2009年7月25日土曜日

部族と青銅祭器 その4

文化人類学の定義では部族は一定領域を占有しているとされていますが、それはアフリカやアメリカ・オーストラリアのような人口密度の低い地域のことで、稲作が行なわれて人口密度の高い日本では部族が一定領域を占有することはできなかったでしょう。複数の部族が水利を共有しつつ混在していたことが考えられます。

通婚によって結び付いた宗族の集合体が部族ですが、複数の部族の地域的〔水系別の〕な結合体が部族国家だと考えるのがよいようです。弥生時代の始まりについては稲作の始まった時とか、弥生式土器が作られ始めた時とする考え方がありますが、私は部族が国を形成するようになった時が始まりだと考えています。

こうして律令制の郡程度の領域を持つ部族国家が生まれますが、紀元前108年に、前漢の武帝が朝鮮半島を支配していた衛氏を滅ぼして楽浪などの4郡を設置すると、倭人の部族国家も前漢王朝の冊封体制に組み込まれます

『漢書』によると紀元前一世紀に倭の百余国が遣使したように思われますが、このころには特に有力な国がなかったようです。冊封体制に組み込まれたことをきっかけにして文化統一体だった部族が急速に政治統一体に変質していくようです。意図的に他の宗族を吸収して巨大になった宗族が現れ、それに伴って部族も巨大になっていくようです。

当然、部族国家も統合されて大きくなっていきます。紀元前一世紀の百余国が三世紀までに30ヶ国ほどに統合されたようです。例えば遠賀川の中・上流とその支流の穂波川・犬鳴川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡域が統合されて戸数2万の奴国になります。通説では奴国は福岡平野だとされていますが、福岡平野は邪馬台国です。

倭人伝は大人が皆、4・5人の妻を持っており、下戸で2・3人の妻を持つ者がいると記しています。この多妻については婦人の労働力が必要だったからだとか、戦争で男が死んだからだといった考え方がありますが、部族の有力者には部族を大きくする義務があったのであり、それが多数の妻を持つという慣行になっているのです。

多妻は“英雄、色を好む””妾を持つのは男の甲斐性”といった次元の話ではないようです。弥生時代に争乱が多発したことが知られるようになってきていますが、その争乱は通婚関係を結ぶことによって決着することが多かったように考えられます。あるいは部族間で妻になる女性を交換することもあったのではないでしょうか。

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