2012年3月18日日曜日

日向神話の構成 その1

新井白石・本居宣長以来続いている邪馬台国論争は決着する気配がありませんが、これは『古事記』や『日本書紀』が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていることに始まる「ボタンの掛け違い」でしょう。最初のボタン穴を間違えると最後まで喰い違ってしまいますが、面土国の存在を認めない限り、この状態は永遠に続くと思います。

このことは邪馬台国の位置論だけでなく神話にも関係してきます。白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で卑弥呼を天照大神としスサノオは狗奴国の男王だとしていますが、スサノオは宗像郡と深い関係がある一方で出雲の山間部でも活発に活動することになっています。

邪馬台国=九州説では一般に狗奴国は肥後とされますが、スサノオが狗奴国の男王なら出雲に狗奴国、あるいは肥後との関係を思わせるものがあるはずですがそれがまったく見られません。スサノオは狗奴国の男王ではなく面土国王であり、面土国は宗像郡なのです。

宗像郡にはスサノオの所持する剣から生まれたとされている宗像三女神を祭神とする宗像大社があり、4世紀になると朝鮮半島と大和朝廷の関係を思わせる沖ノ島祭祀遺跡が出現してきますが、平成20年には弥生中期の田熊石畑遺跡で全国最多の銅剣・銅矛・銅戈15点が出土しました。宗像には面土国とするにふさわしい歴史があります。

図は出土した弥生時代人骨の形質を地域別に区分したものですが、赤色の実線は地学上の臼杵―八代構造線(九州山地)です。構造線は九州の南北の交通を分断しており、南北で文化の違いが見られます。

青銅祭器は通婚することにより巨大化した部族が同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、臼杵―八代構造線の北側には多数の青銅祭器が見られるのに南側には殆ど見られず、肥前でも東半には見られるのに西半には見られません。

出土した弥生人骨の形質別分布という点からみると、佐賀県の中央部で東の北部九州・山口タイプと、西の西北九州タイプに分かれています。その特徴をみると北部九州・山口タイプは、身長が高く長頭で顔つきはのっぺりとしており、朝鮮半島からの渡来民が流入したことが考えられています。これを「渡来系弥生人」と呼ぶ考え方があります。

南西諸島と薩摩半島には南九州・南西諸島タイプがみられ、西北九州タイプと南九州・南西諸島タイプは、身長が低く短頭で、目鼻立ちがはっきりしていますが、西北九州と南九州・西南諸島には渡来民の流入がなく縄文時代以来の形質が残ったと考えられていて、これを「縄文系弥生人」と呼んでいます。西北九州と南九州・南西諸島との間にも差異があるそうです。

紀元前1世紀に中国と交渉を持った倭人の百余国は、中国・朝鮮半島製の青銅器を受け入れ、それを祭器に発展させた渡来系弥生人の形成する国であり、それが30ほどに統合されたものが後の女王国なのでしょう。それは臼杵―八代構造線以北であり、壱岐・対馬や松浦半島・糸島郡などの玄界灘・響灘沿岸が中心になっていたと考えます。

それには図に示されているように周防・長門(山口県)の響灘沿岸が含まれる可能性があります。周防灘と響灘の境に位置している宗像市田熊石畑遺で出土した銅剣・銅矛・銅戈15点は全国最多ですが、百余国と響灘沿岸の宗像、および周防・長門の関係を考える上で重要な意味を持っているように思います。

狗奴国は後世に熊襲と呼ばれるようになる西北九州の縄文系弥生人が形成する国で、後に律令制の肥後と肥前の西半分になるようです。肥前の東半は渡来系弥生人と融合し女王国に属していたと考えます。侏儒国は隼人と呼ばれるようになる南九州・西南諸島の縄文系弥生人の形成する国で、薩摩・大隅・日向になると考えています。

卑弥呼は天照大神であり、その卑弥呼を共立したのは面土国王(スサノオ)博多湾沿岸の海人族(イザナギ)だと考えますが、博多湾沿岸にはイザナギに関係する福岡市の住吉神社や志賀島の志賀海神社があり、また福岡平野には須玖岡本遺跡などが、早良平野には吉武高木遺跡などがあります。

イザナギ・イザナミや天照大神・スサノオの神話、つまり高天ヶ原神話は博多湾を中心とする玄界灘・響灘沿岸で起きた、実際にあった渡来系弥生人の歴史であり、それに対しホノニニギの天孫降臨以後の日向神話は、渡来系弥生人の女王国が臼杵―八代構造線以南にあった縄文系弥生人の熊襲・隼人の国である狗奴国・侏儒国を統合したことが語られているようです。

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