2009年7月4日土曜日

邪馬台国と面土国 その3

『魏志』倭人伝によると倭国で大乱が起きて卑弥呼が共立されますが、卑弥呼が共立される以前の7~80年間は男子が王でした。大乱が起きた時期については書によって違いがありますが、後漢霊帝の光和年中(178~183)だと考えられています。

光和年中から7~80年を遡ると、98年~113年の間になりますが、この間の107年に面土国王の帥升が遣使しています。このことは井上光貞氏が述べているところです。面土国王の帥升についてはこれを奴国王とする説がありますが、光和年中の7~80年前というのであればこの説は成り立ちません。

そうであれば卑弥呼共立以前の男王は帥升の子・孫の面土国王であり、面土国王は卑弥呼共立の一方の当事者だということになります。面土国は三世紀にも存在しているのです。面土国王は「自女王国以北」の面土・奴・不弥などの諸国を「州刺史の如く」に支配しています。伊都国は『女王国に統属』しているとされていますから支配下にはなかったようです。

通説では伊都国にいる一大率があたかも刺史の如くだと解釈されていますが、後述するようにこの通説は大変な誤解です。 通説が想定している刺史は前漢代の刺史であって、魏・晋代の刺史には郡・県を検察する任務はなく、従って郡・県が畏憚することはありません。陳寿自身も『魏志』巻十五の評語で次のように述べています。

漢の時以来、刺史は諸郡を総統し、都の外にあって行政を行った。これは先の時代にただ司察だけを行っていたのと同じではない

その陳寿が300年も前の、前漢代の刺史を引き合いに出して3世紀の倭人の一大率を説明することはあり得ません。この刺史は魏・晋代の最高位の地方行政官である、州の長官のようだというのであって、倭人伝の一大率と刺史とはまったく別の官職です。

面土国は筑前宗像郡であり、『自女王国以北』は遠賀川流域です。面土国王の帥升は宗像氏のはるかな遠祖なのです。解釈のしようではこのような結果になってきますが、私にとっての邪馬台国論の面白さは、邪馬台国の位置よりもこうしたところにあります。

0 件のコメント:

コメントを投稿