稍には「王城を去ること三百里」という意味がありますが、どうもそれには 300里以上を支配してはいけないという、隠された意味もあるようです。中国の諸王朝は敵対する巨大な勢力が台頭することを恐れて、王の支配地を300里以内に制限していたようです。
魏から「親魏倭王」に冊封された卑弥呼も倭王としての支配地は王城から300里以内に制限されていました。卑弥呼の王城は邪馬台国に在ったから、女王国は邪馬台国を中心とする130キロ以内ということになります。仮に邪馬台国が畿内にあったとすると、卑弥呼は出雲や北部九州を支配することはできません。
逆に邪馬台国が北部九州に在ったとしても出雲や畿内を支配することはできません。しかし卑弥呼は親魏倭王に冊封されたことにより畿内を間接的に支配することができました。
『後漢書』は面土国王の帥升を「倭国王」としていますが、倭国王は稍を支配する王です。それに対し親魏倭王は魏の皇帝の職務を分担し執行する王です。魏の皇帝は卑弥呼を親魏倭王に冊封することによって間接的に倭国を支配していることになりますが、卑弥呼も畿内に対して同様の立場にあったのです。
出雲や畿内、それに越〔北陸地方〕にはそれぞれ王がいました。それらの王の支配下にあった有力者が卑弥呼の元に使者を派遣し貢物を献上すると、卑弥呼はその有力者に魏の官職を授けることができました。使者を派遣してきた有力者はそのことによって個人的な権威を高めることができました。
倭国王と親魏倭王とはその性格が違います。このことについては西島定生氏の『邪馬台国と倭国』が大変に参考になりました。卑弥呼は倭国王であると共に親魏倭王ですが、帥升は面土国王であると共に倭国王です。そして57年に遣使した奴国王は倭国内の一小国の奴国の王ではあるが、倭国王ではありません。
倭人の王の権威が次第に高まっていることが分かりますが、卑弥呼の次には中国の皇帝の権威を借りない、いわば自前の倭国王が出現するようです。『倭の五王』はこうした王なのです。一般的に面土国は存在していないと考えられていますが、面土国は一世紀後半から二世紀にかけて奴国と共に倭の有力な小国家であったようです。
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