あまりメントコク、メントコクと言っていると、それなら邪馬台国の「水行十日・陸行一月」はどうなるのと突っ込まれそうなので、予防線を張っておきます。 この日数は魏都、洛陽までの所要日数であり、この日数からは邪馬台国の位置は決まりません。
円仁の『入唐求法巡礼行記』によると唐に渡るのに8日、帰りは8日半で東シナ海を一気に渡海しています。このことから考えて邪馬台国から帯方郡を経由して山東半島まで、順風なら十日で行けるというのでしょう。
正始8年〔247〕に帯方郡使の張政が黄幢・詔書を届けに来ましたが、帰る時には台与の使者の掖邪狗ら20人を魏都の洛陽まで送り届けるという任務ができました。張政と倭人の間で洛陽までの日数が話題になったのでしょう。掖邪狗らの渡海に要する日数が十日だというのです。
『唐六典』によると徒歩及び驢馬の一日の陸行は50里とされています。これが一月、すなわち30日だと1500里になりますが、唐代の一里は560メートルですから1500里は840キロになります。これは山東半島の登州から洛陽までの距離に相当します。
つまり『水行十日・陸行一月」は邪馬台国から帯方郡・山東半島の登州を経由して、洛陽までの所要日数に相当するのです。通説では北部九州のある地点から邪馬台国までの日数が「水行十日・陸行一月」だと考えられていますが、そうではなく洛陽までの距離です。
日本に洛陽までの距離に相当するような場所があるでしょうか。日本列島の東西というのなら分かりますがそうではないようです。もちろん畿内も相当しません。邪馬台国の位置論に「水行十日・陸行一月」を持ち込むのは賢明ではないようです。
このことについては当時の魏と呉の関係を考慮する必要がありそうです。呉は「南船北馬」と言われるように優秀な船を保有しており、237年には朝鮮半島まで来ています。その後も呉の軍船が東シナ海をウロウロしていたようで、倭に来る可能性もあります。
その呉の船が投馬国に来るのに「水行二十日」を要するというのでしょう。それは倭からだと沖縄まで南下して呉に渡る、遣唐使船の航路の南島路であることが考えられます。
それに対して魏と接触のあった邪馬台国の場合は、洛陽と邪馬台国の間が「水行十日・陸行二十日」なのでしょう。そうでなければ伊都国や奴国は距離で示されているのに、邪馬台国と投馬国の場合には日数になっていることの意味がわかりません。
呉と投馬国との関係がよくわかりませんが、あるいは張政は、女王国の南の狗奴国が呉と接触することを警戒していたのかも知れません。張政が黄幢・詔書を届けに来たのは女王国と狗奴国が不和の関係にあったためですが、女王国に対抗して狗奴国が呉と接触することは考えられることです。
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