2009年7月8日水曜日

邪馬台国と面土国 その5

面土国と言っても、「そんな国は知らない」と言う人がほとんどです。倭面土国は『通典』に出てくる国名ですが、『通典』は権威のある書ではあるが正史ではありません。また『後漢書』はその王を「倭国王帥升」としているし、倭人伝にも見えません。面土国が知られていない最大の原因は倭人伝にその名が見えないことでしょう

その面土国について東京大学教授の西島定生氏は、「倭面土国という国名が記録されて残っている以上、その国の存在が否定されない限り、奴国以外に面土国という国が在ったことになる」とされていました。西嶋氏は伊都国のことだとする説に同意されていたようですが、この指摘を無視すべきではないと思います。

その後、西嶋氏は王仲殊氏の見解などを加味して面土国の存在を否定されるようになります。7世紀前半の唐代初期以後には倭という国名を嫌って「やまと」あるいは「日本」と称するようになるが、日本の古称の「やまと」に倭面土の文字を当てたというのです。(『倭国の出現』1999年5月)

この西嶋氏の考えは、内藤湖南の倭と面土を一体のものとして読む説を肯定するものですが、一方では白鳥庫吉の「倭の面土国」という読み方を否定したことになります。前者の場合だと、倭に面土国という国は無いことになります。そして次のように述べられています。

この想定が正しいかどうかについては、今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである。しかしその当否にかかわらず、「倭面土国」の名称がいわゆる邪馬台国時代より以前の二世紀にすでに実在したということが文献学的に実証されない限り、その時代において「倭面土国」とはいかなる国名を表記したものか、あるいは「面土国」は何処に求めるべきであるか、などという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか、と私には思われるのである。

私は以前の見解のほうが正しいと思います。その理由は「その3」で述べていますが、面土国は末盧国と伊都国の間に位置していることになるから、文献学的に実証できると言えます。「従郡至倭」の行程も邪馬台国までではなく、末盧国までということになります。

倭人伝については様々な見解が発表されていて、いささか冷静さを欠いています。冷静になって考えてみると面土国の存在を認める方が理に適うことが分かってきます。なによりも邪馬台国の位置が定まらないのは面土国が3世紀にも実在していることが考えられていないからです

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