2009年7月7日火曜日

邪馬台国と面土国 その2の2

今回は「その2」の補足です。「稍」は「方六百里」とも言い、太夫に食封として与えられる面積で、260キロ四方を言いますが、「王城を去ること三百里という意味もあります。「方六百里」が方形であるのに対し、「王城を去ること三百里」は円形のようにも思えますが、もっと別の意味があります。

王城を中心とした半径300里までの支配が認められているという意味があるのです。その地理観では方位・距離の起点は王城ですが、終点は隣接する稍との境界になります。隣接している稍は別の王が支配しているのですから、300里の終点が隣の稍の王城になることはありません

「王城を去ること三百里」は換言すると支配地が制限されているということであり、300里以上(隣の稍)を支配してはいけないということですさて倭人伝ですが、倭人伝の地理記事に見える方位・距離が、私の考える「王城を去ること三百里」の地理観に従って書かれていればどうなるでしょうか。

私たちは倭人伝の方位・距離の終点は国都などの「中心地」だと思い込んでいます。そこで著名遺跡を国都に疑定して方位・距離をあれこれと操作することが行なわれています。それらの遺跡は偶然に発見されたものであり、国都と見るにはよほどの根拠が必要です。

方位・距離の起点は王城ですが終点は王城や国都ではなく国境です。著名遺跡だからということは起点・終点の根拠にはなりません。奈良県の纒向遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡を邪馬台国の王城だとする説が盛んですが、元来それは「王城を去ること三百里」の地理観には合致しません。

それらは倭人伝の地理記事とは無関係に語られています。このことは伊都国の中心地を前原付近、奴国の中心地を春日市付近とする説にも言えることです。この地域に遺跡・遺物が多ことと、この地域が伊都国・奴国であるということとは別問題です。

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