「その2」に倭人の稍を図示していますが、この図は青銅祭器の分布に元づいて作図しています。銅矛・銅戈が濃密に分布している北部九州が一つの稍を形成していました。福岡・佐賀・長崎・大分の各県と熊本県の北半ですが、図には山口県も含んでいます。熊本県の南半と宮崎・鹿児島には青銅祭器がほとんど見られませんが、この地域は別の稍を形成していました。
北部九州の稍を「稍筑紫」と呼び、南九州の稍を「稍日向」と呼ぶことにします。銅剣が濃密に分布している中国・四国地方が「稍出雲」です。また銅鐸が濃密に分布している近畿・東海地方西部を「稍大和」と呼ぶことにします。近畿・東海地方には概念的な呼び方がないので大和で代表させてみましたが、尾張や河内・摂津もよく見かけます。
青銅祭器は祭祀具であって政治との関係はないとする考え方もありますが、青銅祭器は政治と直結していました。青銅祭器は巨大な部族が父系の同族関係を擬制した宗族に配布しましたが、部族はその擬制された父系の同族関係を背景にして王を擁立しました。
そのためしばしば王の擁立を巡って部族間に争乱が起きました。卑弥呼が共立されたのは北部九州の銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族が対立したからです。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただきました。
各稍には青銅祭器を配布した部族に擁立された王がいました。「稍筑紫」の王が面土国王の帥升であり、また卑弥呼なのです。「稍筑紫」の王が中国の皇帝から倭国王に冊封されますが、この倭国王も「稍出雲」や「稍大和」を支配することはできません。弥生時代の最終末期に部族が統一されて稍を支配する王は存在しなくなります。全ての青銅祭器が埋納され大和朝廷が成立するのです。
「中国の皇帝の権威に頼らない自前の倭国王」とは、部族に擁立された稍の王ではなく、すべての稍が統一された「統一された倭国の王」という意味です。266年の倭人の遣使を最後として、しばらくの間中国との交渉が途絶しますが、この間に「自前の王」が誕生するのです。
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