2009年7月12日日曜日

邪馬台国と面土国 その8

話を稍に戻します。稍には「方六百里」という意味と「王城を去ること三百里」という、2つの意味があります。魏代の一里は434メートルですから600里は260キロになり、300里は130キロになります。

そして「王城を去ること三百里』の起点は王城ですが、終点は隣の稍との境界です。終点が隣の稍の王城になることはありません。これを「稍の考え方」と呼ぶことにします。

おかしなことに東夷伝の地理記事は、全て「稍の考え方」で書かれています。そして300里を「千里」とし、600里四方を「方二千里」としています。

そしてなぜか韓伝と倭人伝だけは千里が半分の150里になっています。東夷伝は他には見られない特殊な地理観によって記されています。

このことに気づいた時、私自身も、”そんな馬鹿なことがあるか”と思いましたが、あるいは当時の国境は不明確だったので「こうあらねばならない」という中国人の理想論が述べられているのかもしれません。いずれにしても東夷諸国に対する中国の影響がいかに強かったかが分かります。

「論より証拠」、ご自身で当たってみてください。特に高句麗伝、夫余伝がよく判ります。遼東郡冶は遼寧省遼陽付近、玄莵郡冶は撫順付近、高句麗国都は集安付近と考えられています。夫余国都は吉林省農安付近で、農安は長春の北に当たります。

その方位・距離の終点は国都ではなく国境です。図の小円の直径が600里ですが、600里の線が国境になっていることを、下図と比較して確認してみてください。

ただし韓伝と倭人伝の場合の千里は300里ではなく、半分の150里のようです。高句麗と夫余は「方二千里」とされていますが、韓は倍の「方四千里」になっています。韓は朝鮮半島南部にあった国ですが、高句麗・夫余の4倍もあるような大きな国ではありません。

韓と倭が接触していた帯方郡に限って、150里を千里とする地理観が存在したようです。帯方郡冶はソウル付近と考えられています。その理由はよく分かりませんが、帯方郡は規定の4分の1程度の小さな郡ですから、これを設置した公孫氏が大きく思わせようとしたのかも知れません。

倭人伝の千里は150里、つまり65キロです。この数が妥当かどうかは、対馬下島の南北の、約26キロが四百里とされ、壱岐の約16キロが三百里とされていることから判断できます。そしてその方位・距離の起点は王城ですが、終点は国境です。けっして国都などの「中心地」ではありません。

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