素がシャーマニズムですが、『日本書紀』神功皇后紀にその具体的な記述があります。
神功皇后は神憑りして、夫の仲哀天皇に新羅を討てという神託があったことを伝えますが、仲哀天皇はこれを信じず祟る神があって崩御します。神功皇后紀九年三月条にはその祟る神を知るために、神功皇后が再び神懸かりすることが述べられています。
三月の壬申の朔に、皇后は吉日を選んで、齋宮に入りみずから神主になられた。そして竹内宿禰に命じて琴を弾かせた。中臣烏賊津使主を召し出して審神者にされた。(中略)請いて言われるに「先の日に天皇に教えられたのは何という神でしょうか。願わくはその名を知りたい」と言われた。七日七夜すぎて神が答えて(中略)そこで審神者の言うのに、「今答えられないで、さらに後に言われることがあるでしょうか」
卑弥呼の鬼道には神主(巫女)の神功皇后、サニハ(審神者)の中臣烏賊津使主、琴を弾く竹内宿禰に当たる当事者が必要でした。先に宮参りの時に見られる巫女さんと神主さんが、巫女とサニハの名残りだと書きましたが、竹内宿禰のひく琴は笛や太鼓になります。
笛や太鼓のにぎやかな奏楽の間、巫女さんと神主さんは平伏していますが、これは巫女とサニハが奏楽に導かれて神憑りする所作です。神憑りした巫女は神の託宣を降すのですが、これが巫女さんが鈴を鳴らしながら舞う所作になっています。
竹内宿禰が弾く琴の音に誘導されて巫女である神功皇后と、サニハである中臣烏賊津使主が神憑りするのですが、中臣烏賊津使主のサニハとは、巫女が神憑りして降す神託を通訳する者のことです。卑弥呼の行なう鬼道に於いても同じような光景が見られたはずですが、倭人伝には『王と為りて自り見る有る者少なし」とありますからそれを見た者はいないでしょう。
神功皇后紀に「是に、審神者の曰さく《今答えたまわずして更に後に言ふこと有(ま)しますや》」とあります。これは神功皇后が神に質問しているのではなく、サニハである中臣烏賊津使主が巫女である神功皇后を介して神に質問しています。巫女を介して神と人を結び付けるのがサニハです。
近時の例としては大本教教祖の出口なおと娘婿の出口王仁三郎が巫女とサニハの関係にあることが知られています。孝謙天皇は巫女ではないし道鏡も僧侶であってサニハではありませんが、孝謙天皇は巫女的な性格だったようで、その関係は巫女とサニハの関係に似ているようです。
サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。巫女の下す神の託宣はサニハ以外には意味が理解できず、それは巫女自身にも理解できません。それを通訳するのがサニハですが、サニハの解釈次第で託宣の意味が全く違ってきます。
卑弥呼は巫女であると同時に女王ですから、卑弥呼の下す託宣は政治的な意味を持ちます。それだけに卑弥呼の元でサニハを勤める者の立場は極めて重要でした。 倭人伝にそのような人物が見られます。
卑弥呼の居所には飲食を給仕し、また辞を伝える(伝言する)ために、一人の男子が出入りしていましたが、卑弥呼は巫女ですから辞とは神の託宣ということになります。この男子がサニハだと考えることができます。この男子は中臣烏賊津使主、竹内宿禰に当たるような役割を一人で果たし、さらには飲食の給仕までしていたと考えられます。
2009年9月22日火曜日
須佐之男命 その4
イザナギに追放されたスサノオは、暇乞いのために高天が原の天照大神を訪れますが、天照大神は国を奪いに来るのであろうと武装して待ち受けます。これは面土国王が「自女王国以北」の国を中国の刺史のように支配したり、津(港)で女王の使者を捜露するなど、卑弥呼との関係が良いものではなかったことを表しています。その背景には銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立があり、さらには中国の「正閠論」が絡んでいるようです。
そこで八百万の神は共に計らって、速須佐之男命に千位の置戸を負わせ、また髪を切り手足の爪を抜いて追放した
天照大御神が岩戸から出てくると、神々は岩戸にこもった原因はスサノオにあるとして追放します。天照大御神が岩戸から出てくるとは台与が共立されたということで、卑弥呼死後の争乱の原因が面土国王にあるとされていることがわかります。このスサノオが倭人伝の「刺史の如き者」であることは言うまでもありません。
千位の置戸(ちくらのおきど)とは贖い物を置く多くの台ということで、多くの賠償が課せられたということです。鬚を切り手足の爪を抜くのは体刑であり、神やらいは追放で、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれて面土国王やそれに加担した者が処罰されたというのです。
倭人伝の記事は正始八年、つまり天照大神が岩戸から出てきた時点で終わっており、倭人伝の記事からはこのことは分かりません。白鳥庫吉の言うようにスサノオを面土国王ではなく狗奴国の男王や、その官の狗古智卑狗と見ればどうなるでしょうか。途中を省略しますが、結論は神話は史実ではないということになるでしょう。
この部分は神話を無視してはならいことが特によく分かる部分です。面土国の存在を認めることで邪馬台国の位置論が解明できることを述べましたが、神話もまた解明できそうです。さらには青銅祭器の謎を解明することもできそうです。
私は卑弥呼の統治下で広形銅矛a類が造られ、台与の時代以後にb類が作られたと考えています。従ってa類からb類に変化するのは台与が共立された247年ころということになります。広形銅矛は出土量も多くa類とb類がありますが、広形銅戈は中広形と違って数が非常に少なくa類とb類の別がありません。
これは広形銅矛b類が造られた時期には銅戈は造られていなかったということで、広形銅矛b類が造られた時期に面土国王家が滅亡し、銅戈を配布した部族も消滅したということのようです。それは台与共立の一方の当事者が存在しなくなったということであり、女王制が有名無実になったということです。
天照大神は天の岩戸の前後で性格が大きく変わり、天の岩戸以前にはスサノヲの姉として自ら行動しますが、天の岩戸以後には自ら行動することはなく、高御産巣日神とペアで神々に指令を下すだけになります。台与が共立されて間もない250年ころに女王の時代は終わり、高御産巣日神に相当する人物が実質的な倭王になるようです。私は高御産巣日神を倭人伝の大倭だと考えています。
追放されたスサノオは出雲に降(くだ)りヤマタノオロチを退治することになっていますが、編年体の史書と違って紀伝体の神話では年代も時代も違う史実が物語風に纏められています。年代も場所も違う神話がスサノオの追放で結び付けられているのですが、私はスサノオのオロチ退治の神話は倭国大乱が出雲に波及したことが語られていると考えています。
そこで八百万の神は共に計らって、速須佐之男命に千位の置戸を負わせ、また髪を切り手足の爪を抜いて追放した
天照大御神が岩戸から出てくると、神々は岩戸にこもった原因はスサノオにあるとして追放します。天照大御神が岩戸から出てくるとは台与が共立されたということで、卑弥呼死後の争乱の原因が面土国王にあるとされていることがわかります。このスサノオが倭人伝の「刺史の如き者」であることは言うまでもありません。
千位の置戸(ちくらのおきど)とは贖い物を置く多くの台ということで、多くの賠償が課せられたということです。鬚を切り手足の爪を抜くのは体刑であり、神やらいは追放で、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれて面土国王やそれに加担した者が処罰されたというのです。
倭人伝の記事は正始八年、つまり天照大神が岩戸から出てきた時点で終わっており、倭人伝の記事からはこのことは分かりません。白鳥庫吉の言うようにスサノオを面土国王ではなく狗奴国の男王や、その官の狗古智卑狗と見ればどうなるでしょうか。途中を省略しますが、結論は神話は史実ではないということになるでしょう。
この部分は神話を無視してはならいことが特によく分かる部分です。面土国の存在を認めることで邪馬台国の位置論が解明できることを述べましたが、神話もまた解明できそうです。さらには青銅祭器の謎を解明することもできそうです。
私は卑弥呼の統治下で広形銅矛a類が造られ、台与の時代以後にb類が作られたと考えています。従ってa類からb類に変化するのは台与が共立された247年ころということになります。広形銅矛は出土量も多くa類とb類がありますが、広形銅戈は中広形と違って数が非常に少なくa類とb類の別がありません。
これは広形銅矛b類が造られた時期には銅戈は造られていなかったということで、広形銅矛b類が造られた時期に面土国王家が滅亡し、銅戈を配布した部族も消滅したということのようです。それは台与共立の一方の当事者が存在しなくなったということであり、女王制が有名無実になったということです。
天照大神は天の岩戸の前後で性格が大きく変わり、天の岩戸以前にはスサノヲの姉として自ら行動しますが、天の岩戸以後には自ら行動することはなく、高御産巣日神とペアで神々に指令を下すだけになります。台与が共立されて間もない250年ころに女王の時代は終わり、高御産巣日神に相当する人物が実質的な倭王になるようです。私は高御産巣日神を倭人伝の大倭だと考えています。
追放されたスサノオは出雲に降(くだ)りヤマタノオロチを退治することになっていますが、編年体の史書と違って紀伝体の神話では年代も時代も違う史実が物語風に纏められています。年代も場所も違う神話がスサノオの追放で結び付けられているのですが、私はスサノオのオロチ退治の神話は倭国大乱が出雲に波及したことが語られていると考えています。
2009年9月21日月曜日
須佐之男命 その3
魏の曹操は宦官の養子の子でしたが、その子の曹丕は後漢の献帝から禅譲(位を譲り受ける)を受けて魏の皇帝になりました。蜀の劉備は前漢景帝の子、中山王劉勝の子孫と称して、漢王朝再興を大義名分にしました。どちらが後漢王朝の後継王朝として正統かという論争が「正閠論」です。
正閠論は中国でも問題にされており『三国志』を素材にした羅貫中の小説『三国志演義』は劉備を正統とする立場で書かれており、曹操は悪役にされています。判官贔屓ということもあるでしょうが、『三国志演義』にとっては宦官の養子の子の曹操よりも、中山王劉勝の子孫の劉備が正統でなければならなかったのです。
呉は地方豪族の連合政権で「正閠論」の面では不利でしたが、呉の孫氏と蜀の劉氏は「二帝並尊」と呼ばれる盟約を結んでいました。それは呉と蜀の皇帝が対等の立場で同盟し協力して魏を討つというもので、魏の滅亡後の領域まで決めていました。
蜀には大きな国力はありませんでしたが二帝並尊でそれなりの影響力を持っており、魏は呉・蜀と対峙することになります。三国鼎立で中国を中心とする東アジア世界が、魏と呉・蜀という二つの核を持つことになりましたが、それが端的に表れたのが遼東の公孫氏の立場です。
二二八年に呉の孫権が皇帝と称するようになり、そのことを公孫氏に伝えました.呉は魏の背後に位置する公孫氏と連携することが、魏に対する圧力になると考えたのですが、公孫氏の方も保身を図ろうとして呉に服属しようとします。
これが倭国にも大きな影響を与えているようです。二三八年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと、卑弥呼が魏に遣使しています。これは女王国が魏を後漢王朝の後継王朝と認めたということですが、ここで考えなければならないのは、卑弥呼と対立する立場にある者の中には、蜀を正統として呉と連携しようとする者もいたであろうということです。
二世紀末には倭国に大乱が起きて男王を立てることができず、卑弥呼の死後にも男王が立つが争乱が起きています。女王国内には対立する二つの勢力が存在していると見てよいのですが、今まで述べてきたように対立する二つの勢力とは、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族です。
銅戈を配布した部族の側から見ると面土国王こそ正統の倭国王であり、卑弥呼は大乱で男王が立てられないので共立された仮の王ということになります。卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱が起きますが、この争乱は銅戈を配布した部族が面土国王を正統の倭国王と見たことに起因しているようです。
争乱は13歳の台与を共立することで結着しますが、神話の語るところによれば台与の共立を画策したのが難升米(思金神)であり、それを実行に移したのが掖邪狗(手力男神)ということになります。 二人を中心にして台与の共立が進められたのでしょう。
後漢王朝は五七年に奴国王を、また一〇七年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。
最終的に魏は晋の武帝に禅譲し、呉・蜀も晋に降伏していますから、倭人にとっては魏・蜀の「正閠論」は意味がないようにも思えますが、倭人にも影響を与えており、正閠論はスサノオ(面土国王)の6世孫のオオクニヌシが、天照大神(卑弥呼)の孫のニニギに国譲りをすることで決着したとされているようです。
しかしそれは後にも応神天皇以前と以後とを区別するために、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化していくようです。
正閠論は中国でも問題にされており『三国志』を素材にした羅貫中の小説『三国志演義』は劉備を正統とする立場で書かれており、曹操は悪役にされています。判官贔屓ということもあるでしょうが、『三国志演義』にとっては宦官の養子の子の曹操よりも、中山王劉勝の子孫の劉備が正統でなければならなかったのです。
呉は地方豪族の連合政権で「正閠論」の面では不利でしたが、呉の孫氏と蜀の劉氏は「二帝並尊」と呼ばれる盟約を結んでいました。それは呉と蜀の皇帝が対等の立場で同盟し協力して魏を討つというもので、魏の滅亡後の領域まで決めていました。
蜀には大きな国力はありませんでしたが二帝並尊でそれなりの影響力を持っており、魏は呉・蜀と対峙することになります。三国鼎立で中国を中心とする東アジア世界が、魏と呉・蜀という二つの核を持つことになりましたが、それが端的に表れたのが遼東の公孫氏の立場です。
二二八年に呉の孫権が皇帝と称するようになり、そのことを公孫氏に伝えました.呉は魏の背後に位置する公孫氏と連携することが、魏に対する圧力になると考えたのですが、公孫氏の方も保身を図ろうとして呉に服属しようとします。
これが倭国にも大きな影響を与えているようです。二三八年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと、卑弥呼が魏に遣使しています。これは女王国が魏を後漢王朝の後継王朝と認めたということですが、ここで考えなければならないのは、卑弥呼と対立する立場にある者の中には、蜀を正統として呉と連携しようとする者もいたであろうということです。
二世紀末には倭国に大乱が起きて男王を立てることができず、卑弥呼の死後にも男王が立つが争乱が起きています。女王国内には対立する二つの勢力が存在していると見てよいのですが、今まで述べてきたように対立する二つの勢力とは、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族です。
銅戈を配布した部族の側から見ると面土国王こそ正統の倭国王であり、卑弥呼は大乱で男王が立てられないので共立された仮の王ということになります。卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱が起きますが、この争乱は銅戈を配布した部族が面土国王を正統の倭国王と見たことに起因しているようです。
争乱は13歳の台与を共立することで結着しますが、神話の語るところによれば台与の共立を画策したのが難升米(思金神)であり、それを実行に移したのが掖邪狗(手力男神)ということになります。 二人を中心にして台与の共立が進められたのでしょう。
後漢王朝は五七年に奴国王を、また一〇七年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。
最終的に魏は晋の武帝に禅譲し、呉・蜀も晋に降伏していますから、倭人にとっては魏・蜀の「正閠論」は意味がないようにも思えますが、倭人にも影響を与えており、正閠論はスサノオ(面土国王)の6世孫のオオクニヌシが、天照大神(卑弥呼)の孫のニニギに国譲りをすることで決着したとされているようです。
しかしそれは後にも応神天皇以前と以後とを区別するために、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化していくようです。
2009年9月20日日曜日
須佐之男命 その2
『日本書紀』本文では天照大神・月読尊に次いで素戔嗚尊が生まれますが、この神には天照大神、月読尊とは正反対の性格が与えられていて、父母のイザナギ、イザナミ二神はスサノオを追放します。『古事記』ではスサノオを追放するのはイザナギだけになっています。『日本書紀』本文は次のように記しています。
次ぎに素戔嗚尊を生まれた。(一書に神素戔嗚尊、速素戔嗚尊という。この神は勇悍(たけだけしく)て安忍(残忍)で、また泣き嘆くことを常とした。ゆえに國内の人民が多く死んだ。さらにまた青山を枯山に変えた。そこで父母の二神は素戔嗚尊に言われた。「汝ははなはだ無道である。だから天上、天下を支配してはならない。遠い根の國に行け」と言って追放された。
これは『日本書紀』本文の神話ですが、『古事記』ではイザナギに海原(うなばら)を治めるように命ぜられながら、母のいる根の堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいと泣いてばかりいたので、そのために様々な禍が起き、イザナギは素戔嗚尊を追放したとされています。
これには2世紀末に起きた倭国大乱のことが語られているようです。つまり大乱の当事者がスサノオとイザナギなのです。イザナギは禊(みそぎ)はらいして阿曇海人・那珂海人の祀る神を生みますが、前述したようにイザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものです。
それに対して追放されるスサノヲは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。青銅祭器についてはさらに詳しく述べるつもりですが、ここでは「そのように考えることもできる」という程度に思ってください。
倭国大乱は倭王位を巡る銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でした。スサノヲは母のいる根の堅洲国に行きたいと泣いてばかりいましたが、母とはイザナミのことです。イザナミは銅剣を配布した部族であると同時に、銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王でもあります。
世の古今東西を問わず全ての支配者に共通することの一つに、自分の支配権の正当性を認めさせようとして、様々な手段を用いていることがあげられます。前漢を滅ぼした王莽は天の意思が王莽を皇帝にしたという天人感応説を巧みに利用して皇帝になりましたが、卑弥呼は魏から「親魏倭王」に冊封されたことによって正当な王とされました。
この神話には魏の曹氏と蜀の劉氏の「正閠論」が絡んでいるように思われます。「正閠論」とは魏と蜀のどちらが後漢の後継王朝かという論議です。57年の奴国王の遣使も107年の面土国王帥升の遣使も、後漢王朝に対して行なわれていますが、卑弥呼は魏に遣使して親魏倭王に冊封されています。
奴国や面土国には蜀を正統とする考え方があったように思われます。それによると魏は後漢を滅ぼしたのであり、魏によって冊封された卑弥呼は正統の倭王ではなく、仮の王だということになります。正統の倭王は面土国王だというのですが、これが卑弥呼の死後に起きた争乱の原因になっているようです。
スサノヲが母のいる根の堅洲国に行きたいと言ったのは、面土国王の統治権は奴国王から継承したものであり、その統治権は後漢が認めた正当なものであると主張しているのであり、このことが倭国大乱や卑弥呼死後の争乱の原因になっているということのようです。「正閠論」はその後にも尾を引き、古墳時代の氏族の権力闘争にも影響しているようです。
次ぎに素戔嗚尊を生まれた。(一書に神素戔嗚尊、速素戔嗚尊という。この神は勇悍(たけだけしく)て安忍(残忍)で、また泣き嘆くことを常とした。ゆえに國内の人民が多く死んだ。さらにまた青山を枯山に変えた。そこで父母の二神は素戔嗚尊に言われた。「汝ははなはだ無道である。だから天上、天下を支配してはならない。遠い根の國に行け」と言って追放された。
これは『日本書紀』本文の神話ですが、『古事記』ではイザナギに海原(うなばら)を治めるように命ぜられながら、母のいる根の堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいと泣いてばかりいたので、そのために様々な禍が起き、イザナギは素戔嗚尊を追放したとされています。
これには2世紀末に起きた倭国大乱のことが語られているようです。つまり大乱の当事者がスサノオとイザナギなのです。イザナギは禊(みそぎ)はらいして阿曇海人・那珂海人の祀る神を生みますが、前述したようにイザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものです。
それに対して追放されるスサノヲは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。青銅祭器についてはさらに詳しく述べるつもりですが、ここでは「そのように考えることもできる」という程度に思ってください。
倭国大乱は倭王位を巡る銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でした。スサノヲは母のいる根の堅洲国に行きたいと泣いてばかりいましたが、母とはイザナミのことです。イザナミは銅剣を配布した部族であると同時に、銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王でもあります。
世の古今東西を問わず全ての支配者に共通することの一つに、自分の支配権の正当性を認めさせようとして、様々な手段を用いていることがあげられます。前漢を滅ぼした王莽は天の意思が王莽を皇帝にしたという天人感応説を巧みに利用して皇帝になりましたが、卑弥呼は魏から「親魏倭王」に冊封されたことによって正当な王とされました。
この神話には魏の曹氏と蜀の劉氏の「正閠論」が絡んでいるように思われます。「正閠論」とは魏と蜀のどちらが後漢の後継王朝かという論議です。57年の奴国王の遣使も107年の面土国王帥升の遣使も、後漢王朝に対して行なわれていますが、卑弥呼は魏に遣使して親魏倭王に冊封されています。
奴国や面土国には蜀を正統とする考え方があったように思われます。それによると魏は後漢を滅ぼしたのであり、魏によって冊封された卑弥呼は正統の倭王ではなく、仮の王だということになります。正統の倭王は面土国王だというのですが、これが卑弥呼の死後に起きた争乱の原因になっているようです。
スサノヲが母のいる根の堅洲国に行きたいと言ったのは、面土国王の統治権は奴国王から継承したものであり、その統治権は後漢が認めた正当なものであると主張しているのであり、このことが倭国大乱や卑弥呼死後の争乱の原因になっているということのようです。「正閠論」はその後にも尾を引き、古墳時代の氏族の権力闘争にも影響しているようです。
2009年9月19日土曜日
須佐之男命 その1
白鳥庫吉はスサノオ(須佐之男命・素戔嗚尊)を狗奴国の男王としていますが、前に述べたように狗奴国は肥後であり、肥後とスサノオには全く関係がありません。その点では宗像大社の祭神の三女神がスサノオの所持する剣から生まれたとされていて、宗像と深い関係があります。
高天が原を追放されたスサノオは出雲に下り、ヤマタノオロチを退治するなど大活躍しますが、肥後と出雲には何等の関係も見られません。その点においても宗像と出雲には密接な関係が見られます。筑紫神話のスサノオは宗像と関係があると考えてよいでしょう。倭人伝の記事の多くは宗像での見聞ですが、宗像は面土国であり素戔嗚尊は面土国王なのです。
後漢王朝は前漢の諸制度をほぼそのまま継承し、2代明帝、3代章帝にかけて最盛期を迎えますが、4代和帝の治世からふたたび外戚・宦官たちが国政に介入するようになり、彼らの専横によって後漢王朝は統治能力を失います。184年に黄巾の乱が起きた時には、もはや反乱を鎮圧するだけの軍事力はありませんでした。
220年、14代献帝は曹丕(そうひ)に帝位をうばわれ漢王朝は滅亡し、これより中国は魏・呉・蜀の三国時代に入っていきます。島国の倭国もこうした中国の動きと無関係ではいられません。面土国王が倭王として君臨したのは4代和帝の死の直後から、黄巾の乱が起きた184年頃までの7~80年間でした。
後漢末の中国の混乱が倭国にも波及してきて大乱が起き卑弥呼が共立されますが、大乱の一方の当事者が面土国王で、これが神話のスサノオです。卑弥呼を共立した面土国王は「自女王国以北」、つまり遠賀川流域を、あたかも中国の州刺史の如くに支配するようになります。
その初代の王が107年に後漢に遣使した帥升ですが、帥升の北京官話音は shuai-shengです。『後漢書』には帥升が師升と記されていますが、この場合にはshuo-shengになります。一方、須佐はhsu-tsuoであり、素戔はsu-chienとなります。帥升(師升)の音と須佐(素戔)は非常によく似ていますが、須佐、あるいは素戔とは帥升(師升)のことなのです。
『日本書紀』の「嗚=u」、『古事記』の「之男=no―o」とは「緒=o」のことで、細くて長い高まりが「緒」で、これが「鼻緒」「尾根」などの語源になっています。「緒」には「はじめ・おこり・いとぐち・すぢ」という意味もあります。ホノニニギの天孫降臨に随伴する五柱の神を「五伴緒(いつのとものお)」とする使用例がありますが、ニニギを基点にしてそれに連なる者が五伴緒です。
「緒」は血筋や系譜が連なっていることを表し、素戔嗚(須佐之男)とは帥升の子孫、あるいは系譜が連なっている者のことをいいます。スサは固有名詞ですがスサノヲはスサの複数形です。卑弥呼が王になる以前の七、八〇年間の男王はすべてスサノヲ(帥升の緒)であり、倭人伝の刺史の如き者は、天照大神が天の岩戸から出てきたころのスサノヲです。
「帥升の緒」は宗像だけではなく、出雲や大阪湾沿岸・紀伊半島にも居ました。私は面土国王は銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になったと考えていますが、大阪湾沿岸の「帥升の緒」は大阪湾形と呼ばれている銅戈を配布しています。紀伊のスサノオは大阪湾形銅戈を祀っていた部族でしよう。
スサノオが面土国王であるのなら宗像郡にスサノオを祀る神社があってもよさそうなものですが、スサノオ自身ではなくスサノオの物実(ものざね)である剣から生まれたとされる3女神が祀られています。このことは天照大神も同様で、大和朝廷が成立したことにより祭祀の中心が東方に移動したことによるようです。
宗像3女神は天照大神が生んだとされていますが、これには後に述べる魏・蜀の正閠論が絡んでくるようです。概略を言うと卑弥呼と面土国王のどちらが倭王として正統かということですが、宗像の「帥升の緒」は天照大神との関係が強調されているようです。
スサノオを祀る神社として出雲では出雲市の須佐神社や松江市の八重垣神社・熊野大社が知られており、また紀伊では熊野本宮大社でもスサノオが祀られています。 それに重なるようにイザナミとオオクニヌシを祭る神社があり、その伝承があることに注意する必要がありそうです。
出雲の熊野大社では祭神の「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」をスサノオの別名とし、紀伊の熊野本宮大社では家都美御子大神がスサノオとされています。
白鳥庫吉・津田左右吉の師弟間に論争がありましたが、白鳥は津田を説得できませんでした。それは白鳥が三世紀に面土国が存在したこと、素戔嗚尊が面土国王であることに気づいていないことに原因があります。もしも白鳥庫吉がその存在に気づいていたら津田左右吉を説得できたでしょうし、いわゆる「津田史学」が存在することもなかったでしょう。
高天が原を追放されたスサノオは出雲に下り、ヤマタノオロチを退治するなど大活躍しますが、肥後と出雲には何等の関係も見られません。その点においても宗像と出雲には密接な関係が見られます。筑紫神話のスサノオは宗像と関係があると考えてよいでしょう。倭人伝の記事の多くは宗像での見聞ですが、宗像は面土国であり素戔嗚尊は面土国王なのです。
後漢王朝は前漢の諸制度をほぼそのまま継承し、2代明帝、3代章帝にかけて最盛期を迎えますが、4代和帝の治世からふたたび外戚・宦官たちが国政に介入するようになり、彼らの専横によって後漢王朝は統治能力を失います。184年に黄巾の乱が起きた時には、もはや反乱を鎮圧するだけの軍事力はありませんでした。
220年、14代献帝は曹丕(そうひ)に帝位をうばわれ漢王朝は滅亡し、これより中国は魏・呉・蜀の三国時代に入っていきます。島国の倭国もこうした中国の動きと無関係ではいられません。面土国王が倭王として君臨したのは4代和帝の死の直後から、黄巾の乱が起きた184年頃までの7~80年間でした。
後漢末の中国の混乱が倭国にも波及してきて大乱が起き卑弥呼が共立されますが、大乱の一方の当事者が面土国王で、これが神話のスサノオです。卑弥呼を共立した面土国王は「自女王国以北」、つまり遠賀川流域を、あたかも中国の州刺史の如くに支配するようになります。
その初代の王が107年に後漢に遣使した帥升ですが、帥升の北京官話音は shuai-shengです。『後漢書』には帥升が師升と記されていますが、この場合にはshuo-shengになります。一方、須佐はhsu-tsuoであり、素戔はsu-chienとなります。帥升(師升)の音と須佐(素戔)は非常によく似ていますが、須佐、あるいは素戔とは帥升(師升)のことなのです。
『日本書紀』の「嗚=u」、『古事記』の「之男=no―o」とは「緒=o」のことで、細くて長い高まりが「緒」で、これが「鼻緒」「尾根」などの語源になっています。「緒」には「はじめ・おこり・いとぐち・すぢ」という意味もあります。ホノニニギの天孫降臨に随伴する五柱の神を「五伴緒(いつのとものお)」とする使用例がありますが、ニニギを基点にしてそれに連なる者が五伴緒です。
「緒」は血筋や系譜が連なっていることを表し、素戔嗚(須佐之男)とは帥升の子孫、あるいは系譜が連なっている者のことをいいます。スサは固有名詞ですがスサノヲはスサの複数形です。卑弥呼が王になる以前の七、八〇年間の男王はすべてスサノヲ(帥升の緒)であり、倭人伝の刺史の如き者は、天照大神が天の岩戸から出てきたころのスサノヲです。
「帥升の緒」は宗像だけではなく、出雲や大阪湾沿岸・紀伊半島にも居ました。私は面土国王は銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になったと考えていますが、大阪湾沿岸の「帥升の緒」は大阪湾形と呼ばれている銅戈を配布しています。紀伊のスサノオは大阪湾形銅戈を祀っていた部族でしよう。
スサノオが面土国王であるのなら宗像郡にスサノオを祀る神社があってもよさそうなものですが、スサノオ自身ではなくスサノオの物実(ものざね)である剣から生まれたとされる3女神が祀られています。このことは天照大神も同様で、大和朝廷が成立したことにより祭祀の中心が東方に移動したことによるようです。
宗像3女神は天照大神が生んだとされていますが、これには後に述べる魏・蜀の正閠論が絡んでくるようです。概略を言うと卑弥呼と面土国王のどちらが倭王として正統かということですが、宗像の「帥升の緒」は天照大神との関係が強調されているようです。
スサノオを祀る神社として出雲では出雲市の須佐神社や松江市の八重垣神社・熊野大社が知られており、また紀伊では熊野本宮大社でもスサノオが祀られています。 それに重なるようにイザナミとオオクニヌシを祭る神社があり、その伝承があることに注意する必要がありそうです。
出雲の熊野大社では祭神の「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」をスサノオの別名とし、紀伊の熊野本宮大社では家都美御子大神がスサノオとされています。
白鳥庫吉・津田左右吉の師弟間に論争がありましたが、白鳥は津田を説得できませんでした。それは白鳥が三世紀に面土国が存在したこと、素戔嗚尊が面土国王であることに気づいていないことに原因があります。もしも白鳥庫吉がその存在に気づいていたら津田左右吉を説得できたでしょうし、いわゆる「津田史学」が存在することもなかったでしょう。
2009年9月18日金曜日
思金神 その3
難升米(思金神)が政治家としてデビューしたころには卑弥呼は王になっていたでしょう。私は難升米の類いまれな政治家、外交官としての感性は、卑弥呼が優れたシャーマンとして倭国を統率したのと同じで、三国時代という中国の歴史の中でも特異な時代に対応して育まれていったと考えています。
このような時代に対処するには、時代に応じた方法があったことが考えられますが、難升米は中国、朝鮮半島はもとより、倭国内にも情報網を持っていたことが考えられます。難升米は阿曇、住吉、宗像など玄界灘沿岸の海人を使って情報収集しており、事態に的確に対応することができた人物だったようです。
238年8月に公孫淵が殺されると翌年6月には難升米が帯方郡に行っていますが、その結果卑弥呼は親魏倭王に、また難升米自身も率善中朗将に任ぜられています。外交の成果は外交官の腕の如何によって変わってくるものですが、卑弥呼が親魏倭王に、また自身も率善中朗将に任じられたのは、難升米の外交手腕がなみなみならないものであったことを表しています。
泰始元年(265)12月には司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて即位し晋が成立しますが、その翌年の10月か11月に倭人が遣使しています。とすれば使者が倭国を出発したのは気候の安定している5、6六月ころでしょう。それは難升米が66歳ころのことで、この遣使を画策したのも難升米であることが考えられます。
この対応の素早さは景初3年(239)と泰始2年(266)に共通しており、時宜を見逃さない難升米の政治感覚の鋭敏さが表われているように思われます。倭人伝の記事は正始8年で終わっており、その後の難升米の消息は不明ですが、難升米が思金神なら卑弥呼死後には台与や大倭を補佐したことが考えられます。
思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し、主導したことになります。私は神武天皇の東遷、すなわち大和朝廷の成立も難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えています。それは民族統一であり、倭民族の自立ということでした。
魏王朝は敵対する大勢力が出現するのを警戒して、稍、つまり六百里四方以上を支配することを認めませんでした。卑弥呼には親魏倭王という高位を与えましたが、これとても女王国の支配は認めても周辺の稍(国)を支配することは認めていません。
難升米は中国・朝鮮半島の政情や倭人社会の構造を見るにつけ、倭人は冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えていたと思います。幸か不幸か倭人は島国に住んでいるので、高句麗・韓のように緊迫したものではありませんでしたが、倭人だけが特別というわけにはいきません。
正始10年に司馬懿がクーデターを決行し曹爽(そうそう)一派を追い落としますが、難升米はいずれ司馬氏か魏を乗っ取り、やがては中国を再統一するであろうと判断していたと考えています。それは倭国の内政においては、部族が対立したことで共立された女王は不必要になることを意味します。
難升米のシナリオには、中国が再統一された後のことも考えられていたはずで、それが倭国の統一でした。中国の動きに並行して間もなく台与に換わって男子が王になり統一が進められていきますが、それを発案したのも難升米だったと考えます。
このような時代に対処するには、時代に応じた方法があったことが考えられますが、難升米は中国、朝鮮半島はもとより、倭国内にも情報網を持っていたことが考えられます。難升米は阿曇、住吉、宗像など玄界灘沿岸の海人を使って情報収集しており、事態に的確に対応することができた人物だったようです。
238年8月に公孫淵が殺されると翌年6月には難升米が帯方郡に行っていますが、その結果卑弥呼は親魏倭王に、また難升米自身も率善中朗将に任ぜられています。外交の成果は外交官の腕の如何によって変わってくるものですが、卑弥呼が親魏倭王に、また自身も率善中朗将に任じられたのは、難升米の外交手腕がなみなみならないものであったことを表しています。
泰始元年(265)12月には司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて即位し晋が成立しますが、その翌年の10月か11月に倭人が遣使しています。とすれば使者が倭国を出発したのは気候の安定している5、6六月ころでしょう。それは難升米が66歳ころのことで、この遣使を画策したのも難升米であることが考えられます。
この対応の素早さは景初3年(239)と泰始2年(266)に共通しており、時宜を見逃さない難升米の政治感覚の鋭敏さが表われているように思われます。倭人伝の記事は正始8年で終わっており、その後の難升米の消息は不明ですが、難升米が思金神なら卑弥呼死後には台与や大倭を補佐したことが考えられます。
思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し、主導したことになります。私は神武天皇の東遷、すなわち大和朝廷の成立も難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えています。それは民族統一であり、倭民族の自立ということでした。
魏王朝は敵対する大勢力が出現するのを警戒して、稍、つまり六百里四方以上を支配することを認めませんでした。卑弥呼には親魏倭王という高位を与えましたが、これとても女王国の支配は認めても周辺の稍(国)を支配することは認めていません。
難升米は中国・朝鮮半島の政情や倭人社会の構造を見るにつけ、倭人は冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えていたと思います。幸か不幸か倭人は島国に住んでいるので、高句麗・韓のように緊迫したものではありませんでしたが、倭人だけが特別というわけにはいきません。
正始10年に司馬懿がクーデターを決行し曹爽(そうそう)一派を追い落としますが、難升米はいずれ司馬氏か魏を乗っ取り、やがては中国を再統一するであろうと判断していたと考えています。それは倭国の内政においては、部族が対立したことで共立された女王は不必要になることを意味します。
難升米のシナリオには、中国が再統一された後のことも考えられていたはずで、それが倭国の統一でした。中国の動きに並行して間もなく台与に換わって男子が王になり統一が進められていきますが、それを発案したのも難升米だったと考えます。
2009年9月17日木曜日
思金神 その2
思金神は難升米だと考えられますが、もしそうであればこの難升米という人物は、古代史上比類のない大政治家、外交官であり、名参謀であったとしなければならないようです。238年8月に遼東の公孫淵が殺されると、翌年6月には難升米が帯方郡に行っていますが、その対応の素早いことなどは、彼が並の政治家・外交官ではなかったことを示しています。
彼は安曇海人・那珂海人を通じて内外の情報を収集していたのでしょう。その後の倭国は難升米の予想したように動いていくようです。古代史上の名参謀といえば聖徳太子が挙げられますが、私は思金神が難升米であれば、その後世への影響は聖徳太子よりも難升米の方が大きいと思っています。難升米自身は自分がそのような立場に置かれているとは思ってもいなかったでしょう。
政治家・軍人には二つのタイプがありますが、一つは周囲に祭り上げられて能力を発揮するタイプで、前漢の高祖劉邦などがこのタイプです。もう一つのタイプは逆に他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプで、蜀の諸葛孔明がこのタイプです。孔明は劉備を祭り上げることで活動の場を与えられています。
難升米は諸葛孔明のように他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプのようで、難升米の祭り上げたのが卑弥呼や神話の高御産巣日神、すなわち倭人伝の大倭でした。難升米は魏の皇帝を祭り上げることも忘れてはいません。卑弥呼が親魏倭王に冊封されたのも難升米の力量によるところが大きいようです。表は私の想像する難升米の経歴です。
200年 誕生?このころ卑弥呼が即位する
216 16歳 政治に参画?
239 39歳 卑弥呼の使者になり、率善中朗将に任ぜられる
245 45歳 魏から黄幢、詔書を授与される
247 47歳 卑弥呼の死
台与を擁立する(神話の天の岩戸)
黄幢、詔書が届く
250 50歳 (神話の出雲の国譲り)
255 55歳 台与の後の男王を擁立する(神話の天孫降臨)
266 66歳 倭人の遣使を建策する(神話の神武天皇の東征開始)
270 70歳 死亡?
難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間で、それ以外は想像したものです。239年に卑弥呼の使者として洛陽まで行って率善中朗将に任ぜられるには、外交官、あるいは政治家としての相当の経験と、長い旅に耐えられる体力、気力が必要ですが、29歳では率善中朗将に任じられる外交官としては経験不足であり、49歳では体力・気力が衰えるであろうということで、中間の39歳と考えてみました。
245年に黄幢・詔書が授与され2年後にそれが届きますが、届けた張政は台与と難升米に対し「檄(げき)を為して告喩(こくゆ)」したと書かれています。卑弥呼は弟が補佐していましたが、台与を補佐したのが難升米だったと思われます。難升米に黄幢・詔書が与えられたのは外交官として油ののりきった時期だったようです。それと共に「告喩」の文字から内政も熟知した円熟した時期であったことが感じられます。
この想像が正しいのであれば、難升米の誕生は200年ころということになりますが、当時の平均寿命は短かったと思われますから210年ころと考えてもよいのかもしれません。いずれにしても卑弥呼の即位したのは難升米が誕生したころということが考えられます。その死が6~70歳であったとすれば、弥生時代が古墳時代に変わるころに死んだことになります。
つまり難升米は三国時代が始まった時に生まれ、三国時代が終わった時に死んだことになり、「三国時代の申し子」だと言えます。天の岩戸の多力男は卑弥呼の弟の子、すなわち卑弥呼の甥であることが考えられますが、想像をたくましくすれば卑弥呼の甥とは同世代で、卑弥呼と常に接しながら成長したという仮定もできます。
彼は安曇海人・那珂海人を通じて内外の情報を収集していたのでしょう。その後の倭国は難升米の予想したように動いていくようです。古代史上の名参謀といえば聖徳太子が挙げられますが、私は思金神が難升米であれば、その後世への影響は聖徳太子よりも難升米の方が大きいと思っています。難升米自身は自分がそのような立場に置かれているとは思ってもいなかったでしょう。
政治家・軍人には二つのタイプがありますが、一つは周囲に祭り上げられて能力を発揮するタイプで、前漢の高祖劉邦などがこのタイプです。もう一つのタイプは逆に他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプで、蜀の諸葛孔明がこのタイプです。孔明は劉備を祭り上げることで活動の場を与えられています。
難升米は諸葛孔明のように他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプのようで、難升米の祭り上げたのが卑弥呼や神話の高御産巣日神、すなわち倭人伝の大倭でした。難升米は魏の皇帝を祭り上げることも忘れてはいません。卑弥呼が親魏倭王に冊封されたのも難升米の力量によるところが大きいようです。表は私の想像する難升米の経歴です。
200年 誕生?このころ卑弥呼が即位する
216 16歳 政治に参画?
239 39歳 卑弥呼の使者になり、率善中朗将に任ぜられる
245 45歳 魏から黄幢、詔書を授与される
247 47歳 卑弥呼の死
台与を擁立する(神話の天の岩戸)
黄幢、詔書が届く
250 50歳 (神話の出雲の国譲り)
255 55歳 台与の後の男王を擁立する(神話の天孫降臨)
266 66歳 倭人の遣使を建策する(神話の神武天皇の東征開始)
270 70歳 死亡?
難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間で、それ以外は想像したものです。239年に卑弥呼の使者として洛陽まで行って率善中朗将に任ぜられるには、外交官、あるいは政治家としての相当の経験と、長い旅に耐えられる体力、気力が必要ですが、29歳では率善中朗将に任じられる外交官としては経験不足であり、49歳では体力・気力が衰えるであろうということで、中間の39歳と考えてみました。
245年に黄幢・詔書が授与され2年後にそれが届きますが、届けた張政は台与と難升米に対し「檄(げき)を為して告喩(こくゆ)」したと書かれています。卑弥呼は弟が補佐していましたが、台与を補佐したのが難升米だったと思われます。難升米に黄幢・詔書が与えられたのは外交官として油ののりきった時期だったようです。それと共に「告喩」の文字から内政も熟知した円熟した時期であったことが感じられます。
この想像が正しいのであれば、難升米の誕生は200年ころということになりますが、当時の平均寿命は短かったと思われますから210年ころと考えてもよいのかもしれません。いずれにしても卑弥呼の即位したのは難升米が誕生したころということが考えられます。その死が6~70歳であったとすれば、弥生時代が古墳時代に変わるころに死んだことになります。
つまり難升米は三国時代が始まった時に生まれ、三国時代が終わった時に死んだことになり、「三国時代の申し子」だと言えます。天の岩戸の多力男は卑弥呼の弟の子、すなわち卑弥呼の甥であることが考えられますが、想像をたくましくすれば卑弥呼の甥とは同世代で、卑弥呼と常に接しながら成長したという仮定もできます。
2009年9月16日水曜日
思金神 その1
多力雄神は掖邪狗のようで、彼は卑弥呼の甥のだと思われます。それに対し思金神は難升米のように思われます。表は天の岩戸以後、天孫降臨以前に活動する高天が原の神と、『古事記』にその神が出てくる回数を比較したものですが、思金神の回数が多いことに注意が必要で、回数が多いほど活発に活動していることを表し、神格が高い傾向があります。
回数 回数 回数
天照大御神 15 邇々芸命 4 天菩比命 3
高御産巣日神 11 天津国玉 2 天若日子 18
思金神 8 天石門別神 4 雉 6
天津麻羅 1 忍穂耳命 4 伊都之尾羽張 3
伊斯許度売命 3 須佐之男命 2 建雷之男神 4
玉祖命 3 大気都比売神 3 天迦久神 2
天児屋命 5 神産巣日神 1 天鳥船神 2
布刀玉命 6 万幡豊秋津師比売 1 天津久米神 2
多力男神 4 天日明命 1 登由宇気神 1
天宇受売命 8 天忍日命 2
猿田毘古神 5
例外は天若日子の18回で、その多くは雉の6回とペアになった天若日子自身の物語で、天若日子の神格が高いというわけではありません。また天宇受売の8回も猿田毘古の5回とペアの物語になっているものが多いが、『古事記』神話を伝えた稗田氏は天宇受売、猿田毘古の子孫とされています。
天宇受売の8回と猿田毘古の5回には稗田氏の始祖伝承が加わっていると考えるのがよいようです。『古事記』の神話は稗田氏など天神系氏族が伝えたもののようです。これらを除くとアマテラスの15回、高御産巣日神の11回、思金神の8回が他を圧しています。
この天照大神は卑弥呼ではなく台与ですが、後に述べるように高御産巣日神は大倭(だいわ)です。ですからこの二神の回数が多いのは当然のことで、この二神は天若日子を出雲に派遣する指令を出して以後、ペアで神々に指令を出す指令神として活動します。天照大神を差し置いて高御産巣日神だけが単独で指令を出している場合も多い。
思金神は天の岩戸以前には活動の見られない神で、天の岩戸以後には天照大神・高御産巣日神の指令を受けて、それを具体化する働きをしています。それも天照大神よりも高御産巣日神の指令を受け、それに応答していることが目立ちます。思金神は八意思兼神とも呼ばれるように、深く謀り、遠く思慮する神だと考えられています。
私はこの八意思兼神という神名が、難升米を正確に表現していると思っています。思金神は天の岩戸から天孫降臨にかけて八百万神の筆頭として活動しますが、言ってみれば政治家なら官房長官、軍人なら参謀総長のような役回りであり、天孫降臨の段では特別視されています 『古事記』 には次のように記されています。
「此の鏡は専(もぱ)ら吾が御魂(みたま)と為て、吾が前を拝(いつ)くが如(ごと)いつき奉(まつ)れ。次に思金神は前の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ」とのりたまいき。此の二柱の神は、さくくしろ、いすずの宮にに拝(いつき)き祭る
二柱の神とは八咫の鏡と思金神で鏡は天照大神のことであり、いすずの宮は五十鈴川のほとりにある宮という意味で伊勢神宮のことです。天照大神と思金神が伊勢神宮に祭られていることが述べられていますが、伊勢神宮に思金神が祭られているのには意味がありそうです。
「前の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ」とは天照大神の祭事、あるいは政事を引き継いで執り行うようにという意味ですが、この部分は天孫ホノニニギが降臨する部分ですから、本来なら指令は邇々芸命(『日本書紀』では瓊々杵尊)に対して出されるはずのものです。それが思金神に対して出されています。ここではホノニニギよりも思金神の方が重視されているのです。
天照大神は台与であり、後に述べるがホノニニギは台与の後の男王であり、ホノニニギが高千穂の峰に降臨することは高天原の主がいなくなるということで、天孫降臨の後の高天が原の留守番役が思金神だというのでしょう。
思金神は八百万の神の筆頭であり、天照大神・高御産巣日神も八百万の神も、思金神の発案に従って行動しているように思えます。思金神は神話の中で特異な立場にありますが、倭人伝中の人物にも同じように特異な立場の人物がいます。
回数 官位 授けられたもの
難升米 7 率善中朗将 銀印青綬、黄幢、詔書、告喩
倭女王 4 詔書、印綬
卑弥呼 4 親魏倭王 詔書、金印紫綬
壹與 3 告喩
都市牛利 4 率善校尉 銀印、青綬
以聲耆 1 率善中朗将 印綬
掖邪狗 3 率善中朗将 印綬
載斯烏越 1
表は倭人伝に登場する人物の名前とその回数ですが、難升米がとびぬけて多く官位も高く、黄幢、詔書を授けられるなど特別な働きをしています。思金神と難升米の性格がよく似ていますが、思金神は難升米だと思ってよいようです。
回数 回数 回数
天照大御神 15 邇々芸命 4 天菩比命 3
高御産巣日神 11 天津国玉 2 天若日子 18
思金神 8 天石門別神 4 雉 6
天津麻羅 1 忍穂耳命 4 伊都之尾羽張 3
伊斯許度売命 3 須佐之男命 2 建雷之男神 4
玉祖命 3 大気都比売神 3 天迦久神 2
天児屋命 5 神産巣日神 1 天鳥船神 2
布刀玉命 6 万幡豊秋津師比売 1 天津久米神 2
多力男神 4 天日明命 1 登由宇気神 1
天宇受売命 8 天忍日命 2
猿田毘古神 5
例外は天若日子の18回で、その多くは雉の6回とペアになった天若日子自身の物語で、天若日子の神格が高いというわけではありません。また天宇受売の8回も猿田毘古の5回とペアの物語になっているものが多いが、『古事記』神話を伝えた稗田氏は天宇受売、猿田毘古の子孫とされています。
天宇受売の8回と猿田毘古の5回には稗田氏の始祖伝承が加わっていると考えるのがよいようです。『古事記』の神話は稗田氏など天神系氏族が伝えたもののようです。これらを除くとアマテラスの15回、高御産巣日神の11回、思金神の8回が他を圧しています。
この天照大神は卑弥呼ではなく台与ですが、後に述べるように高御産巣日神は大倭(だいわ)です。ですからこの二神の回数が多いのは当然のことで、この二神は天若日子を出雲に派遣する指令を出して以後、ペアで神々に指令を出す指令神として活動します。天照大神を差し置いて高御産巣日神だけが単独で指令を出している場合も多い。
思金神は天の岩戸以前には活動の見られない神で、天の岩戸以後には天照大神・高御産巣日神の指令を受けて、それを具体化する働きをしています。それも天照大神よりも高御産巣日神の指令を受け、それに応答していることが目立ちます。思金神は八意思兼神とも呼ばれるように、深く謀り、遠く思慮する神だと考えられています。
私はこの八意思兼神という神名が、難升米を正確に表現していると思っています。思金神は天の岩戸から天孫降臨にかけて八百万神の筆頭として活動しますが、言ってみれば政治家なら官房長官、軍人なら参謀総長のような役回りであり、天孫降臨の段では特別視されています 『古事記』 には次のように記されています。
「此の鏡は専(もぱ)ら吾が御魂(みたま)と為て、吾が前を拝(いつ)くが如(ごと)いつき奉(まつ)れ。次に思金神は前の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ」とのりたまいき。此の二柱の神は、さくくしろ、いすずの宮にに拝(いつき)き祭る
二柱の神とは八咫の鏡と思金神で鏡は天照大神のことであり、いすずの宮は五十鈴川のほとりにある宮という意味で伊勢神宮のことです。天照大神と思金神が伊勢神宮に祭られていることが述べられていますが、伊勢神宮に思金神が祭られているのには意味がありそうです。
「前の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ」とは天照大神の祭事、あるいは政事を引き継いで執り行うようにという意味ですが、この部分は天孫ホノニニギが降臨する部分ですから、本来なら指令は邇々芸命(『日本書紀』では瓊々杵尊)に対して出されるはずのものです。それが思金神に対して出されています。ここではホノニニギよりも思金神の方が重視されているのです。
天照大神は台与であり、後に述べるがホノニニギは台与の後の男王であり、ホノニニギが高千穂の峰に降臨することは高天原の主がいなくなるということで、天孫降臨の後の高天が原の留守番役が思金神だというのでしょう。
思金神は八百万の神の筆頭であり、天照大神・高御産巣日神も八百万の神も、思金神の発案に従って行動しているように思えます。思金神は神話の中で特異な立場にありますが、倭人伝中の人物にも同じように特異な立場の人物がいます。
回数 官位 授けられたもの
難升米 7 率善中朗将 銀印青綬、黄幢、詔書、告喩
倭女王 4 詔書、印綬
卑弥呼 4 親魏倭王 詔書、金印紫綬
壹與 3 告喩
都市牛利 4 率善校尉 銀印、青綬
以聲耆 1 率善中朗将 印綬
掖邪狗 3 率善中朗将 印綬
載斯烏越 1
表は倭人伝に登場する人物の名前とその回数ですが、難升米がとびぬけて多く官位も高く、黄幢、詔書を授けられるなど特別な働きをしています。思金神と難升米の性格がよく似ていますが、思金神は難升米だと思ってよいようです。
2009年9月15日火曜日
多力雄神
天照大神が岩戸のこもると天地は暗黒になり、そこでオモイカネ(思金神、思兼神)は常夜の長鳴き鳥を集めて長鳴きさせます。常世の長鳴き鳥は、夜明けを告げる雄鶏のことで、この鳥が鳴くと明るくなってきます。つまり思金神が天照大神を岩戸から引き出すことを発案したというのでしょう。これは台与の共立を発案したのが思金神に相当する人物だったということだと思われます。
天の岩戸のハイライトシーンです。アメノウズメは岩戸の前でエロチックダンスを披露します。思金神が常世の長鳴き鳥を鳴かせ、多力雄神(多力男尊)は岩戸の陰に隠れ立ち、少し開いた岩戸に手をかけて開け、天照大神の手を取って引き出します。そして布刀玉命は「尻くめ縄」を張り渡します。
これは台与が共立されたことを表し、思兼神に相当する人物が台与の共立を発案し、手力雄神に相当する人物がそれを実行したことを表しているようです。アメノウズメのダンスはシャーマンが神憑りした状態を表しているように思われ、台与の即位は神意に適っているというのでしょう。
布刀玉命は大和朝廷で祭祀を職掌した忌部氏の祖とされていますが、「尻くめ縄」を張り渡すのは、天照大神が再び岩戸に入ることがないようにという意味で、台与の共立を保障したというのでしょう。
岩戸を引き開けた手力男神については『系図纂要』(名著出版、一九九八年八月)に表のような神統が掲載されています。山城国月讀社(京都府綴喜郡田辺町、月讀神社)か、信濃国戸隠社(長野市戸隠、戸隠神社)の社伝によるものだと考えられます。この神統では手力男神は月讀尊の子とされています。
塙保紀一(はなわほきいち)の『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』は手力男神を思兼神の子とする説を紹介していますが、岩戸の神話では同時に活動していますから、手力男神と思兼神は同世代のように感じられ、手力男神は月読命の子とするのが適当です。
ツキヨミは卑弥呼の弟だと考えられますが、そうすると手力男神は卑弥呼の弟の子、つまり卑弥呼の甥ということになります。神話と倭人伝とを対比させてみると思兼神に相当する人物が台与の共立を発案し、卑弥呼の甥がそれを実行したことになります。
卑弥呼の甥であれば台与の共立を主導するには適役です。神話の系譜がすべて史実だと断定できるわけではありませんが、台与の共立にそうした人間関係があったことは考えられてよいことです。
私は次回に述べるように思金神は大夫の難升米であり、手力男神は掖邪狗だと考えています。掖邪狗は正始4年にも卑弥呼の使者になり、難升米と同格の率善中朗将に任じられ印綬を授けられています。天の岩戸から出てきた天照大神は台与ですが、台与は掖邪狗ら20人を魏に派遣しています。
掖邪狗は台与を王にした以上、倭王の冊封を受けさせなければならず、自ら魏に出向いたと思うのです。『日本書紀』神功皇后紀は台与が遣使したのは266年だと思わせようとしていますが、これは神功皇后を卑弥呼・台与と思わせるためであって、台与の遣使は正始9年(248)に行なわれたと考えるのがよいと思っています。
天の岩戸のハイライトシーンです。アメノウズメは岩戸の前でエロチックダンスを披露します。思金神が常世の長鳴き鳥を鳴かせ、多力雄神(多力男尊)は岩戸の陰に隠れ立ち、少し開いた岩戸に手をかけて開け、天照大神の手を取って引き出します。そして布刀玉命は「尻くめ縄」を張り渡します。
これは台与が共立されたことを表し、思兼神に相当する人物が台与の共立を発案し、手力雄神に相当する人物がそれを実行したことを表しているようです。アメノウズメのダンスはシャーマンが神憑りした状態を表しているように思われ、台与の即位は神意に適っているというのでしょう。
布刀玉命は大和朝廷で祭祀を職掌した忌部氏の祖とされていますが、「尻くめ縄」を張り渡すのは、天照大神が再び岩戸に入ることがないようにという意味で、台与の共立を保障したというのでしょう。
岩戸を引き開けた手力男神については『系図纂要』(名著出版、一九九八年八月)に表のような神統が掲載されています。山城国月讀社(京都府綴喜郡田辺町、月讀神社)か、信濃国戸隠社(長野市戸隠、戸隠神社)の社伝によるものだと考えられます。この神統では手力男神は月讀尊の子とされています。
塙保紀一(はなわほきいち)の『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』は手力男神を思兼神の子とする説を紹介していますが、岩戸の神話では同時に活動していますから、手力男神と思兼神は同世代のように感じられ、手力男神は月読命の子とするのが適当です。
ツキヨミは卑弥呼の弟だと考えられますが、そうすると手力男神は卑弥呼の弟の子、つまり卑弥呼の甥ということになります。神話と倭人伝とを対比させてみると思兼神に相当する人物が台与の共立を発案し、卑弥呼の甥がそれを実行したことになります。
卑弥呼の甥であれば台与の共立を主導するには適役です。神話の系譜がすべて史実だと断定できるわけではありませんが、台与の共立にそうした人間関係があったことは考えられてよいことです。
私は次回に述べるように思金神は大夫の難升米であり、手力男神は掖邪狗だと考えています。掖邪狗は正始4年にも卑弥呼の使者になり、難升米と同格の率善中朗将に任じられ印綬を授けられています。天の岩戸から出てきた天照大神は台与ですが、台与は掖邪狗ら20人を魏に派遣しています。
掖邪狗は台与を王にした以上、倭王の冊封を受けさせなければならず、自ら魏に出向いたと思うのです。『日本書紀』神功皇后紀は台与が遣使したのは266年だと思わせようとしていますが、これは神功皇后を卑弥呼・台与と思わせるためであって、台与の遣使は正始9年(248)に行なわれたと考えるのがよいと思っています。
2009年9月14日月曜日
月読命
倭人伝は卑弥呼について「鬼道を事とす」と記していますが、卑弥呼は女王とはいうものの実態はシャーマン(巫女)でした。 そのシャーマン女王の卑弥呼を補佐したのが卑弥呼の弟ですが、天照大神にもツキヨミ(月読命、月讀尊)とスサノヲ(須佐之男命、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊)という二柱の弟がいて、どちらかが卑弥呼の弟ということになります。
『日本書紀』第五段本文には天照大神とツキヨミが姉弟であることが示されていて、神話と倭人伝とを対比させることによって、神話が史実であることが分かる好例になっています。スサノヲは天照大神と事々に対立するので、卑弥呼を補佐した弟のようには思えません。スサノヲは「刺史の如き者」(面土国王)ですが白鳥庫吉は狗奴国の男王と見ています。
ツキヨミが弟ということになりますが、ツキヨミは天照大神の命令に反して保食神を殺したこと以外には活動の見られない、いたって地味な神ですが卑弥呼姉弟と関係が似ていて、姉が日神であるのに対し弟は月神で、昼と夜が対になっています。それに対しスサノヲという神名は異質です。『日本書紀』 本文は2神について次のように記しています。
そこで共に日の神を生まれた。大日孁貴という。(一書は天照大神という。一書は 天照大日孁尊という)この御子は光華明彩(ひかりうるわしく)して、国の内に照り通った。二神は喜んで、「吾が子は多いが、このように靈異な子はいない。永くこの国に留めておくべきではない。早く天に送って天上を支配させよう」と言われた。この時、天と地は今のように遠くなかった。そこで天柱で天上に送り上げた。次に月の神を生まれた。(一書は月弓尊、月夜見尊、月讀尊という)その光彩(うるわしい)ことは日に次いだ。そこで日と共に治めるようにと、また天に送られた。
イザナギ、イザナミ二神は国を生み、神を生んだ後に、天下を支配するものを生もうと相談して、日の神、月の神、蛭兒、素戔鳴尊の四神を生みます。蛭兒は『日本書紀』本文だけに見られて『古事記』には見えません。
日の神は「光華明彩(ひかりうるわ)しくして、六合(くに)の内に照りる徹(とお)る」という霊異な子だったので、天上、つまり高天が原を支配するようにと、天の御柱(あめのみはしら)によって送り上げられます。そして月の神もまた日の神と共に高天が原を支配するようにと送り上げられています。
天照大神は光華明彩で、ツキヨミもそれに次いだとありますが、光華明彩の意味するところはイメージとしては解るような気もしますが、具体的な意味はさっぱり解りません。これを『魏志』倭人伝の文と対比させてみると、卑弥呼が優れたシャーマンであり、弟が女王としての卑弥呼を補佐していたことを表していることがわかります。
卑弥呼は倭国大乱で王を立てることができないため、共立されて女王になり、邪馬台国を国都にしたのであり、生まれた時から女王ではありません。邪馬台国を国都にしたのも女王になってからのことです。天照大神とツキヨミも高天が原以外の場所で生まれて、霊異な子だったので高天が原に送り上げられています。 両者は同じことが言われています。
前述のように私は卑弥呼姉弟は筑紫君磐井の遠祖であり、投馬国の王族ではなかったかと考えています。広川町藤田天神浦で中広形銅矛が18本出土していますが、関係を考えてみる必要があるように思っています。
いかに優れたシャーマンであっても相応の身分でなければ王にはなれないでしょうし、卑弥呼の弟にしても優れたシャーマンの弟というだけで国政を補佐できるものではなさそうです。天照大神とツキヨミが高天が原に送り上げられる前に居たのは筑後だということになりそうで、八女郡のあたりが可能性が高いと思っています。
天照大神とツキヨミは様々な点で卑弥呼姉弟と一致します。このことからも高天が原が邪馬台国であることが考えられますが、私は高天が原は甘木・朝倉だと考えています。
『日本書紀』第五段本文には天照大神とツキヨミが姉弟であることが示されていて、神話と倭人伝とを対比させることによって、神話が史実であることが分かる好例になっています。スサノヲは天照大神と事々に対立するので、卑弥呼を補佐した弟のようには思えません。スサノヲは「刺史の如き者」(面土国王)ですが白鳥庫吉は狗奴国の男王と見ています。
ツキヨミが弟ということになりますが、ツキヨミは天照大神の命令に反して保食神を殺したこと以外には活動の見られない、いたって地味な神ですが卑弥呼姉弟と関係が似ていて、姉が日神であるのに対し弟は月神で、昼と夜が対になっています。それに対しスサノヲという神名は異質です。『日本書紀』 本文は2神について次のように記しています。
そこで共に日の神を生まれた。大日孁貴という。(一書は天照大神という。一書は 天照大日孁尊という)この御子は光華明彩(ひかりうるわしく)して、国の内に照り通った。二神は喜んで、「吾が子は多いが、このように靈異な子はいない。永くこの国に留めておくべきではない。早く天に送って天上を支配させよう」と言われた。この時、天と地は今のように遠くなかった。そこで天柱で天上に送り上げた。次に月の神を生まれた。(一書は月弓尊、月夜見尊、月讀尊という)その光彩(うるわしい)ことは日に次いだ。そこで日と共に治めるようにと、また天に送られた。
イザナギ、イザナミ二神は国を生み、神を生んだ後に、天下を支配するものを生もうと相談して、日の神、月の神、蛭兒、素戔鳴尊の四神を生みます。蛭兒は『日本書紀』本文だけに見られて『古事記』には見えません。
日の神は「光華明彩(ひかりうるわ)しくして、六合(くに)の内に照りる徹(とお)る」という霊異な子だったので、天上、つまり高天が原を支配するようにと、天の御柱(あめのみはしら)によって送り上げられます。そして月の神もまた日の神と共に高天が原を支配するようにと送り上げられています。
天照大神は光華明彩で、ツキヨミもそれに次いだとありますが、光華明彩の意味するところはイメージとしては解るような気もしますが、具体的な意味はさっぱり解りません。これを『魏志』倭人伝の文と対比させてみると、卑弥呼が優れたシャーマンであり、弟が女王としての卑弥呼を補佐していたことを表していることがわかります。
卑弥呼は倭国大乱で王を立てることができないため、共立されて女王になり、邪馬台国を国都にしたのであり、生まれた時から女王ではありません。邪馬台国を国都にしたのも女王になってからのことです。天照大神とツキヨミも高天が原以外の場所で生まれて、霊異な子だったので高天が原に送り上げられています。 両者は同じことが言われています。
前述のように私は卑弥呼姉弟は筑紫君磐井の遠祖であり、投馬国の王族ではなかったかと考えています。広川町藤田天神浦で中広形銅矛が18本出土していますが、関係を考えてみる必要があるように思っています。
いかに優れたシャーマンであっても相応の身分でなければ王にはなれないでしょうし、卑弥呼の弟にしても優れたシャーマンの弟というだけで国政を補佐できるものではなさそうです。天照大神とツキヨミが高天が原に送り上げられる前に居たのは筑後だということになりそうで、八女郡のあたりが可能性が高いと思っています。
天照大神とツキヨミは様々な点で卑弥呼姉弟と一致します。このことからも高天が原が邪馬台国であることが考えられますが、私は高天が原は甘木・朝倉だと考えています。
2009年9月13日日曜日
天照大神
白鳥庫吉は天の岩戸に隠(こも)もる以前の天照大御神を卑弥呼とし、天の岩戸から出てきた天照大御神を壱与(台与)と考えていますが、天照大神が天の岩戸に隠るのは、二四七年ころに卑弥呼が死んで径百余歩の冢(墓)が造られたことを表しています。
前回に示した表では天照大神をAとBに分けていますが、Aは天ノ岩戸に隠る以前の天照大神で、これが卑弥呼であり、Bは天ノ岩戸から出てきた天照大神でこれが台与です。天照大神が岩戸に隠(こも)ったことによって天地が暗黒になったというのは、卑弥呼の死後に千余人が殺された争乱が起きたことが語り伝えられています。
天地が暗黒になったことについては、これを日食だとする説があります。卑弥呼が死んだ二四七、八年ころに、二年連続して日食があったということで、日食の原理を知らない古代人が不吉な予兆と思ったことは想像できます。そして日食を夜明けだと思って鶏が長鳴きしたことから、この神話が生まれたことは考えられてよいことです。
天地が暗黒になったので、八百万神は天の安の河原に集まって、高御産巣日神(たかみむひのかみ)、(『日本書紀』では高皇産霊尊)の子、思金神(おもいかねのかみ)に思はしめて(考えさせて)、常世の長鳴鳥を鳴かせたとあります。思兼神が長鳴鳥を鳴かせたというのは夜明けが近いということで、台与が擁立されようとしていることを表しています。台与の共立を発案したのは思兼神だったということのようですが、私は思兼神を大夫の難升米だと考えています。
天照大神は、天の岩戸の前後で性格が大きく変わります。天の岩戸前にはスサノヲ(須佐之男命、素戔嗚尊)の姉として自ら行動しますが、天の岩戸以後には自ら行動することはなく、高御産巣日神とペアで神々に指令を下すだけになります。むしろ高御産巣日神だけが単独で指令を下すことが多くなりますが、この高御産巣日神が大倭です。
岩戸から出てきた天照大神が台与ですが、台与は13歳の少女で卑弥呼ほどのカリスマ性がなかったのでしょう。彼女がくだす託宣よりも大倭と呼ばれている実力者の意向が優先されるようになったと考えられます。『日本書紀』は266年の倭人の遣使を台与が行なったと思わせようとしていますが、台与は名目だけの女王であり、在位期間も極めて短かったようです。
『日本書紀』第一の一書には稚日女尊(わかひるめのみこと)という女神が登場してきます。天照大神の妹ではないかとされる神ですが、スサノヲの狼藉に驚いて死ぬことになっていて、そのために天照大神が岩戸に隠れることになっています。この稚日女尊に台与が投影されているように思われます。
オオヒルメ(大日孁貴、卑弥呼)とワカヒルメ(台与)を合成したものが天照大神のようです。『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼・台与だと思わせようとしていますが、神功皇后の伝承では(『古事記』『日本書紀』には見られません)神功皇后にも豊比売(淀比売とも)と呼ばれる妹が居るとされています。
私は神功皇后紀の編纂者は天照大神が卑弥呼・台与であることを知っていたと考えています。その上で台与(稚日女尊)に合うように豊比売が創られたと考えます。豊比売は宇佐神宮の三殿の中央に祀られている神でもあり、香春の香春神社第三殿の祭神でもあると考えています。
安本美典氏は万幡豊秋津師比売を台与とされていますが、名前に豊を含んでいることや、その系譜を見るとそのように思えますし、そうなのかもしれません。しかし稚日女尊に「尊」の文字が使われていることから見て、台与には稚日女尊のほうがふさわしいように思えます。尊は皇室の祖神だけに用いられるものです。ただスサノヲの狼藉に驚いて死ぬことになっている点が、台与の場合と異なるような感じがします。伝承の過程で変わったと考えるのがよいのかも知れません。
前回に示した表では天照大神をAとBに分けていますが、Aは天ノ岩戸に隠る以前の天照大神で、これが卑弥呼であり、Bは天ノ岩戸から出てきた天照大神でこれが台与です。天照大神が岩戸に隠(こも)ったことによって天地が暗黒になったというのは、卑弥呼の死後に千余人が殺された争乱が起きたことが語り伝えられています。
天地が暗黒になったことについては、これを日食だとする説があります。卑弥呼が死んだ二四七、八年ころに、二年連続して日食があったということで、日食の原理を知らない古代人が不吉な予兆と思ったことは想像できます。そして日食を夜明けだと思って鶏が長鳴きしたことから、この神話が生まれたことは考えられてよいことです。
天地が暗黒になったので、八百万神は天の安の河原に集まって、高御産巣日神(たかみむひのかみ)、(『日本書紀』では高皇産霊尊)の子、思金神(おもいかねのかみ)に思はしめて(考えさせて)、常世の長鳴鳥を鳴かせたとあります。思兼神が長鳴鳥を鳴かせたというのは夜明けが近いということで、台与が擁立されようとしていることを表しています。台与の共立を発案したのは思兼神だったということのようですが、私は思兼神を大夫の難升米だと考えています。
天照大神は、天の岩戸の前後で性格が大きく変わります。天の岩戸前にはスサノヲ(須佐之男命、素戔嗚尊)の姉として自ら行動しますが、天の岩戸以後には自ら行動することはなく、高御産巣日神とペアで神々に指令を下すだけになります。むしろ高御産巣日神だけが単独で指令を下すことが多くなりますが、この高御産巣日神が大倭です。
岩戸から出てきた天照大神が台与ですが、台与は13歳の少女で卑弥呼ほどのカリスマ性がなかったのでしょう。彼女がくだす託宣よりも大倭と呼ばれている実力者の意向が優先されるようになったと考えられます。『日本書紀』は266年の倭人の遣使を台与が行なったと思わせようとしていますが、台与は名目だけの女王であり、在位期間も極めて短かったようです。
『日本書紀』第一の一書には稚日女尊(わかひるめのみこと)という女神が登場してきます。天照大神の妹ではないかとされる神ですが、スサノヲの狼藉に驚いて死ぬことになっていて、そのために天照大神が岩戸に隠れることになっています。この稚日女尊に台与が投影されているように思われます。
オオヒルメ(大日孁貴、卑弥呼)とワカヒルメ(台与)を合成したものが天照大神のようです。『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼・台与だと思わせようとしていますが、神功皇后の伝承では(『古事記』『日本書紀』には見られません)神功皇后にも豊比売(淀比売とも)と呼ばれる妹が居るとされています。
私は神功皇后紀の編纂者は天照大神が卑弥呼・台与であることを知っていたと考えています。その上で台与(稚日女尊)に合うように豊比売が創られたと考えます。豊比売は宇佐神宮の三殿の中央に祀られている神でもあり、香春の香春神社第三殿の祭神でもあると考えています。
安本美典氏は万幡豊秋津師比売を台与とされていますが、名前に豊を含んでいることや、その系譜を見るとそのように思えますし、そうなのかもしれません。しかし稚日女尊に「尊」の文字が使われていることから見て、台与には稚日女尊のほうがふさわしいように思えます。尊は皇室の祖神だけに用いられるものです。ただスサノヲの狼藉に驚いて死ぬことになっている点が、台与の場合と異なるような感じがします。伝承の過程で変わったと考えるのがよいのかも知れません。
2009年9月12日土曜日
邪馬台国と神話 その4
津田左右吉は主として『古事記』と『日本書紀』に違いがあることから、神話は史実ではないとしましたが、部族の歴史は同じではないはずであり、部族によって神話に違いかあるのはむしろ当然のことです。全てが同じならそれこそ創作されたことになります。
『古事記』の神話はその序文にあるように猿女君の一族の稗田氏が伝えていたものだと考えられます。猿女君は天孫降臨に随行した天宇受賣命の子孫だと言われていますが、猿女君は元来、北部九州で銅矛を祀っていた部族に属していたと考えられます。とすれば『古事記』の神話は銅矛を配布した部族の神話であることが考えられてきます。
『古事記』は天孫降臨に随行した神について「其の天兒屋命は中臣連等の祖。布刀玉命は忌部首等の祖。天宇受賣命は猿女君等の祖。伊斯許理度賣命は鏡作連等の祖。玉祖命は玉祖連等の祖」としています。また常世思金神,手力男神,天石門別神、天忍日命,天津久米命の神名も見えます。こうした氏族の祖先が銅矛を配布した部族に属していたことが考えられます。
古墳時代の氏姓制度下ではこれらの神は「天神」とされますが、『古事記』の神話は天神を中心とした神話であり、それは銅矛を配布した部族の神話でもあるということです。神話はかつて部族が存在したことを示しており、初期の大和朝廷が部族制度の影響を受けていることが分かります。
それに対し大和のミワ氏・カモ氏や出雲の出雲臣氏など「地祇」の子孫もあります。また「諸蕃」と言われている渡来系の氏族もあります。『古事記』の神話には「地祇」「諸蕃」の伝えた神話はわずかにオオクニヌシの事績があるだけでほとんどありません。
『古事記』の編纂が中断され、『日本書紀』が先に成立した原因一つとして、「地祇」「諸蕃」の神話を取り込む必要があったことがあげられそうです。 こうして『日本書紀』の神話には「一書に云う」という形で「地祇」「諸蕃」の伝えた神話が加えられました。
それは銅鐸・銅剣を配布した部族の伝えたものです。銅鐸・銅剣を配布した部族の神話は大和朝廷の成立で大部分が消滅してしまったことが考えられます。
邪馬台国が畿内にあったのであれば、ミワ氏・カモ氏や出雲の出雲臣氏など「地祇」が神話の中心にならなければいけませんが、邪馬台国は九州に在りました。
ですから筑紫神話とも言われるように神話の主要舞台は九州になっています。前述のようにスサノオは面土国王です。またイザナギは那珂海人の王であり、私はイザナミを奴国王だと考えています。
表は『魏志』倭人伝に登場してくる人物を書き出し、どの神と似ているかを示したものです。各国の官と副(副官)は除外していますが、これが倭人伝に登場してくる人物の全てです。
?を付したものはその可能性があるか、または可能性が疑われるもので、伊声耆、載斯烏越(載斯・烏越?)についてもおおよその推定が可能です。
白鳥庫吉の言うように、倭人伝の記述と高天が原神話はよく似ています。それどころか倭人伝だけでは分からない部分も分かってきます。神話は弥生時代の部族の暦史であり、その系譜が語られています。
『古事記』の神話はその序文にあるように猿女君の一族の稗田氏が伝えていたものだと考えられます。猿女君は天孫降臨に随行した天宇受賣命の子孫だと言われていますが、猿女君は元来、北部九州で銅矛を祀っていた部族に属していたと考えられます。とすれば『古事記』の神話は銅矛を配布した部族の神話であることが考えられてきます。
『古事記』は天孫降臨に随行した神について「其の天兒屋命は中臣連等の祖。布刀玉命は忌部首等の祖。天宇受賣命は猿女君等の祖。伊斯許理度賣命は鏡作連等の祖。玉祖命は玉祖連等の祖」としています。また常世思金神,手力男神,天石門別神、天忍日命,天津久米命の神名も見えます。こうした氏族の祖先が銅矛を配布した部族に属していたことが考えられます。
古墳時代の氏姓制度下ではこれらの神は「天神」とされますが、『古事記』の神話は天神を中心とした神話であり、それは銅矛を配布した部族の神話でもあるということです。神話はかつて部族が存在したことを示しており、初期の大和朝廷が部族制度の影響を受けていることが分かります。
それに対し大和のミワ氏・カモ氏や出雲の出雲臣氏など「地祇」の子孫もあります。また「諸蕃」と言われている渡来系の氏族もあります。『古事記』の神話には「地祇」「諸蕃」の伝えた神話はわずかにオオクニヌシの事績があるだけでほとんどありません。
『古事記』の編纂が中断され、『日本書紀』が先に成立した原因一つとして、「地祇」「諸蕃」の神話を取り込む必要があったことがあげられそうです。 こうして『日本書紀』の神話には「一書に云う」という形で「地祇」「諸蕃」の伝えた神話が加えられました。
それは銅鐸・銅剣を配布した部族の伝えたものです。銅鐸・銅剣を配布した部族の神話は大和朝廷の成立で大部分が消滅してしまったことが考えられます。
邪馬台国が畿内にあったのであれば、ミワ氏・カモ氏や出雲の出雲臣氏など「地祇」が神話の中心にならなければいけませんが、邪馬台国は九州に在りました。
ですから筑紫神話とも言われるように神話の主要舞台は九州になっています。前述のようにスサノオは面土国王です。またイザナギは那珂海人の王であり、私はイザナミを奴国王だと考えています。
表は『魏志』倭人伝に登場してくる人物を書き出し、どの神と似ているかを示したものです。各国の官と副(副官)は除外していますが、これが倭人伝に登場してくる人物の全てです。
?を付したものはその可能性があるか、または可能性が疑われるもので、伊声耆、載斯烏越(載斯・烏越?)についてもおおよその推定が可能です。
白鳥庫吉の言うように、倭人伝の記述と高天が原神話はよく似ています。それどころか倭人伝だけでは分からない部分も分かってきます。神話は弥生時代の部族の暦史であり、その系譜が語られています。
2009年9月11日金曜日
邪馬台国と神話 その3
白鳥庫吉が岩戸の神話と卑弥呼の死の前後の様子がよく似ているとしているのに対し、津田左右吉は神話の物語と倭人伝の記述とは何の接触点もなく、まったく交渉のないものであるとしています。白鳥と津田の論争は決着がつかなかったようですが、神話に対する視点が違うから決着のつけようがありません。
津田左右吉は自分の論法について「その考えがまちがいだという証拠はなにもない」としていますが、その考え自体が明らかに間違いです。津田は「宋書以下の歴史書にみえる倭は、同じく倭と記されていても、それは記紀の言い伝えと対照できるから、その性質が違う」と言っていますが、以後述べるように倭人伝も対照することができます。
もしも津田が言うように神話が創作されたものであるのなら、その種本は倭人伝だと言わざるを得ません。このことは現在の神話は史実ではないとする説に対してもそのまま言えることですが、天の岩戸の神話と卑弥呼の死の前後の様子がよく似ていることをどのように説明されるのでしょうか。
時代は変わっています。那珂道世の説が正しいとは言わないでほしいものです。今日の史学の常識では紀元前後は弥生時代の真只中であり、大和朝廷がすでに成立しているような状態とは思えません。我田引水になるのかも知れませんが、大和朝廷成立の機運が出てくるのは卑弥呼が親魏倭王に冊封され、倭人の間に「擬似冊封体制」が定着して以後のことだと考えています。
前述のように部族は王を擁立しますが、王には稍以上の地域を支配してはならないという職約があり、各稍には部族が擁立した王が存在していました。稍筑紫の王が卑弥呼ですが、卑弥呼は冊封体制によって与えられた親魏倭王という権限によって、他の稍の有力者個々人に対して邑君、邑長のような魏の官職を与えることができたようです。これを「擬似冊封体制」と呼んでみました。
これは女王国のみならず倭人社会全体に、部族が擁立した王と冊封体制によって権威づけられた親魏倭王という、二重のヘゲモニー(覇権・支配権)が存在しているということです。集団としての宗族や氏族は稍を支配している王が統治していますが、宗族や氏族を支配している族長個人は、親魏倭王の卑弥呼から魏の官職を与えられることによって、個人の権威を強化することができました。
宗族(リネージ)は血縁関係の明確な父系血縁集団ですが、クランは血縁関係が不明確で神話や伝説で同族だとされている集団です。クランには政治結社的な性格を持ち支配、非支配の関係が明確なものがあり、これを円錐クラン、またはコニカルクラン、あるいはラメージと言っています。
部族(トライブ)は父系の出自集団を擬制した親族(キンドレッド)集団ですが、親族は基点になる個々人ごとに異なるので血縁集団としてはまとまりの悪い集団です。それに対し氏族(円錐クラン)は血縁関係が明確で、支配、非支配の関係があって、支配制度としては部族(トライブ)よりも氏族(円錐クラン)の方が優れています。
中国を中心とする冊封体制は有力な氏族(円錐クラン)の族長に官職を授け、統治を委任する制度ですから、次第に族長の支配権が強まっていき、やがて部族は氏族に再編成されます。支配制度として効率のよい氏族制度が部族制度に取って代わるのですが、卑弥呼が親魏倭王に冊封されて二重のヘゲモニーが存在するようになったことが、部族社会が氏族社会にかわるきっかけになりました。
私は卑弥呼の親魏倭王が二重のヘゲモニーを形成していることこそ『魏志』倭人伝を究明していく上での最重要事であろうと考えています。卑弥呼が親魏倭王に冊封されたことにより、部族を統一しようとする動き、つまり大和朝廷成立の機運が出てくると考えています。
津田左右吉は自分の論法について「その考えがまちがいだという証拠はなにもない」としていますが、その考え自体が明らかに間違いです。津田は「宋書以下の歴史書にみえる倭は、同じく倭と記されていても、それは記紀の言い伝えと対照できるから、その性質が違う」と言っていますが、以後述べるように倭人伝も対照することができます。
もしも津田が言うように神話が創作されたものであるのなら、その種本は倭人伝だと言わざるを得ません。このことは現在の神話は史実ではないとする説に対してもそのまま言えることですが、天の岩戸の神話と卑弥呼の死の前後の様子がよく似ていることをどのように説明されるのでしょうか。
時代は変わっています。那珂道世の説が正しいとは言わないでほしいものです。今日の史学の常識では紀元前後は弥生時代の真只中であり、大和朝廷がすでに成立しているような状態とは思えません。我田引水になるのかも知れませんが、大和朝廷成立の機運が出てくるのは卑弥呼が親魏倭王に冊封され、倭人の間に「擬似冊封体制」が定着して以後のことだと考えています。
前述のように部族は王を擁立しますが、王には稍以上の地域を支配してはならないという職約があり、各稍には部族が擁立した王が存在していました。稍筑紫の王が卑弥呼ですが、卑弥呼は冊封体制によって与えられた親魏倭王という権限によって、他の稍の有力者個々人に対して邑君、邑長のような魏の官職を与えることができたようです。これを「擬似冊封体制」と呼んでみました。
これは女王国のみならず倭人社会全体に、部族が擁立した王と冊封体制によって権威づけられた親魏倭王という、二重のヘゲモニー(覇権・支配権)が存在しているということです。集団としての宗族や氏族は稍を支配している王が統治していますが、宗族や氏族を支配している族長個人は、親魏倭王の卑弥呼から魏の官職を与えられることによって、個人の権威を強化することができました。
宗族(リネージ)は血縁関係の明確な父系血縁集団ですが、クランは血縁関係が不明確で神話や伝説で同族だとされている集団です。クランには政治結社的な性格を持ち支配、非支配の関係が明確なものがあり、これを円錐クラン、またはコニカルクラン、あるいはラメージと言っています。
部族(トライブ)は父系の出自集団を擬制した親族(キンドレッド)集団ですが、親族は基点になる個々人ごとに異なるので血縁集団としてはまとまりの悪い集団です。それに対し氏族(円錐クラン)は血縁関係が明確で、支配、非支配の関係があって、支配制度としては部族(トライブ)よりも氏族(円錐クラン)の方が優れています。
中国を中心とする冊封体制は有力な氏族(円錐クラン)の族長に官職を授け、統治を委任する制度ですから、次第に族長の支配権が強まっていき、やがて部族は氏族に再編成されます。支配制度として効率のよい氏族制度が部族制度に取って代わるのですが、卑弥呼が親魏倭王に冊封されて二重のヘゲモニーが存在するようになったことが、部族社会が氏族社会にかわるきっかけになりました。
私は卑弥呼の親魏倭王が二重のヘゲモニーを形成していることこそ『魏志』倭人伝を究明していく上での最重要事であろうと考えています。卑弥呼が親魏倭王に冊封されたことにより、部族を統一しようとする動き、つまり大和朝廷成立の機運が出てくると考えています。
2009年9月10日木曜日
邪馬台国と神話 その2
『日本書紀』神功皇后紀は『魏志』倭人伝などの文を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与だと思わせようとしており、これを認める説もありますが、白鳥庫吉はこれを誤りだとして、天の岩戸の神話と卑弥呼の死の前後の様子がよく似ていると述べ、そのことを「その状態の酷似すること、何人も之を否認すること能はざるべし」と言っています。
この白鳥庫吉の考えに反論したのが、白鳥の弟子の津田左右吉で、『津田左右吉全集』別巻序文には二人の間に論争があったことが述べられています。論争は決着しなかったようですが、津田左右吉は次ぎのようなことを言ったでしょう。意訳しています。
ところが支那の文献に見えるこれらの記事は記紀によって伝えられている神話の物語とは、何の接触点もなく、まったく交渉のないものである。(宋書以下の歴史書にみえる倭は、同じく倭と記されていても、それは記紀の言い伝えと対照できるから、その性質が違う)実際に『魏志』によると三世紀のツクシ地方は政治の上で、それより東方の勢力に服属していないことが明らかであり、そうしてこの状態は、さかのぼってはすくなくとも後漢時代、つまり一、二世紀にも、また下がっては少なくとも、邪馬台の勢力が晋に貢物を献上していた時、つまり三世紀の終わりに近いころまで同じだったと考えられ、その考えがまちがいだという証拠はなにもないから、この地方は三世紀より前にヤマトの朝廷によって統一された国家の組織にはいっていなかったと見なければならず、それは支那の文献の記事と記紀の物語とがたがいに交渉のないものである、という事実に応ずるものである。
ここでは特に『魏志』倭人伝が意識されています。「宋書以下の歴史書に見える倭」とは、いわゆる倭の五王が宋(そう、四二〇~四七九)に朝鮮半島の支配を認めさせようとした時代以後という意味で、倭の五王の時代以後は『古事記』『日本書紀』の物語と中国の文献とを対照させることができるが、それ以前は対照させることができない。したがって神話の物語とは何の接触点もなく、まったく交渉のないものだというのです。
津田流論法でよく理解できないのですが、那珂道世が『上代年代考』などで、神武天皇の即位を紀元前後としていることを問題にしたいようです。那珂道世は神武天皇元年が辛酉の年とされていることから、辛酉の年に革命が起きるという『辛酉革命説』に従って、推古天皇九年(六〇一)を基点とし、その一蔀(ぼう)(二一元、一二六〇年)前の紀元前六六〇年が神武天皇元年とされたとしています。
しかし初期の天皇の在位年数が異常に長いことや、その所伝に矛盾が多いことなどから、平均在位年数を三〇年と見て、紀元前後に実在した人物だと考えました。那珂道世の論考は神武紀元の問題だけでなく、神話は史実ではないとする風潮を強め、今日でも細部についてはともかくも、基本的には通説になっています。
津田左右吉は邪馬台国は九州にあったと考えています。そしてツクシ地方が政治の上で1,2世紀に東方の勢力に服属していないことは明らかだとしていますが、この東方の勢力とは大和朝廷のことを言っているのでしょう。大和朝廷の成立が紀元前後なら、それよりも五代前の天照大御神が三世紀の卑弥呼、台与であるはずがないと言いたいようです。
この白鳥庫吉の考えに反論したのが、白鳥の弟子の津田左右吉で、『津田左右吉全集』別巻序文には二人の間に論争があったことが述べられています。論争は決着しなかったようですが、津田左右吉は次ぎのようなことを言ったでしょう。意訳しています。
ところが支那の文献に見えるこれらの記事は記紀によって伝えられている神話の物語とは、何の接触点もなく、まったく交渉のないものである。(宋書以下の歴史書にみえる倭は、同じく倭と記されていても、それは記紀の言い伝えと対照できるから、その性質が違う)実際に『魏志』によると三世紀のツクシ地方は政治の上で、それより東方の勢力に服属していないことが明らかであり、そうしてこの状態は、さかのぼってはすくなくとも後漢時代、つまり一、二世紀にも、また下がっては少なくとも、邪馬台の勢力が晋に貢物を献上していた時、つまり三世紀の終わりに近いころまで同じだったと考えられ、その考えがまちがいだという証拠はなにもないから、この地方は三世紀より前にヤマトの朝廷によって統一された国家の組織にはいっていなかったと見なければならず、それは支那の文献の記事と記紀の物語とがたがいに交渉のないものである、という事実に応ずるものである。
ここでは特に『魏志』倭人伝が意識されています。「宋書以下の歴史書に見える倭」とは、いわゆる倭の五王が宋(そう、四二〇~四七九)に朝鮮半島の支配を認めさせようとした時代以後という意味で、倭の五王の時代以後は『古事記』『日本書紀』の物語と中国の文献とを対照させることができるが、それ以前は対照させることができない。したがって神話の物語とは何の接触点もなく、まったく交渉のないものだというのです。
津田流論法でよく理解できないのですが、那珂道世が『上代年代考』などで、神武天皇の即位を紀元前後としていることを問題にしたいようです。那珂道世は神武天皇元年が辛酉の年とされていることから、辛酉の年に革命が起きるという『辛酉革命説』に従って、推古天皇九年(六〇一)を基点とし、その一蔀(ぼう)(二一元、一二六〇年)前の紀元前六六〇年が神武天皇元年とされたとしています。
しかし初期の天皇の在位年数が異常に長いことや、その所伝に矛盾が多いことなどから、平均在位年数を三〇年と見て、紀元前後に実在した人物だと考えました。那珂道世の論考は神武紀元の問題だけでなく、神話は史実ではないとする風潮を強め、今日でも細部についてはともかくも、基本的には通説になっています。
津田左右吉は邪馬台国は九州にあったと考えています。そしてツクシ地方が政治の上で1,2世紀に東方の勢力に服属していないことは明らかだとしていますが、この東方の勢力とは大和朝廷のことを言っているのでしょう。大和朝廷の成立が紀元前後なら、それよりも五代前の天照大御神が三世紀の卑弥呼、台与であるはずがないと言いたいようです。
2009年9月9日水曜日
邪馬台国と神話 その1
今回から神話に移ります。先に年代論をやりたかったのですが、今までしばしば神話に触れてきたので、成り行きで神話を先にします。倭人伝は門戸・宗族が存在していることを記していますが、宗族やその後の時代の氏族は父系血縁者の集団(リネージ・クラン)です。その宗族、氏族を母系、女系の親族(キンドレツド)が結び付けることによって形成された「擬制された父系出自集団」が部族(トライブ)です。
『古事記』『日本書紀』の神話の主要なテーマになっているのは妻問い(つまとい、求婚すること)と、国求ぎ(くにまぎ、国を求めること)です。妻問いでは母系・女系の系譜が父系の系譜に取り込まれる経過が語られ、母系・女系の系譜が父系の系譜に取り込まれることは、国を得ることと同義でありこれが国求ぎです。
その顕著な例が大国主神の場合です。大国主神が因幡の八上比売や越の沼河比売を妻問いするのは、因幡や越の支配権を得たということであり、邇々芸能命が木花之佐久夜毘売を妻問いするのは、南九州(日向、倭人伝の侏儒国)の支配権を得たということです。
『部族と青銅祭器』で述べましたが、青銅祭器は部族が同族関係にある宗族に配布しました。部族の系譜と歴史は文字がないため口伝されましたが、これが神話です。部族が存続する根拠が神話の語る系譜と歴史であり、その系譜と歴史が忘れられると部族の結合の根拠がなくなり、部族は分解・消滅します。それを具体的な形に表したものが青銅祭器で、部族が消滅すると青銅祭器は埋納されます。
部族が統一されて大和朝廷が成立しますが、『古事記』『日本書紀』に元づく史観では、神が日本を支配していたとされていますから部族が存在したことは考え難いことです。しかし神を部族と考え、部族を宗族(氏族)と民族の中間に位置する集団として捉えれば、部族が存在したことは不自然ではなくなり、神話に対する違和感が薄れてきます。
神話は大きく筑紫神話と出雲神話に分かれ、主体は筑紫神話で出雲神話がそれに付随するという関係になっていますが、筑紫神話は銅矛を配布した部族と戈族を配布した部族の歴史であり、出雲神話は銅鐸を配布した部族と銅剣を配布した部族の歴史です。『部族と青銅祭器 その10』を参考にしてください。そして銅戈と銅剣が筑紫神話と出雲神話を結びつけています。
出雲神話では鐸族を配布した部族が神格化されてオオクニヌシになりますが、オオクニヌシの神話は稍出雲(中国・四国地方)と、それを中心にした稍大和(近畿地方)や稍越(北陸地方)の部族の歴史です。律令制大和国は稍大和に属していますが、その大和の銅鐸を配布した部族のことも出雲神話の一部として語られています。
言い換えると筑紫神話は北部九州の部族連盟国家の歴史といえます。部族連盟国家とは複数の部族が連盟して国家を形成しているということです。出雲神話は中国、四国地方の部族連盟国家の歴史であり、それには近畿地方や北陸地方の部族連盟国家の歴史も加わっています。そして部族連盟国家が統合されて民族国家の倭国になること、すなわち大和朝廷の成立が神話のテーマになっています。
筑紫神話は青銅祭器を配布した部族の神話ですが、高天が原神話のアマテラス、ツキヨミ、スサノヲは部族ではありません。ここからは青銅祭器を配布した部族の歴史ではなく、親魏倭王に冊封された卑弥呼・台与を中心にした、古墳時代の氏族の祖先たちの歴史になっていきます。
『古事記』『日本書紀』の神話の主要なテーマになっているのは妻問い(つまとい、求婚すること)と、国求ぎ(くにまぎ、国を求めること)です。妻問いでは母系・女系の系譜が父系の系譜に取り込まれる経過が語られ、母系・女系の系譜が父系の系譜に取り込まれることは、国を得ることと同義でありこれが国求ぎです。
その顕著な例が大国主神の場合です。大国主神が因幡の八上比売や越の沼河比売を妻問いするのは、因幡や越の支配権を得たということであり、邇々芸能命が木花之佐久夜毘売を妻問いするのは、南九州(日向、倭人伝の侏儒国)の支配権を得たということです。
『部族と青銅祭器』で述べましたが、青銅祭器は部族が同族関係にある宗族に配布しました。部族の系譜と歴史は文字がないため口伝されましたが、これが神話です。部族が存続する根拠が神話の語る系譜と歴史であり、その系譜と歴史が忘れられると部族の結合の根拠がなくなり、部族は分解・消滅します。それを具体的な形に表したものが青銅祭器で、部族が消滅すると青銅祭器は埋納されます。
部族が統一されて大和朝廷が成立しますが、『古事記』『日本書紀』に元づく史観では、神が日本を支配していたとされていますから部族が存在したことは考え難いことです。しかし神を部族と考え、部族を宗族(氏族)と民族の中間に位置する集団として捉えれば、部族が存在したことは不自然ではなくなり、神話に対する違和感が薄れてきます。
神話は大きく筑紫神話と出雲神話に分かれ、主体は筑紫神話で出雲神話がそれに付随するという関係になっていますが、筑紫神話は銅矛を配布した部族と戈族を配布した部族の歴史であり、出雲神話は銅鐸を配布した部族と銅剣を配布した部族の歴史です。『部族と青銅祭器 その10』を参考にしてください。そして銅戈と銅剣が筑紫神話と出雲神話を結びつけています。
出雲神話では鐸族を配布した部族が神格化されてオオクニヌシになりますが、オオクニヌシの神話は稍出雲(中国・四国地方)と、それを中心にした稍大和(近畿地方)や稍越(北陸地方)の部族の歴史です。律令制大和国は稍大和に属していますが、その大和の銅鐸を配布した部族のことも出雲神話の一部として語られています。
言い換えると筑紫神話は北部九州の部族連盟国家の歴史といえます。部族連盟国家とは複数の部族が連盟して国家を形成しているということです。出雲神話は中国、四国地方の部族連盟国家の歴史であり、それには近畿地方や北陸地方の部族連盟国家の歴史も加わっています。そして部族連盟国家が統合されて民族国家の倭国になること、すなわち大和朝廷の成立が神話のテーマになっています。
筑紫神話は青銅祭器を配布した部族の神話ですが、高天が原神話のアマテラス、ツキヨミ、スサノヲは部族ではありません。ここからは青銅祭器を配布した部族の歴史ではなく、親魏倭王に冊封された卑弥呼・台与を中心にした、古墳時代の氏族の祖先たちの歴史になっていきます。
2009年9月8日火曜日
投馬国
投馬国は「水行二十日」となっていますが、これは海に面した国だということであり、田熊・土穴の南の海といえば有明海です。投馬国は有明海に面した筑後と考えるのがよいようです。邪馬台国の戸数は七万、奴国は二万であり、それに対し投馬国は五万ですが、七万、二万に対する五万といえば筑後全体だと考えるのがよいでしょう。
地図はその位置関係を示したものですが、当時、筑後川の下流部は広大な湿地帯であったことが考えられます。倭人伝の国名を見ると地勢を国名にしているものが見られますが、私は投馬国という国名は、三潴郡(みずまぐん)の「潴」の音を表記したものであり、低湿地帯を意味する国名だと考えています。
土着豪族の水沼君の「水沼」も同じような意味を持つのでしょうが、筑後川下流域は低湿地帯が広がっており、投馬国の面積は現在よりも狭かったことが考えられます。
地図を見ると卑弥呼がなぜ甘木・朝倉を国都にしなければならなかったが理解できます。北は奴国であり、西(北西)が邪馬台国の主要部であり、南は投馬国ですが、卑弥呼共立の経過からも分かるように、卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならなかったのです。
私は卑弥呼姉弟は投馬国の王族ではなかったかと考えています。三郡山地の東側には立岩遺跡以外に甕棺墓が見られません。三郡山地を境にして異質の文化が存在しそれが対立していたように思われます。その対立が倭国大乱の遠因であり、卑弥呼共立の原因でもあったと考えます。投馬国はその対立の圏外にあり、その王族の卑弥呼姉弟が倭国を統治するようになると考えます。
継体天皇21年(6世紀前半ころ)、筑紫君磐井が火の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)に勢力を張って反乱を起こしましたが、筑紫の御井郷(三井郡)で交戦し磐井は殺され、磐井の子、葛子は父の罪に連座するのを恐れて糟屋屯倉(福岡県糟屋)を献じて罪を贖ったと言われています。
磐井が生前に造っていたのが八女市の岩戸山古墳だとされていて、磐井の本拠は筑後八女郡です。投馬国は八女郡を中心とした筑後であり、磐井は卑弥呼姉弟の末裔に当たるのではないかと考えています。磐井は継体天皇が卑弥呼(天照大神)の王権を継承していないと考えて、天皇が大和入りした翌年に蜂起したのだと思います。
これで倭人伝に登場してくる国は全て触れましたが、女王国は北部九州に在りました。面土国の存在を認め、それを宗像郡と考えると、倭人伝が説明しようとしているのは主に筑紫(筑前・筑後)であることが分かってきます。
冊封体制には「王城を去ること三百里」以上を支配してはならないという職約(義務)がありました。その王城を中心にした300里以内が「稍」ですが、女王国(稍筑紫)の東には出雲や大和を中心とする稍が存在し、それぞれ王がいました。そのことについては追々に触れていきますが、これで一応邪馬台国の位置論は終わりにします。
地図はその位置関係を示したものですが、当時、筑後川の下流部は広大な湿地帯であったことが考えられます。倭人伝の国名を見ると地勢を国名にしているものが見られますが、私は投馬国という国名は、三潴郡(みずまぐん)の「潴」の音を表記したものであり、低湿地帯を意味する国名だと考えています。
土着豪族の水沼君の「水沼」も同じような意味を持つのでしょうが、筑後川下流域は低湿地帯が広がっており、投馬国の面積は現在よりも狭かったことが考えられます。
地図を見ると卑弥呼がなぜ甘木・朝倉を国都にしなければならなかったが理解できます。北は奴国であり、西(北西)が邪馬台国の主要部であり、南は投馬国ですが、卑弥呼共立の経過からも分かるように、卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならなかったのです。
私は卑弥呼姉弟は投馬国の王族ではなかったかと考えています。三郡山地の東側には立岩遺跡以外に甕棺墓が見られません。三郡山地を境にして異質の文化が存在しそれが対立していたように思われます。その対立が倭国大乱の遠因であり、卑弥呼共立の原因でもあったと考えます。投馬国はその対立の圏外にあり、その王族の卑弥呼姉弟が倭国を統治するようになると考えます。
継体天皇21年(6世紀前半ころ)、筑紫君磐井が火の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)に勢力を張って反乱を起こしましたが、筑紫の御井郷(三井郡)で交戦し磐井は殺され、磐井の子、葛子は父の罪に連座するのを恐れて糟屋屯倉(福岡県糟屋)を献じて罪を贖ったと言われています。
磐井が生前に造っていたのが八女市の岩戸山古墳だとされていて、磐井の本拠は筑後八女郡です。投馬国は八女郡を中心とした筑後であり、磐井は卑弥呼姉弟の末裔に当たるのではないかと考えています。磐井は継体天皇が卑弥呼(天照大神)の王権を継承していないと考えて、天皇が大和入りした翌年に蜂起したのだと思います。
これで倭人伝に登場してくる国は全て触れましたが、女王国は北部九州に在りました。面土国の存在を認め、それを宗像郡と考えると、倭人伝が説明しようとしているのは主に筑紫(筑前・筑後)であることが分かってきます。
冊封体制には「王城を去ること三百里」以上を支配してはならないという職約(義務)がありました。その王城を中心にした300里以内が「稍」ですが、女王国(稍筑紫)の東には出雲や大和を中心とする稍が存在し、それぞれ王がいました。そのことについては追々に触れていきますが、これで一応邪馬台国の位置論は終わりにします。
2009年9月7日月曜日
邪馬台国 その6
その4、その5 の続きです。前期古墳に葬られているのは基本的に一人ですが、弥生時代の台状墓には複数の埋葬が見られます。卑弥呼の墓も卑弥呼一人だけが埋葬されているのではないようです。
名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす〉
この文には卑弥呼の日常生活が述べられています。卑弥呼は武器を持った兵士が守衛する宮殿に住み、千人の侍女に傅(かしず)かれるという生活を送っていますが、女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。
卑弥呼は女王とはいうものの実態は巫女(みこ)で、政治は弟が補佐していました。卑弥呼が神憑りして下す託宣は常人には意味が理解できないものでした。当の巫女自身にも理解できません。そこで意味が分かるように通訳する者が必要で、これをサニハ(審神者)といいます。
これが倭人伝の言う鬼道ですが、サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。この巫女とサニハの関係の名残りは、形式的ではあるが現在の宮参りの時に見られます。宮参りをすると巫女さんが鈴を鳴らしながら舞いますが、これは神憑りした巫女が神の託宣を下している所作です。
鈴の音が神のお告げというわけです。その前後に神主さんが祝詞を奏上しますが、祝詞が終わると神主さんは「願いは聞き届けられるであろう」といった意味のことを言います。神主さんがサニハなのです。今度宮参りをした時に一連の経過を観察してみてください。
卑弥呼の居処には一人の男子が出入りして辞を伝えていたというのですが、卑弥呼が巫女であることから見て辞とは託宣のことだと考えてよいでしょう。この男子がサニハであることが分かりますが、この男子は辞を伝えるだけではなく、婢千人がいるというのに飲食の給仕までしていました。
卑弥呼は巫女として、サニハであるこの男子に全面的に依存した生活を送っていたのです。 この男子については魏には隠された影の夫であろうという説があり、また情人だという穿ったことを言う者もいますが、巫女やサニハは神に仕える清浄なる者として独身であることが求められました。
それだけに巫女とサニハは夫婦以上の強い絆で結ばれていました。巫女は女性ですが、一般にサニハは男性が多いようです。理性的な男性の方がサニハに適しているからでしょう。この文から俗世間からは隔絶した巫女やサニハの特異な日常生活が窺えます。
このペースで行くと何時のことになるか分かりませんが、卑弥呼とサニハの具体的な関係にも触れてみたいと思っています。要点を言うと卑弥呼が神話の天照大神であるのに対し、サニハは蛭子(ひるこ)であろうということです。
天照大神は別名をオオヒルメと言いますが、神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っています。後世には「る」の音が消滅して「ヒルコ」はヒコ(彦)になり、ヒルメはヒメ(姫)になります。
六世紀の古墳に二基を接合した例を知りません。卑弥呼が死んで墓が造られた時、そばにこの男子(蛭子)の墓も造られたと考えます。斉明天皇の筑紫西下までは卑弥呼の墓であることが知られていたが、卑弥呼が斉明天皇にすり変えられて、御陵山は斉明天皇の墓とされるようになったのでしょう。付近に神功皇后の伝承が多いことも忘れてはならないでしょう。
名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす〉
この文には卑弥呼の日常生活が述べられています。卑弥呼は武器を持った兵士が守衛する宮殿に住み、千人の侍女に傅(かしず)かれるという生活を送っていますが、女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。
卑弥呼は女王とはいうものの実態は巫女(みこ)で、政治は弟が補佐していました。卑弥呼が神憑りして下す託宣は常人には意味が理解できないものでした。当の巫女自身にも理解できません。そこで意味が分かるように通訳する者が必要で、これをサニハ(審神者)といいます。
これが倭人伝の言う鬼道ですが、サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。この巫女とサニハの関係の名残りは、形式的ではあるが現在の宮参りの時に見られます。宮参りをすると巫女さんが鈴を鳴らしながら舞いますが、これは神憑りした巫女が神の託宣を下している所作です。
鈴の音が神のお告げというわけです。その前後に神主さんが祝詞を奏上しますが、祝詞が終わると神主さんは「願いは聞き届けられるであろう」といった意味のことを言います。神主さんがサニハなのです。今度宮参りをした時に一連の経過を観察してみてください。
卑弥呼の居処には一人の男子が出入りして辞を伝えていたというのですが、卑弥呼が巫女であることから見て辞とは託宣のことだと考えてよいでしょう。この男子がサニハであることが分かりますが、この男子は辞を伝えるだけではなく、婢千人がいるというのに飲食の給仕までしていました。
卑弥呼は巫女として、サニハであるこの男子に全面的に依存した生活を送っていたのです。 この男子については魏には隠された影の夫であろうという説があり、また情人だという穿ったことを言う者もいますが、巫女やサニハは神に仕える清浄なる者として独身であることが求められました。
それだけに巫女とサニハは夫婦以上の強い絆で結ばれていました。巫女は女性ですが、一般にサニハは男性が多いようです。理性的な男性の方がサニハに適しているからでしょう。この文から俗世間からは隔絶した巫女やサニハの特異な日常生活が窺えます。
このペースで行くと何時のことになるか分かりませんが、卑弥呼とサニハの具体的な関係にも触れてみたいと思っています。要点を言うと卑弥呼が神話の天照大神であるのに対し、サニハは蛭子(ひるこ)であろうということです。
天照大神は別名をオオヒルメと言いますが、神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っています。後世には「る」の音が消滅して「ヒルコ」はヒコ(彦)になり、ヒルメはヒメ(姫)になります。
六世紀の古墳に二基を接合した例を知りません。卑弥呼が死んで墓が造られた時、そばにこの男子(蛭子)の墓も造られたと考えます。斉明天皇の筑紫西下までは卑弥呼の墓であることが知られていたが、卑弥呼が斉明天皇にすり変えられて、御陵山は斉明天皇の墓とされるようになったのでしょう。付近に神功皇后の伝承が多いことも忘れてはならないでしょう。
2009年9月6日日曜日
邪馬台国 その5
その4 の続きです。朝倉郡朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の背後の山は御陵山(ごりょうざん)と呼ばれていて、朝倉で病死した斉明天皇の殯陵という伝説のある古墳があります。しかし天皇の遺体はすぐに朝倉を離れており殯(もがり)も大和の飛鳥川の川原で行われていて、朝倉で殯が行われたという事実はありません。
安本美典氏はこの古墳について『卑弥呼と邪馬台国』で「恵蘇八幡宮の上に斉明天皇の陵といわれる場所があり、石塔が立てられている。あるいは古い女王のゆかりの地であったのだろうか」と述べられていますが、「古い女王のゆかりの地」とされているだけで卑弥呼の墓だとは断言されていません。
御陵山は今は樹木が生い茂って只の山にしか見えませんが、造られた時には非常に目立ったでしょう。この地は甘木平野の東南端であり、ここで筑後川と三郡山地が接しています。頂上からの眺めは雄大で、西には広大な朝倉平野・筑後平野・佐賀平野が広がり、その中を筑後川がゆったりと流れています。
南には水縄山地が屏風のように峻立し、その前は筑後平野の東端部分で豊後日田郡(邪馬国)に連なっています。脚下の道は律令制官道の豊後路で福岡平野・佐賀平野から直接に大分県に行く場合には必ず御陵山の下を通ることになって、筑後川に沿って東西に往来する人々は、必ずこの墓を見上げることになります。
この墓に葬られている人物は筑紫平野の王であったように思われます。卑弥呼の墓とは断定できるわけでありませんが、ふさわしいとは言えるようです。現地の説明標柱によればこの墓は二つの古墳が接合した形になっているということで、前方後円墳ではないかとも双円墳だとも言われていました。
その全体の形は楕円形で前方後円墳のようにも見えますが、前方部の墳丘に特有の直線が見られないし、前方部と後円部を区別するくびれ部もありません。教育委員会は六世紀(古墳時代終末期)に多い群集墳と見て一号墳・二号墳と呼んでいますが、六世紀の群集墳なら墳丘が明確に区別できるはずですが、両者は一体化していてほとんど区別することができません。
また大きさの割には高さがありません。よく観察してみると一つの墳丘に二つの棺が並べて置かれ、それぞれが別の封土で覆われているように見えます。古墳は追葬されることはあっても、基本的に墓室は一つですが、二つの棺が接近しているのは弥生時代の楕円形の台状墓だということでしょう。
南側の墳丘は丘陵の先端が巧みに利用されていて、いかにも大きく見えます。それに対し北側の墳丘は貧弱で、南から見ることを計算して築造されているのでしょう。その長径は「径百余歩」という卑弥呼の墓にふさわしい大きさだといえます。
この「径百余歩」を現在に見られる石柵で囲まれた範囲の直径と考える必要はないと思っています。石柵を設けたためにその範囲が狭まくなったのであり、現に石柵の西側の外周を辿ることができません。 南側から見た地山の頂上部全体が卑弥呼の墓域と見られていたと考えます。
前回には卑弥呼の墓は台状墓であろうと述べました。棺が二つ並んだ古墳の例を見たことがありませんが、台状墓なら棺が二つ並んでいてもおかしくありません。私は倭人伝の記事と神話からこの墓に葬られている人物を、卑弥呼と卑弥呼の元に出入りしている男子と見ています。
安本美典氏はこの古墳について『卑弥呼と邪馬台国』で「恵蘇八幡宮の上に斉明天皇の陵といわれる場所があり、石塔が立てられている。あるいは古い女王のゆかりの地であったのだろうか」と述べられていますが、「古い女王のゆかりの地」とされているだけで卑弥呼の墓だとは断言されていません。
御陵山は今は樹木が生い茂って只の山にしか見えませんが、造られた時には非常に目立ったでしょう。この地は甘木平野の東南端であり、ここで筑後川と三郡山地が接しています。頂上からの眺めは雄大で、西には広大な朝倉平野・筑後平野・佐賀平野が広がり、その中を筑後川がゆったりと流れています。
南には水縄山地が屏風のように峻立し、その前は筑後平野の東端部分で豊後日田郡(邪馬国)に連なっています。脚下の道は律令制官道の豊後路で福岡平野・佐賀平野から直接に大分県に行く場合には必ず御陵山の下を通ることになって、筑後川に沿って東西に往来する人々は、必ずこの墓を見上げることになります。
この墓に葬られている人物は筑紫平野の王であったように思われます。卑弥呼の墓とは断定できるわけでありませんが、ふさわしいとは言えるようです。現地の説明標柱によればこの墓は二つの古墳が接合した形になっているということで、前方後円墳ではないかとも双円墳だとも言われていました。
その全体の形は楕円形で前方後円墳のようにも見えますが、前方部の墳丘に特有の直線が見られないし、前方部と後円部を区別するくびれ部もありません。教育委員会は六世紀(古墳時代終末期)に多い群集墳と見て一号墳・二号墳と呼んでいますが、六世紀の群集墳なら墳丘が明確に区別できるはずですが、両者は一体化していてほとんど区別することができません。
また大きさの割には高さがありません。よく観察してみると一つの墳丘に二つの棺が並べて置かれ、それぞれが別の封土で覆われているように見えます。古墳は追葬されることはあっても、基本的に墓室は一つですが、二つの棺が接近しているのは弥生時代の楕円形の台状墓だということでしょう。
南側の墳丘は丘陵の先端が巧みに利用されていて、いかにも大きく見えます。それに対し北側の墳丘は貧弱で、南から見ることを計算して築造されているのでしょう。その長径は「径百余歩」という卑弥呼の墓にふさわしい大きさだといえます。
この「径百余歩」を現在に見られる石柵で囲まれた範囲の直径と考える必要はないと思っています。石柵を設けたためにその範囲が狭まくなったのであり、現に石柵の西側の外周を辿ることができません。 南側から見た地山の頂上部全体が卑弥呼の墓域と見られていたと考えます。
前回には卑弥呼の墓は台状墓であろうと述べました。棺が二つ並んだ古墳の例を見たことがありませんが、台状墓なら棺が二つ並んでいてもおかしくありません。私は倭人伝の記事と神話からこの墓に葬られている人物を、卑弥呼と卑弥呼の元に出入りしている男子と見ています。
2009年9月5日土曜日
邪馬台国 その4
邪馬台国問題の決め手は卑弥呼に授与された「親魏倭王」の金印が出土することだとも、また卑弥呼が住んだ宮室・楼館が発見されることだともいわれていますが、それはよほどの偶然が重ならなければ望めないことです。その点で卑弥呼の墓が現存しているのであれば、そうとは知らずに日常的に見ているかも知れません。
倭人伝は「卑弥呼は以って死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者奴婢百余人」と記しています。径百余歩については140メートルをはじめとして70~80メートル説、180メートル説など様々な説がありますが、いずれにしても巨大な墓が造られ、盛大な葬儀が営まれたようです。
帯方郡使の耳に入るくらいですから、大きいばかりでなくよく見える場所にあって目立ったのでしょう。三世紀になると見晴らしのきく丘陵上に、50メートルを越える墳丘墓が築かれるようになります。ことに山陰・山陽でこれが顕著になります。
後期も後半になると階級差が明確になって墓が大きくなるのですが、卑弥呼の墓も丘陵上に有って古墳時代の古墳と変わらない感じがすることが考えられます。しかし卑弥呼の時代は弥生時代であって古墳時代ではありませんから、卑弥呼の墓と古墳時代の墓には違いがあるはずです。
奈良県箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が注目を集めていますが、私には奈良盆地の東南部という限られた地域の前期古墳だけが弥生時代の墓とされるのが不思議です。箸墓古墳が卑弥呼の墓なら全国の前期古墳は弥生時代の墓でなければならないことになりますが、これには土器の形式だけの問題ではない、別の意図があるように思えます。
倭人伝は「卑弥呼は以って死す。大いに冢を作る」と記していますが、「冢」とはどのような墓を言うのでしょうか。森浩一氏は「中国では冢(ちょう)と古墳は区別されており、冢はいわゆる高塚古墳ではない」と言っていますが、時代に似つかわしくない大きな墓を冢と呼んでいる事があるそうです。
そこで漢字が表意文字であることから冢(ちょう)の文字の意味そのものを分析してみました。冢はワ冠(わかんむり)と豕、および8画目の丶(てん)の3部分で構成されており、ワ冠(わかんむり)には「覆う」とか「覆うもの」という意味があります。
豕は豚に関係する文字ですが、中国では豚と猪を区別しないそうですから「豕」は猪のことだと考えてよさそうです。丶(てん)は注意を喚起することによって意味を持たせる記号のようです。猪の巣は窪地に落ち葉などを敷いて作り、出産前や冬期には枯枝などで屋根のある巣を作るそうです。
そこで冢(ちょう)の8画目の丶(てん)は猪が巣の窪地の中に居ることを表すと考えてみました。そうすると出産前や冬季の猪の巣の窪地が冢(ちょう)だということになりそうです。猪が巣を出ると「家」になり、土でできた冢が塚です。
猪が巣で寝ている姿と死者が墓穴に納められた状態が似ていることから、墓穴を冢(ちょう)というのでしょう。とすれば冢は棺を納める部分ということになり、「大いに冢を作る。径百余歩」は墳丘の大きさや高さを言っているのではなくて、墓域の広さを言っていると見ることができます。
倭人伝に「其死、有棺無槨、封土作冢」とありますが、槨(墓室)がないというのですからそれは冢といえるようです。卑弥呼の墓もあまり高さはないと考えるのがよさそうです。箸墓古墳には棺だけがあって槨がないのでしょうか。古墳の常識から言ってそのようには考えられません。
墓穴を埋め戻すと塚ができますが、塚を意図的に大きくしたものが古墳です。墳の『賁」には「飾る」という意味があります。おそらく卑弥呼の墓は塚の段階であり、「径百余歩」とありますから、円形の墓域が強調された、弥生時代の墓制でいう台状墓でしょう。少なくとも箸墓のように高さや形を強調したものではないはずです。
箸墓古墳では吉備地方の特色を持つ特殊器台が見られるということですが、これは明らかに「墳」です。また前方後円という定型化された墳形も「墳」そのものです。箸墓古墳は槨(墓室)のない冢とは言えないようです。箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないのです。
倭人伝は「卑弥呼は以って死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者奴婢百余人」と記しています。径百余歩については140メートルをはじめとして70~80メートル説、180メートル説など様々な説がありますが、いずれにしても巨大な墓が造られ、盛大な葬儀が営まれたようです。
帯方郡使の耳に入るくらいですから、大きいばかりでなくよく見える場所にあって目立ったのでしょう。三世紀になると見晴らしのきく丘陵上に、50メートルを越える墳丘墓が築かれるようになります。ことに山陰・山陽でこれが顕著になります。
後期も後半になると階級差が明確になって墓が大きくなるのですが、卑弥呼の墓も丘陵上に有って古墳時代の古墳と変わらない感じがすることが考えられます。しかし卑弥呼の時代は弥生時代であって古墳時代ではありませんから、卑弥呼の墓と古墳時代の墓には違いがあるはずです。
奈良県箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が注目を集めていますが、私には奈良盆地の東南部という限られた地域の前期古墳だけが弥生時代の墓とされるのが不思議です。箸墓古墳が卑弥呼の墓なら全国の前期古墳は弥生時代の墓でなければならないことになりますが、これには土器の形式だけの問題ではない、別の意図があるように思えます。
倭人伝は「卑弥呼は以って死す。大いに冢を作る」と記していますが、「冢」とはどのような墓を言うのでしょうか。森浩一氏は「中国では冢(ちょう)と古墳は区別されており、冢はいわゆる高塚古墳ではない」と言っていますが、時代に似つかわしくない大きな墓を冢と呼んでいる事があるそうです。
そこで漢字が表意文字であることから冢(ちょう)の文字の意味そのものを分析してみました。冢はワ冠(わかんむり)と豕、および8画目の丶(てん)の3部分で構成されており、ワ冠(わかんむり)には「覆う」とか「覆うもの」という意味があります。
豕は豚に関係する文字ですが、中国では豚と猪を区別しないそうですから「豕」は猪のことだと考えてよさそうです。丶(てん)は注意を喚起することによって意味を持たせる記号のようです。猪の巣は窪地に落ち葉などを敷いて作り、出産前や冬期には枯枝などで屋根のある巣を作るそうです。
そこで冢(ちょう)の8画目の丶(てん)は猪が巣の窪地の中に居ることを表すと考えてみました。そうすると出産前や冬季の猪の巣の窪地が冢(ちょう)だということになりそうです。猪が巣を出ると「家」になり、土でできた冢が塚です。
猪が巣で寝ている姿と死者が墓穴に納められた状態が似ていることから、墓穴を冢(ちょう)というのでしょう。とすれば冢は棺を納める部分ということになり、「大いに冢を作る。径百余歩」は墳丘の大きさや高さを言っているのではなくて、墓域の広さを言っていると見ることができます。
倭人伝に「其死、有棺無槨、封土作冢」とありますが、槨(墓室)がないというのですからそれは冢といえるようです。卑弥呼の墓もあまり高さはないと考えるのがよさそうです。箸墓古墳には棺だけがあって槨がないのでしょうか。古墳の常識から言ってそのようには考えられません。
墓穴を埋め戻すと塚ができますが、塚を意図的に大きくしたものが古墳です。墳の『賁」には「飾る」という意味があります。おそらく卑弥呼の墓は塚の段階であり、「径百余歩」とありますから、円形の墓域が強調された、弥生時代の墓制でいう台状墓でしょう。少なくとも箸墓のように高さや形を強調したものではないはずです。
箸墓古墳では吉備地方の特色を持つ特殊器台が見られるということですが、これは明らかに「墳」です。また前方後円という定型化された墳形も「墳」そのものです。箸墓古墳は槨(墓室)のない冢とは言えないようです。箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないのです。
2009年9月4日金曜日
邪馬台国 その3
邪馬台国は戸数七万の大国ですが、前漢時代の倭の百余国の頃にはそれが幾つかの小国に分立していたようです。そうした小国の一つが須玖岡本遺跡を中心とした福岡平野にあったことが考えられます。しかしその国は那珂海人の国であって元来の邪馬台国ではないようです。
地政学的に見て玄界灘・響灘沿岸地域の中心は須玖岡本遺跡付近になります。しかし内陸部を含めると小郡市・鳥栖市・甘木市など、二日市地峡の南の入り口付近になります。このことは現在の主要な鉄道、道路がこの付近で交差することを見ても明らかです。
ここは筑後平野・佐賀平野と福岡平野の接点であり、また筑後川沿いに東に行くと豊後であり、豊後灘を渡ると四国に至ります。三郡山地を越えると遠賀川流域です。 元来の邪馬台国はこの地域にあり、卑弥呼の墓や宮殿が有ったことは考えられてよいことです。
私は邪馬国は豊後日田郡だが、その日田郡と筑紫平野(筑後・佐賀・甘木平野)との境を邪馬台と言ったのか、あるいは甘木平野と三郡山地の境の微高地を邪馬台と言ったのか、どちらかであろうと考えています。あるいは両方の意味があるのかもしれません。
二日市地峡の周辺を邪馬台国とする説はいくつかありますが、その一つに甘木・朝倉とする安本美典氏の説があります。安本氏は倭人伝の記事だけでは情報が不足して邪馬台国の位置は定まらないとし、神話と結びつけることで甘木・朝倉地方を邪馬台国としています。
私は倭人伝の記事だけでは面としての邪馬台国の位置は分かるけれども、点としての位置は分からないと考えます。 点としての邪馬台国とは卑弥呼の宮殿や墓のある場所と言う意味です。倭人伝に見える方位・距離の終点は国境であって、国都などような「中心地」ではありません。
そうした意味で安本氏の説に魅力を感じているのですが、安本氏は甘木そのものが高天が原や天(アマ)に通じ、神々が集ったという天の安川に相当する夜須川という川があり、夜須町という町も現存していとしています。
夜須町の夜須は『日本書紀』や『万葉集』に古くは安と記されているほか、『古事記』『日本書紀』の天の香山と呼ばれた山もこの地に存在すると指摘しています。またこの地域一帯には大和地方と一致する地名が多く存在し、その方角もほとんど一致しており、この地の勢力が畿内に進出し地名も移動した可能性があるとされています。
さらに高木神を祭る高木神社が多いことを指摘されていますが、これを軽視してはならないようです。 私は髙木神を倭人伝の大倭だと考えていますが、高天が原神話では髙木神が極めて重視され、『日本書紀』では皇祖としている一書もあります。この地が神話の高天が原のモデルになっていることは確かなようです。
甘木・朝倉について不思議なことは、この地が斉明天皇の筑紫西下の地になったことです。 斉明天皇七年(661)、新羅・唐の大軍に攻められた百済を救援する出兵が行われ、斉明天皇は筑紫の朝倉を大本営として出兵を指揮しますが、その宮を朝倉橘広庭宮と言っています。
朝倉では疫病が発生して近従が多数病死し天皇自身もその年の7月に急死します。天皇の遺体は8月に磐瀬宮に移されていますが、磐瀬宮は那珂郡三宅郷(福岡市南区三宅か?)に有ったとされています。斉明天皇 の筑紫西下には出兵の指揮とは別の目的があったように思われます。
出兵を指揮するというのであれば博多湾岸の磐瀬宮の方が有利です。なぜ斉明天皇の皇宮は磐瀬宮でなくて朝倉橘広庭宮でなければならなかったのでしょうか。そもそも高齢の女帝が出兵を指揮するのも不思議です。しかも中大兄皇子(後の天智天皇)も同行しているのです。
『日本書紀』は朝倉橘広庭宮造営のために朝倉の神の社の木を切ったために、神が祟って宮殿を壊し、宮中に鬼火が現れたと伝えています。私は卑弥呼の宮殿が有ったと話すことがためらわれるような事情が有ったと考えていますが、それには神功皇后が絡んでいると考えます。
神功皇后が絡んでいるとは、応神天皇の出自が絡んでいるということです。私は卑弥呼(天照大神)+斉明天皇÷2=神功皇后だと考えていますが、斉明天皇・神功皇后の蔭に卑弥呼が見え隠れしているように思っています。
卑弥呼の死は247年であり、神功皇后は4世紀末ごろに実在したと考えます。斉明天皇の筑紫西下は661年です。その間隔は 口伝ではあっても歴史の記憶が完全に消失するほどの期間ではありません。
卑弥呼の宮殿が有ったという言い伝えも、神功皇后の伝承や朝倉橘広庭宮の記憶に吸収されたのでしょう。ことに神功皇后の伝承は卑弥呼の記憶を意図的に撹乱し、抹消しようとしているように思っています。
地政学的に見て玄界灘・響灘沿岸地域の中心は須玖岡本遺跡付近になります。しかし内陸部を含めると小郡市・鳥栖市・甘木市など、二日市地峡の南の入り口付近になります。このことは現在の主要な鉄道、道路がこの付近で交差することを見ても明らかです。
ここは筑後平野・佐賀平野と福岡平野の接点であり、また筑後川沿いに東に行くと豊後であり、豊後灘を渡ると四国に至ります。三郡山地を越えると遠賀川流域です。 元来の邪馬台国はこの地域にあり、卑弥呼の墓や宮殿が有ったことは考えられてよいことです。
私は邪馬国は豊後日田郡だが、その日田郡と筑紫平野(筑後・佐賀・甘木平野)との境を邪馬台と言ったのか、あるいは甘木平野と三郡山地の境の微高地を邪馬台と言ったのか、どちらかであろうと考えています。あるいは両方の意味があるのかもしれません。
二日市地峡の周辺を邪馬台国とする説はいくつかありますが、その一つに甘木・朝倉とする安本美典氏の説があります。安本氏は倭人伝の記事だけでは情報が不足して邪馬台国の位置は定まらないとし、神話と結びつけることで甘木・朝倉地方を邪馬台国としています。
私は倭人伝の記事だけでは面としての邪馬台国の位置は分かるけれども、点としての位置は分からないと考えます。 点としての邪馬台国とは卑弥呼の宮殿や墓のある場所と言う意味です。倭人伝に見える方位・距離の終点は国境であって、国都などような「中心地」ではありません。
そうした意味で安本氏の説に魅力を感じているのですが、安本氏は甘木そのものが高天が原や天(アマ)に通じ、神々が集ったという天の安川に相当する夜須川という川があり、夜須町という町も現存していとしています。
夜須町の夜須は『日本書紀』や『万葉集』に古くは安と記されているほか、『古事記』『日本書紀』の天の香山と呼ばれた山もこの地に存在すると指摘しています。またこの地域一帯には大和地方と一致する地名が多く存在し、その方角もほとんど一致しており、この地の勢力が畿内に進出し地名も移動した可能性があるとされています。
さらに高木神を祭る高木神社が多いことを指摘されていますが、これを軽視してはならないようです。 私は髙木神を倭人伝の大倭だと考えていますが、高天が原神話では髙木神が極めて重視され、『日本書紀』では皇祖としている一書もあります。この地が神話の高天が原のモデルになっていることは確かなようです。
甘木・朝倉について不思議なことは、この地が斉明天皇の筑紫西下の地になったことです。 斉明天皇七年(661)、新羅・唐の大軍に攻められた百済を救援する出兵が行われ、斉明天皇は筑紫の朝倉を大本営として出兵を指揮しますが、その宮を朝倉橘広庭宮と言っています。
朝倉では疫病が発生して近従が多数病死し天皇自身もその年の7月に急死します。天皇の遺体は8月に磐瀬宮に移されていますが、磐瀬宮は那珂郡三宅郷(福岡市南区三宅か?)に有ったとされています。斉明天皇 の筑紫西下には出兵の指揮とは別の目的があったように思われます。
出兵を指揮するというのであれば博多湾岸の磐瀬宮の方が有利です。なぜ斉明天皇の皇宮は磐瀬宮でなくて朝倉橘広庭宮でなければならなかったのでしょうか。そもそも高齢の女帝が出兵を指揮するのも不思議です。しかも中大兄皇子(後の天智天皇)も同行しているのです。
『日本書紀』は朝倉橘広庭宮造営のために朝倉の神の社の木を切ったために、神が祟って宮殿を壊し、宮中に鬼火が現れたと伝えています。私は卑弥呼の宮殿が有ったと話すことがためらわれるような事情が有ったと考えていますが、それには神功皇后が絡んでいると考えます。
神功皇后が絡んでいるとは、応神天皇の出自が絡んでいるということです。私は卑弥呼(天照大神)+斉明天皇÷2=神功皇后だと考えていますが、斉明天皇・神功皇后の蔭に卑弥呼が見え隠れしているように思っています。
卑弥呼の死は247年であり、神功皇后は4世紀末ごろに実在したと考えます。斉明天皇の筑紫西下は661年です。その間隔は 口伝ではあっても歴史の記憶が完全に消失するほどの期間ではありません。
卑弥呼の宮殿が有ったという言い伝えも、神功皇后の伝承や朝倉橘広庭宮の記憶に吸収されたのでしょう。ことに神功皇后の伝承は卑弥呼の記憶を意図的に撹乱し、抹消しようとしているように思っています。
2009年9月2日水曜日
邪馬台国 その2
国道3号線は宗像から三郡山地に沿うようにして筑後・肥後に達しています。その狭隘部、二日市地峡の北の入り口、春日丘陵は弥生遺跡が密集し、考古学者の間では弥生銀座と呼ばれ、その出土品には目を見張るものがあります。その中心的存在が須玖岡本遺跡で、前漢鏡三五面、銅剣、ガラス製品などが出土しています。
私は須玖岡本遺跡の年代を通説よりも数十年新しく見て、一世紀の初めのものだと考えています。五七年に奴国王が遣使し「漢委奴国王」の金印を授与されていますが、通説では須玖岡本遺跡の主は奴国王だとされています。しかし福岡平野は奴国ではなく邪馬台国です。戸数七万の邪馬台国は前漢時代百余国の内の何ヶ国かが併合されたもので、そうした国の王の一人と見るのがよいようです。
本稿ではこの王を那珂海人の王と呼ぶことにします。 那珂海人とは志賀島の阿曇海人、宗像郡の宗像海人に対応させたもので、筑前那珂郡を本拠とする海洋民で、後世に住吉神社や警固神社を奉祭するようになる海人集団という意味です。
現在の須玖岡本遺跡は那珂川、三笠川の沖積が進み、埋め立てが行われて海岸線から遠くなっていますが、当時は海岸線から二キロほどだったと言われています。その那珂川と三笠川に挟まれた陸地が那珂海人の活動する場所でした。
その北には博多湾を隔てて「海の中道」と、金印の出土した志賀島があり、志賀島には志賀海神社が鎮座しています。志賀島は海洋民として知られる古代豪族、阿曇氏の発祥の地であり、阿曇氏が玄界灘の航行に従事したことは、各地に綿津見神が祭られていることなどでも知ることができます。
住吉神社、志賀海神社は『古事記』『日本書紀』の神話に起源を持つ古社で、黄泉国から逃げ帰ったイザナギは「竺紫の日向(つくしのひむか)の橘の小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あわぎがはら)」で禊(みそぎ)をして、住吉神社の筒之男三神、志賀海神社の綿津見三神などを生んだとされています。
もとよりこれは神話上のもので、日向とあることから宮崎市にも伝承地がありますが、この神話は須玖岡本と住吉神社・志賀海神社を結ぶ線上、あるいはその付近の博多湾岸で生まれたと考えています。
私はかつて居たであろう那珂海人の王の活動の記憶が、イザナギの神話になったと考えていますが、須玖岡本遺跡の主もイザナギのモデルのひとりであろうし、阿曇海人、住吉海人の遠祖たちもそのモデルになっていると思っています。その人達が福岡平野、二日市地峡、甘木平野を併合していき、戸数七万の邪馬台国を形成することになるのでしょう。
通説では福岡平野は奴国とされていて、その根拠のひとつとして志賀島から金印が出土したことがあげられていますが、福岡平野が奴国なら金印は福岡平野のどこかに埋められそうなもので、志賀島に金印が埋められたのには別の理由がありそうです。
私は志賀島が神話のオノゴロ嶋のモデルだと考えています。イザナギ、イザナミ二神はオノゴロ嶋に天の御柱を見立て(見なして)、その柱を回って国を生み神々を生みます。その中心がオノゴロ嶋だとされているようで、阿曇・那珂海人は志賀島がそのオノゴロ嶋だとして神聖視したようです。
五七年と一〇七年の間のある時、おそらくは一〇七年に近いころ奴国王から面土国王に倭の支配権が移りますが、この時に金印は志賀島に埋められたと考えています。それは阿曇・那珂・宗像などの海人の海洋祭祀に係わるものだったように思われます。
国生み・神生みの神話の舞台になっているこの地域が、倭人伝の邪馬台国であったことは考えられてもよいことです。ところが邪馬台国という国名からは海人の国であるとは考えられず、むしろ山に関係する国名のように思われます。ということは、邪馬台国には海に近い部分と山に近い部分があり、本来の邪馬台国は山の部分だということでしょう。
私は須玖岡本遺跡の年代を通説よりも数十年新しく見て、一世紀の初めのものだと考えています。五七年に奴国王が遣使し「漢委奴国王」の金印を授与されていますが、通説では須玖岡本遺跡の主は奴国王だとされています。しかし福岡平野は奴国ではなく邪馬台国です。戸数七万の邪馬台国は前漢時代百余国の内の何ヶ国かが併合されたもので、そうした国の王の一人と見るのがよいようです。
本稿ではこの王を那珂海人の王と呼ぶことにします。 那珂海人とは志賀島の阿曇海人、宗像郡の宗像海人に対応させたもので、筑前那珂郡を本拠とする海洋民で、後世に住吉神社や警固神社を奉祭するようになる海人集団という意味です。
現在の須玖岡本遺跡は那珂川、三笠川の沖積が進み、埋め立てが行われて海岸線から遠くなっていますが、当時は海岸線から二キロほどだったと言われています。その那珂川と三笠川に挟まれた陸地が那珂海人の活動する場所でした。
その北には博多湾を隔てて「海の中道」と、金印の出土した志賀島があり、志賀島には志賀海神社が鎮座しています。志賀島は海洋民として知られる古代豪族、阿曇氏の発祥の地であり、阿曇氏が玄界灘の航行に従事したことは、各地に綿津見神が祭られていることなどでも知ることができます。
住吉神社、志賀海神社は『古事記』『日本書紀』の神話に起源を持つ古社で、黄泉国から逃げ帰ったイザナギは「竺紫の日向(つくしのひむか)の橘の小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あわぎがはら)」で禊(みそぎ)をして、住吉神社の筒之男三神、志賀海神社の綿津見三神などを生んだとされています。
もとよりこれは神話上のもので、日向とあることから宮崎市にも伝承地がありますが、この神話は須玖岡本と住吉神社・志賀海神社を結ぶ線上、あるいはその付近の博多湾岸で生まれたと考えています。
私はかつて居たであろう那珂海人の王の活動の記憶が、イザナギの神話になったと考えていますが、須玖岡本遺跡の主もイザナギのモデルのひとりであろうし、阿曇海人、住吉海人の遠祖たちもそのモデルになっていると思っています。その人達が福岡平野、二日市地峡、甘木平野を併合していき、戸数七万の邪馬台国を形成することになるのでしょう。
通説では福岡平野は奴国とされていて、その根拠のひとつとして志賀島から金印が出土したことがあげられていますが、福岡平野が奴国なら金印は福岡平野のどこかに埋められそうなもので、志賀島に金印が埋められたのには別の理由がありそうです。
私は志賀島が神話のオノゴロ嶋のモデルだと考えています。イザナギ、イザナミ二神はオノゴロ嶋に天の御柱を見立て(見なして)、その柱を回って国を生み神々を生みます。その中心がオノゴロ嶋だとされているようで、阿曇・那珂海人は志賀島がそのオノゴロ嶋だとして神聖視したようです。
五七年と一〇七年の間のある時、おそらくは一〇七年に近いころ奴国王から面土国王に倭の支配権が移りますが、この時に金印は志賀島に埋められたと考えています。それは阿曇・那珂・宗像などの海人の海洋祭祀に係わるものだったように思われます。
国生み・神生みの神話の舞台になっているこの地域が、倭人伝の邪馬台国であったことは考えられてもよいことです。ところが邪馬台国という国名からは海人の国であるとは考えられず、むしろ山に関係する国名のように思われます。ということは、邪馬台国には海に近い部分と山に近い部分があり、本来の邪馬台国は山の部分だということでしょう。
邪馬台国 その1
いよいよ今回から邪馬台国です。女王国の国境は筑後・豊後の南境と肥後・日向の北境であり、女王国は筑紫(筑前・筑後)と豊(豊前・豊後)のはずです。大宰府天満宮に伝わる『翰苑』には、倭国を記述した史書の逸文が収められていますが、『翰苑』は唐の顕慶五年(660)に張楚金が撰述した文例集です。
太宰府天満宮の写本はその書体から平安時代初期(9世紀)に筆写されたと考えられています。それは誤記が多く史料としては価値が低いと考えられていますが、他の資料には見えないものがあります。
この『翰苑』と『魏志』倭人伝を比較、検討すると、『魏志』倭人伝だけでは分からないことが明らかになってきます。資料は限られていますから誤字・脱字が多いからといって無視すべきではなく、価値の低い資料の中から史実を見つけることも必要です。
その中に『廣志』を引用した次の文が見られます。『廣志』は現存しておらず詳しいことがわかっていませんが、私はこの文こそ邪馬台国の位置を決める「決め手」だと考えています。
邪届伊都、傍連斯馬。廣志曰、「[イ妾](倭)國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉国、百(自)女〔欠「王」〕国以北、其戸數道里、可得略載、次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、安(案)[イ妾](倭)西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、盖(蓋)伊耶國也。
表題の「邪届伊都傍連斯馬」については「邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわら)斯馬に連らなる」と読む説や「邪(や)は伊都に届き、斯馬の傍(そば)に連らなる」と読む説がありますが、どちらの説にしても伊都国に届き、斯馬国に連なっている国があることになります。
「ある地点」の東南五百里に伊都国があり、南には邪馬嘉国があるというのです。邪馬嘉は「やまか」とでも読むのでしょう。台が正しの壱が正しいのかという激しい論争がありましたが、私はそれに嘉も加えてほしいものだと思っています。
台・壱・嘉はその古字がよく似ていますが、いずれも邪馬台国のことだと考えるのがよいでしょう。壱に拘る説を見かけますが、あまり意味がないように思います。その「ある地点」とは面土国、つまり宗像郡の田熊・土穴付近です。
ここで注意しなければならないのは『翰苑』の文には奴国・不弥国・投馬国が見えないことです。倭人伝の地理記事だと、伊都国と邪馬台国の間に奴国・不弥国が位置していることになりますが、『翰苑』の文だと奴国・不弥国・投馬国を考慮する必要がありません。
つまり邪馬台国の位置と奴国・不弥国・投馬国の位置とは無関係なのです。これは倭人伝に見える国々の方位・距離は直線行程ではなく放射行程だということです。ある地点の東南に伊都国があり、南には邪馬嘉国が有るというのです。
巴百支国・伊那(耶)国にも注目しなければならないでしょう。巴百支国は倭人伝で斯馬国に続いて出てくる巳百支国のことでしょうし、伊邪国は伊邪国のことでしょう。その伊邪国について「安(あん)ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り。布帛(ふはく)は無く革を以って衣(ころも)と為(な)す。盖(けだ)し伊耶國也(いやこくなり)』とあります。
「倭の西南海行一日に伊邪分国有り」の伊邪分国の「分」は「久」の誤りで、現在の屋久島のことだと考えられています。『隋書』流求国伝に登場する「夷邪久国」のことですが、この文は倭人伝に見える裸国・黒歯国の記事を考察しているのでしょう。
裸国・黒歯国の方位・距離は東南一年となっていますが、東南一年だと太平洋上になってしまいます。張楚金は遣隋使の情報からこれを屋久島まで西南海行一日だと考えたのでしょう。 すでに述べたように東南一年は本州の東端に至るのに一年を要するという意味のようです。
巳百支国・伊邪国は伊都国(田川郡)に近く、また邪馬嘉国にも近い国のようです。私はこれを豊後にあった国だと考えています。
「邪届伊都、傍連斯馬」の文から、邪馬台国は伊都国と斯馬国の間に位置していることが考えられますが、伊都国は田川郡であり、また斯馬国は志摩郡でした。邪馬台国は東が田川郡に届いていて、西は志摩郡に連なっているのです。
現在の朝倉郡東峰村(とうほうむら)は田川郡添田町(そえだまち)と隣接し、旧筑前国上座郡(かむつあさくらぐん)に属しています。土地勘がないと分かりにくいのですが田川郡と上座郡(朝倉郡)は接しています。上座郡、つまり甘木平野も邪馬台国なのです。
邪馬台国の邪馬は、国名のみが列記された二一ヶ国の一六番目の邪馬国と同様に、山に関係する国名だと考えることができます。 邪馬国は豊後日田郡ですが、その日田郡と筑後平野(甘木平野)との境を邪馬台と言ったのか、あるいは甘木平野と三郡山地の境の微高地を邪馬台と言ったのか、どちらかであろうと考えています。
邪馬台国の方位は南ですから邪馬台国は宗像郡田熊・土穴の南でなければいけません。また距離が書かれていませんから、面土国と邪馬台国は国境を接していることが考えられます。
また「水行十日、陸行一月」は邪馬台国が海に面していることを示していますが、そうであればこの海は志賀島周辺の玄界灘か博多湾であることが考えられます。 邪馬台国は玄界灘・博多湾に面した福岡平野や、甘木平野など三郡山地を堺にした筑前西半だと考えることができます。
その南限は筑前と筑後の国境、つまり筑後川で、上座・下座・夜須・糟屋・三笠・席田・那珂・早良・怡土の9郡域になると思います。私は遠賀川中・上流域3郡(奴国)の戸数が二万とされていることから、1郡当りの平均は7千戸だと考えていますが、9郡だと6万3千戸になります。
すでに述べてきたように後の律令制国郡の境界の原形が存在していることが考えられ、肥前には国名のみの21ヶ国があることが考えられますから、邪馬台国の領域が肥前に及ぶことはないと思います。
太宰府天満宮の写本はその書体から平安時代初期(9世紀)に筆写されたと考えられています。それは誤記が多く史料としては価値が低いと考えられていますが、他の資料には見えないものがあります。
この『翰苑』と『魏志』倭人伝を比較、検討すると、『魏志』倭人伝だけでは分からないことが明らかになってきます。資料は限られていますから誤字・脱字が多いからといって無視すべきではなく、価値の低い資料の中から史実を見つけることも必要です。
その中に『廣志』を引用した次の文が見られます。『廣志』は現存しておらず詳しいことがわかっていませんが、私はこの文こそ邪馬台国の位置を決める「決め手」だと考えています。
邪届伊都、傍連斯馬。廣志曰、「[イ妾](倭)國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉国、百(自)女〔欠「王」〕国以北、其戸數道里、可得略載、次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、安(案)[イ妾](倭)西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、盖(蓋)伊耶國也。
表題の「邪届伊都傍連斯馬」については「邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわら)斯馬に連らなる」と読む説や「邪(や)は伊都に届き、斯馬の傍(そば)に連らなる」と読む説がありますが、どちらの説にしても伊都国に届き、斯馬国に連なっている国があることになります。
「ある地点」の東南五百里に伊都国があり、南には邪馬嘉国があるというのです。邪馬嘉は「やまか」とでも読むのでしょう。台が正しの壱が正しいのかという激しい論争がありましたが、私はそれに嘉も加えてほしいものだと思っています。
台・壱・嘉はその古字がよく似ていますが、いずれも邪馬台国のことだと考えるのがよいでしょう。壱に拘る説を見かけますが、あまり意味がないように思います。その「ある地点」とは面土国、つまり宗像郡の田熊・土穴付近です。
ここで注意しなければならないのは『翰苑』の文には奴国・不弥国・投馬国が見えないことです。倭人伝の地理記事だと、伊都国と邪馬台国の間に奴国・不弥国が位置していることになりますが、『翰苑』の文だと奴国・不弥国・投馬国を考慮する必要がありません。
つまり邪馬台国の位置と奴国・不弥国・投馬国の位置とは無関係なのです。これは倭人伝に見える国々の方位・距離は直線行程ではなく放射行程だということです。ある地点の東南に伊都国があり、南には邪馬嘉国が有るというのです。
巴百支国・伊那(耶)国にも注目しなければならないでしょう。巴百支国は倭人伝で斯馬国に続いて出てくる巳百支国のことでしょうし、伊邪国は伊邪国のことでしょう。その伊邪国について「安(あん)ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り。布帛(ふはく)は無く革を以って衣(ころも)と為(な)す。盖(けだ)し伊耶國也(いやこくなり)』とあります。
「倭の西南海行一日に伊邪分国有り」の伊邪分国の「分」は「久」の誤りで、現在の屋久島のことだと考えられています。『隋書』流求国伝に登場する「夷邪久国」のことですが、この文は倭人伝に見える裸国・黒歯国の記事を考察しているのでしょう。
裸国・黒歯国の方位・距離は東南一年となっていますが、東南一年だと太平洋上になってしまいます。張楚金は遣隋使の情報からこれを屋久島まで西南海行一日だと考えたのでしょう。 すでに述べたように東南一年は本州の東端に至るのに一年を要するという意味のようです。
巳百支国・伊邪国は伊都国(田川郡)に近く、また邪馬嘉国にも近い国のようです。私はこれを豊後にあった国だと考えています。
「邪届伊都、傍連斯馬」の文から、邪馬台国は伊都国と斯馬国の間に位置していることが考えられますが、伊都国は田川郡であり、また斯馬国は志摩郡でした。邪馬台国は東が田川郡に届いていて、西は志摩郡に連なっているのです。
現在の朝倉郡東峰村(とうほうむら)は田川郡添田町(そえだまち)と隣接し、旧筑前国上座郡(かむつあさくらぐん)に属しています。土地勘がないと分かりにくいのですが田川郡と上座郡(朝倉郡)は接しています。上座郡、つまり甘木平野も邪馬台国なのです。
邪馬台国の邪馬は、国名のみが列記された二一ヶ国の一六番目の邪馬国と同様に、山に関係する国名だと考えることができます。 邪馬国は豊後日田郡ですが、その日田郡と筑後平野(甘木平野)との境を邪馬台と言ったのか、あるいは甘木平野と三郡山地の境の微高地を邪馬台と言ったのか、どちらかであろうと考えています。
邪馬台国の方位は南ですから邪馬台国は宗像郡田熊・土穴の南でなければいけません。また距離が書かれていませんから、面土国と邪馬台国は国境を接していることが考えられます。
また「水行十日、陸行一月」は邪馬台国が海に面していることを示していますが、そうであればこの海は志賀島周辺の玄界灘か博多湾であることが考えられます。 邪馬台国は玄界灘・博多湾に面した福岡平野や、甘木平野など三郡山地を堺にした筑前西半だと考えることができます。
その南限は筑前と筑後の国境、つまり筑後川で、上座・下座・夜須・糟屋・三笠・席田・那珂・早良・怡土の9郡域になると思います。私は遠賀川中・上流域3郡(奴国)の戸数が二万とされていることから、1郡当りの平均は7千戸だと考えていますが、9郡だと6万3千戸になります。
すでに述べてきたように後の律令制国郡の境界の原形が存在していることが考えられ、肥前には国名のみの21ヶ国があることが考えられますから、邪馬台国の領域が肥前に及ぶことはないと思います。
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