2009年7月3日金曜日

邪馬台国と面土国 その2

図は諸橋轍次編『大漢和辭典』第七巻一一三五ページ【畿】の項から借用したものですが、それによると、諸侯(後の王)は領地として四方五百里を与えられましたが、これを「方千里」と言い、また「都(と)」とも称していたようです。方八百里(四方四百里)は「縣(けん)」と言われ、王の子に食封として与えられる面積のようです。
  
また『大漢和辭典』【稍】の項には『正字通』を引用して「王畿六遂、三百里外為稍地、太夫之所食也」とあります。方六百里(四方三百里)は稍(しょう)といい、太夫に食封として与えられる面積です。大夫は王・候・太夫・士という身分のうちの太夫のことです。

方四〇〇里(四方二〇〇里)は「遂」と呼ばれ、方二〇〇里(四方百里)は「郷」と呼ばれましたが、郷には遠郊と近郊がありました。王の住む城からの距離に応じて100里ごとに呼び方があり、身分に応じてその広さが封地として与えられられました。

漢代には俸給が身分を表すようになり、太夫は二千石(にせんせき)と呼ばれるようになります。二千石が地方行政官に任命される場合には、州の長官の刺史(しし)や、郡の長官の郡太守(ぐんたいしゅ)に任命されます。
    
秦の始皇帝は一族や功臣に封地を分け与えて国とする制度を廃止して、全国を三六の郡に分け官僚を派遣して統治しましたが、これを郡県制(ぐんけんせい)といいます。秦が滅んで前漢時代になると皇帝の一族の封地である国と、官僚を派遣して統治する郡とが並存するようになり、これを郡国制(ぐんこくせい)と呼んでいます。  

郡国制では郡と国の面積が共に稍だったようです。前漢時代には内臣の王に任ぜられると郡が封地として与えられましたが、これを国と称しその王は郡王(ぐんおう)と呼ばれることがあります。その国の面積も稍で、王の封地ではない郡には太夫が郡太守に任命されて統治しました。

もちろん稍よりも大きな郡・国もあれば小さな郡・国もありますが、稍が基準になったようです。 この規定は外臣の王である卑弥呼にも適用されていました。1里を434メートルとすると、六百里は260キロになりますが、卑弥呼が王として支配することを許されていたのは 260キロ四方だったのです。

前回に邪馬台国は筑前にあったと述べましたが、卑弥呼の支配できるのは260キロ四方ですから、支配下の30ヶ国は北部九州を出ることはありません。従って出雲や大和を卑弥呼が直接に支配することはなく、畿内説は成立しません。 しかし卑弥呼は出雲や大和を間接的に支配していました。

卑弥呼は魏から「親魏倭王」に冊封されましたが、それは魏の皇帝の職務執行代行者であることを表します。卑弥呼はその「親魏倭王」として出雲や大和に対応していたのですが、それを象徴するのが「三角縁神獣鏡」でした。

魏の皇帝は印綬を授与しましたが、これは冊封体制が文書外交であることを示しています。倭人社会にはまだ文字が無く文書を交付することは行なわれていなかったので鏡を授与したのです。

私はこれを「擬似冊封体制」、あるいは「小中華」と呼ぶのがよいではないかと思っていますが、このことが大和朝廷の成立に深く係わっているようです。
 
図は稍を円で表したものですが、円の直径が260キロです。韓、及び帯方郡の位置・面積と比較してみてください「筑紫」「出雲」「日向(熊襲)」「越」などの概念が稍から生まれたことがわかります。近畿を中心とする稍には固有の呼称が無いので、大和で代表させてみました。

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