2009年7月10日金曜日

邪馬台国と面土国 その6

倭人伝に「如刺史」とありますが、通説では伊都国には一大率が置かれて諸国を検察していたが、その様子が「刺史の如く」だと解釈されています。この時代の刺史は最高位の地方行政官で13ある州の長官ですが、この時期の幽州刺史として毋丘倹の名が知られています。

少々発想が飛躍しますが、通説だと一大率は毋丘倹のようだということになり、相当にイメージが違います。前漢代の刺史は監察官で行政権も軍事権もありませんでした。説の想定している刺史は前漢時代の監察官としての刺史であって、魏・晋時代の地方行政官としての刺史ではありません。

最初にこのように解釈したのは植村清二氏のようです。植村氏は倭国の高官の大倭が伊都国に一大率を派遣して諸国を検察させているのだとしていますが、そうすると「如刺史」は一大率の権能を説明していることになります。これが今日でも通説として罷り通っています。

大倭は市場や租税などの経済を担当し、一大率は軍事・警察を担当しています。そして「如刺史」は「自女王国以北」の国々を、女王に対して半ば独立した状態で支配しているのです。その半ば独立した状態があたかも中国の州の如くであり、その支配者が刺史の如くだというのです

植村氏は市場や租税と大倭とに関係がないとしていることになりますが、これが問題で意味がまったく違ってきます。「如刺史」、つまり面土国王は卑弥呼共立の当事者として、女王の行なう外交を監視していました。それが文書や賜遺の物を「津に臨みて捜露す」ることなのです。

この津が面土国という国名の由来になっている港ですが、帯方郡使だけでなく女王の使者にも捜露が行なわれていることに注意が必要です。このように考えることで、倭人伝の刺史が魏・晋代の地方行政官としての刺史であることが理解できます。

0 件のコメント:

コメントを投稿