2009年7月31日金曜日

部族と青銅祭器 その7

青銅祭器は廃棄または隠匿されたような状態で出土しますが、その呼称が示しているように祭器であることで一致しています。その青銅祭器を使用した祭祀がどのようなものであったかについては確かな説がありません。

銅鐸については三品彰英氏の地霊・穀霊の依り代と見る「地的宗儀」が有力です。銅剣・銅矛などの武器形祭器については小林行雄氏の海洋祭祀に用いられたとする説が知られています。銅矛は外洋の祭祀 に用いられ、銅剣は内海の祭祀に用いられたというものです。

私には青銅祭器を用いて宗廟祭祀を行ったという説がないのが不思議です古墳時代の氏族が始祖を神として祭る宗廟祭祀を行なっていたことは明らかで、その祭祀の場が神社です。中国でも周時代以来、宗廟祭祀が極めて重視されています。弥生時代の宗族が族祖を神として祭る祭祀を行ったことは考えられてよいでしょう。

大場磐雄氏は神道の成立する時期を弥生時代としていますが、倭人伝は宗族が存在していることを記しています。弥生時代の宗族にしても、古墳時代の氏族にしても始祖が存在していることを前提とする集団ですから、始祖を神として祭る宗廟祭祀を行なっていたことは明らかです

このことが無視されているのか不思議です。あるいは日本では宗廟祭祀と言えば「神」ということになるので、あえて避けられているのかもしれません。ことに終戦後には神話に対する反発が見られました。私も神話を話題にして「神話には厳密な資料批判が必要である」と言われた経験があります。

「考古学は物をもって語らしめよ」というのでしょうが、物には口がありません。島根県出雲大社の摂社、命主神社の背後から中細形銅戈が出土したことはよく知られていますが、これは何を意味するのでしょうか。その他にも神社の境内から出土したものや、神社の所蔵するものが意外に多くあります。

注意しなければならないことは神社が所蔵するようになった由来が不明のものの中に、埋納されることなく伝世されたものがあるのではないか、ということです。青銅祭器は地中にあったものが発見される例が多いのですが、神社が所蔵するものの出土地は所蔵している神社の所在地だと言えなくもありません。

森浩一氏によると徳島県西祖谷山村鉾神社では銅鐸が神体に準ずるものと見なされ、祭礼のさいにはその存在が確認されるということです。高知県窪川町高岡神社には銅矛五本があって祭礼に用いられおり、一本が一つの集落を表すとされているといいます。対馬でも同様の例が知られています。

私にはこれらの実例に青銅祭器の原点を見る思いがするのですが、ことに高岡神社の場合には弥生時代に宗族は集落を形成しており、その宗族がそれぞれ一本ずつを神体とする宗廟祭祀を行っていたことを思わせます。神道や神社の発生を感じさせます。 

人間と他の動物の違いの一つに、死後の世界を想像することができる点があげられることがありますが、そこから宗教が生れます 仏教が伝来する以前のことですから、その宗廟祭祀は自分の死とも結びついた切実なものであったと思います。

山陰地方では9本柱の「大社造り」を思わせる大型建物がみられ、大社造りの神殿の存在が考えられています。神社の原形は弥生時代の高床式倉庫だと聞いたような記憶があります。祠(ほこら)の語源は穂倉(ほくら)だというのですがそれでよいように思います。穂倉の内部に棚が設けられ神体として青銅祭器が安置されていたのでしょう。

佐賀県吉野ヶ里遺跡でも北内郭と呼ばれている集落中心部の、大型建物の床下から銅戈が出土しており、地鎮祭が行われたのではないかと言われていますが、大型建物は集会場であるとともに神の社でもあり、青銅祭器を神体として安置し宗族の祖先祭祀が行われていたことが考えられます。  

2009年7月29日水曜日

部族と青銅祭器 その6

話が横道に逸れましたが、「その4」の続きです。紀元前108年に武帝が朝鮮半島に楽浪郡を設置したことにより、部族は急速に「文化統一体」から「政治統一体」に変質していくようです。通婚によって父系の同族関係を擬制し、そのことを表す宗廟祭祀を行なう集団であったものが、政治的な単位になっていくと考えればよいようです。

古代中国の周王の姓は姫氏ですが、周王は姫氏の宗廟祭祀を主宰する特権を持っており、そのことによって姫姓の諸侯を支配していました。春秋・戦国時代になると宗廟祭祀よりも実力が重視されるようになって、周は徹底した法治国家の秦に滅ぼされます。

その秦も度の過ぎた法治主義が原因になって滅びます。前漢の武帝は儒教を国教にすることによって、秦の法治主義と周の宗廟祭祀中心の統治を融合させました。楽浪郡が設置されて倭人の部族が前漢の冊封体制に組み込まれると、部族の形態は秦の法治主義と周の宗廟祭祀中心の統治とを併せ持ったものになっていくと考えます。

つまり倭人は冊封体制に組み込まれたことにより、そうとは知らずに秦の法治主義と儒教を受け入れていたのです。部族長は擬制された同族集団の祭祀の主宰者であると共に、部族国家の政治的な支配者になっていきます。 元来の神社は宗廟祭祀の場だと考えられますが、私は日本の神道はシャーマニズムなどの祖形に、冊封体制によって受け入れた秦の法治主義と儒教が習合して原形ができと考えます。

秦の法治主義が大和朝廷の統治とどのように関係していくのかはわかりませんが、宗廟祭祀を重視する儒教の影響で青銅器が祭器になっていく考えています。それは紀元前後のことであろうと思っています。当時の倭人が儒教の内容を知っていたとは思えませんが、分かりやすく言うと青銅祭器は神社のご神体だと思えばよいと考えます。

青銅祭器は巨大になった部族が、父系の同族関係を擬制した宗族に配布しました。『その2』で述べたように、親族(キンドレット)は限界〔枠〕を設けないと無限に拡大していきますが、最終的には某宗教団体のスローガンではありませんが「世界はみな兄弟」ということにもなります。

具体的に言えば全ての人が全ての部族に属しているということになります。一面ではそれが民族だともいえるようですが、部族は青銅祭器を配布した宗族を親族の限界〔枠〕としたようです。

2009年7月27日月曜日

邪馬台国と面土国 その6の2

7月10日に投稿した 「邪馬台国と面土国 その6」 で大切なことを書き忘れていたので追加します。倭人伝の「特置一大率検察諸国、諸国畏憚之。常冶伊都国。於国中有如刺史、王遣使詣京都・帯方郡」のうちの「於国中有」、ことに「有」の文字の意味についてです。

通説ではこの国は伊都国のことだと考えられています。 漢文のことはよく分からないのですが、「於国中有」の国を伊都国のことだと理解してよいでしょうか。

通説のように伊都国に居る一大率が、あたかも刺史の如くだというのであれば「常冶伊都国、如刺史」でよいはずで「於国中有」は必要がないように思えるのです。ことに「有」の文字が加わっているのは一大率が常冶している伊都国以外に国が有り、その国に刺史の如き者が居るいう意味のように思えてならないのです。

そうであれば刺史の如き者が居る国はどのような国かということが問題になってきます。私はこの国こそ面土国だと考えています。一大率は伊都国に居て諸国を検察し、「刺史の如き」者は面土国に居て王の遣使が京都(魏都の洛陽)や帯方郡に行く時に津で捜露するというのです。

王とは倭国王、すなわち卑弥呼・台与のことです。卑弥呼・台与の使者を津で捜露(捜し出して露わにする)するとは尋常ではありません。女王と対立するような機関、あるいは権威が存在しているようです。

私は捜露の行なわれる津がミナト(港・湊・水門)と呼ばれていたことから面土国(ミナトノクニ)という国名が生まれたのであり、「刺史の如き」者は帥升の140年後の子孫だと考えます。その面土国は筑前宗像郡であり、面土国王のはるかな子孫が宗像氏だと考えます。

西島定生氏は面土国が実在したことが文献学的に実証されない限り、架空の国の実在地を求めることになる」とされていますが、「於国中有」の4文字をどう解釈するかで、文献学的に実証されることにもなります漢文が分からないので自信が持てません。皆さんの考えをお聞きしたいと思います。ぜひともコメントを下さい。この4文字の解釈によっては歴史が変わって来ます。

2009年7月26日日曜日

部族と青銅祭器 その5

このことは以前から気になっていたのですが、改めて考えてみると日本には部族など存在しないと思う人がいると思います。その原因のひとつとして「部族=未開民族や氏族の集合体」と考えられていることがあげられるでしょう。この件についてはかなり以前から問題提起されてきましたが、これが社会的にほぼ定着してしまっています。

ここで言う部族にはそうした意味はありません。民族と氏族(宗族)の中間に位置する集団のことですが、英語のtribe(トライブ)を、日本では「部族」と訳しているのです。日本民族と氏族との間にtribe(トライブ)に相当するような集団が存在していること自体がまったくといってよいほど考えられていないので、適当な訳語がなのです

先学達は日本民族と氏族との間に部族(トライブ)の存在した時代があったことに口を閉ざしてきました。時代が時代なら、日本民族の起源に未開氏族(宗族)の集合体である部族が存在したなどと言えば、まさに国賊ものです。しかし冷静に考えてみると縄文時代に部族(トライブ)が存在したことは考えられてよいことです。それが弥生時代まで続いたかどうかどうかが問題になると思います。

先学達が部族(トライブ)に触れなかったのは、資料がほとんどないことも原因になっているでしょう。たまに部族に関する論考を見かけますが、きわめて抽象的に述べるに留まっています。これは文献学よりも考古学によって解明されなければならない課題だと思っていますが、考古学にも部族(トライブ)という考え方が希薄なように思われます。

『古事記』『日本書記』では「人代」の前に「神代」があるとされていて、部族が存在したとはされていません。日本では英語のトライブに相当する観念が育たなかったことも一因になっているようです。私は神代を部族(トライブ)の時代と解釈すればよいと思っています。

以後述べていくことですが、青銅祭器の持つ諸問題も部族(トライブ)が存在したと考えることで解明できる点が多いようです。それは青銅祭器のみならず、様々な点にも及んでいくようです。例えば邪馬台国=畿内説は倭国を日本民族の国と見ることを前提にしていますが、部族(トライブ)が存在しているのであれば別の見方をする必要が出てきます。

当ブログでは今後、部族(トライブ)が次第に巨大になっていき、それが統一されて民族国家の倭国が誕生することを述べようと思っていますが、それには中国の冊封体制が深く係わっているようです。いずれにしても部族(トライブ)をもっと探求してみる必要があるようです。

2009年7月25日土曜日

部族と青銅祭器 その4

文化人類学の定義では部族は一定領域を占有しているとされていますが、それはアフリカやアメリカ・オーストラリアのような人口密度の低い地域のことで、稲作が行なわれて人口密度の高い日本では部族が一定領域を占有することはできなかったでしょう。複数の部族が水利を共有しつつ混在していたことが考えられます。

通婚によって結び付いた宗族の集合体が部族ですが、複数の部族の地域的〔水系別の〕な結合体が部族国家だと考えるのがよいようです。弥生時代の始まりについては稲作の始まった時とか、弥生式土器が作られ始めた時とする考え方がありますが、私は部族が国を形成するようになった時が始まりだと考えています。

こうして律令制の郡程度の領域を持つ部族国家が生まれますが、紀元前108年に、前漢の武帝が朝鮮半島を支配していた衛氏を滅ぼして楽浪などの4郡を設置すると、倭人の部族国家も前漢王朝の冊封体制に組み込まれます

『漢書』によると紀元前一世紀に倭の百余国が遣使したように思われますが、このころには特に有力な国がなかったようです。冊封体制に組み込まれたことをきっかけにして文化統一体だった部族が急速に政治統一体に変質していくようです。意図的に他の宗族を吸収して巨大になった宗族が現れ、それに伴って部族も巨大になっていくようです。

当然、部族国家も統合されて大きくなっていきます。紀元前一世紀の百余国が三世紀までに30ヶ国ほどに統合されたようです。例えば遠賀川の中・上流とその支流の穂波川・犬鳴川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡域が統合されて戸数2万の奴国になります。通説では奴国は福岡平野だとされていますが、福岡平野は邪馬台国です。

倭人伝は大人が皆、4・5人の妻を持っており、下戸で2・3人の妻を持つ者がいると記しています。この多妻については婦人の労働力が必要だったからだとか、戦争で男が死んだからだといった考え方がありますが、部族の有力者には部族を大きくする義務があったのであり、それが多数の妻を持つという慣行になっているのです。

多妻は“英雄、色を好む””妾を持つのは男の甲斐性”といった次元の話ではないようです。弥生時代に争乱が多発したことが知られるようになってきていますが、その争乱は通婚関係を結ぶことによって決着することが多かったように考えられます。あるいは部族間で妻になる女性を交換することもあったのではないでしょうか。

2009年7月24日金曜日

部族と青銅祭器 その3

中国・朝鮮・日本などの儒教圏では祖先の祭祀が重視されています。元来の日本の神社も祖先を祭る施設なのですが、神仏習合の結果、お盆や命日のように祖先の祭祀は仏式で行なうことが一般的になっています。仏壇に祖先の位牌を安置することなども儒教の影響を受けています。

儒教では位牌に当たるものを神牌と言っていますが、祭壇に置かれる神牌は自分を含めた5代前までで、6代以前は祖先の神牌として一纏めにされます。これは日本の位牌でも行われています。日本の民法が親族の範囲を6親等以内の血族とするのも、6代以前は親族ではなく祖先だという儒教の慣例から生まれたのでしょう。

孔子以前の古代中国ではこのことが氏族を統治する原理になっていたようです氏族の宗廟祭祀を主催できるのは氏族長だけで、他の構成員は宗廟祭祀に参加する義務があるだけで主催することはできませんでした5代以内の親族の祭祀は氏族の構成員が個々に行なっていたが、6代以前の祖先の祭祀を主催できるのは氏族長に限られていたようです。

氏族長と一般の構成員の違いはそれだけで、他は平等でした。こうした宗廟祭祀で重要になってくるのが始祖は誰かということです。例えば徳川氏の始祖は家康ですが、その祖先は三河の国人土豪、松平氏です。始祖が違うと氏族の範囲が変わってくるのですが、始祖が存在することが、氏族の存在する根拠になっているのです。

倭人伝は門戸、宗族が存在していることを述べていますが、氏族や部族が存在しているとはしていません。しかし古墳時代の氏族の祖形が倭人伝の宗族であることは間違いないでしょう。であれば宗族や部族が始祖以来の祖先を祭る宗廟祭祀を行なっていたと考えてよいでしょう。神社で始祖を神として祭ることが、すでに弥生時代に行なわれていたと考えるのです。

文化人類学の部族の定義でも「共通の祭祀を行なうこと」が挙げられていますが、それには「擬制された始祖」を祀る宗廟祭祀も含まれるでしょう。私は弥生時代を部族が国を形成する「部族国家の時代」 だと考えていますが、その祭祀も儒教の影響を受けていると考えてよいと思います。

2009年7月22日水曜日

部族と青銅祭器 その2

宗族には出自集団の宗族と親族集団の宗族があることが考えられます。出自集団の宗族とは、個人が出生と同時に組み込まれる、祖先を共通にする血縁集団が形成する宗族です。これを文化人類学ではリネージと言っているようです。このタイプの宗族は規模は小さいけれども結束力は強かったと思われます。

親族集団の宗族とは出自集団構成員と、その親族によって形成されている宗族と考えるのがよいようで、文化人類学では親族をキンドレッドと言っています。この親族集団がクランだと考えることもできそうです。中国の宗族には「連宗」と言われている宗族の合流が見られますが、倭人の場合には武力の伴う強引な通婚が盛んに行なわれたようです。

この武力を伴うような強引な通婚が行われたことが、弥生時代後半の文化の特徴のひとつになっているようです。それが『古事記』『日本書記』の神話で「妻問い」「国求ぎ」の物語として語られていますが、これについては追々に述べていきます。

日本の民法は親族の範囲を配偶者、6親等内の血族、3親等内の姻族を親族とする規定を設けていますが、親族は限界〔枠〕を設けないと無限に拡大していきます。出自集団とその親族で構成されるタイプの宗族は規模は大きいが結束力は弱かったと考えられます。

ですから親族の範囲を拡大していくと、前回に述べた通婚圏は親族が分布している地域ということになり、親族集団の宗族の巨大なものが部族だと言うことになります。出自集団の宗族、親族集団の宗族・部族に共通することは、その始祖を神として祀ることです始祖の祭祀が行なわれなくなることは、その宗族・部族が消滅したことを意味します。これが「氏神の祭り」の始原のようです。

2009年7月21日火曜日

部族と青銅祭器 その1

早く邪馬台国の位置論をやりたいのですが、前置きばかりが長くなります。前提条件を並べた立てておいて、自分の思う所に邪馬台国を誘導していこうというのではありませんので、しばらくお付き合い下さい。前回には青銅祭器を配布した部族が稍の王を擁立したと書きましたが、今回からこの点について述べてみたいと思います。

倭人伝は犯した罪の軽重によって妻子が没収され、門戸や宗族が滅ぼされると記していますが、妻子の集合体が門戸であり、門戸の集合体が宗族だと考えられています。宗族はおそらく古墳時代の氏族の祖形であり、父系の血縁者集団でしょう。

中国の氏族には「同姓不婚」という原則がありますが、倭人の場合も同族間の通婚はタブーになっていたと考えられます。 当然通婚の相手は他の宗族の構成者になりますが、通婚が重なるうちに通婚圏が形成されます。

通婚圏は協力して敵と戦ったり物資を融通しあったりする「文化統一体」としての性格を帯びるようになりますが、この文化統一体を「部族」と呼ぶことにします。文化人類学の用語で言えば宗族はリネージであり、部族はトライブに当たると考えられます。

宗族〔リネージ〕は父系、または母系のどちらかの血縁関係の明確な同族集団ですが、よく似た集団にクランがあります。クランは血縁関係が不明確で、神話や伝説で同族だとされている集団だと理解していますが、クランの大きくなったものが元来の部族(トライブ)だと考えます。

元来の部族は文化統一体ですが、次第に政治統一体に変質し「部族国家」を形成するようになります。 この部族国家 が後に律令制の郡になるようです。もちろん後世に設置されたことの明らかな郡も有りますが、意外に多いようです。

寺沢薫氏は当時の地域社会構造を、 ①基礎地域(小共同体)  ②大地域(大共同体)  ③大地域結合体(大共同体群)に区分されていますが、大共同体については「律令制の郡程度の広さを目安とした政治性をも内包した圏」だとされ、寺沢氏の著書『王権誕生』160ページにはその共同体が図示されています。

私は宗族の占有地が寺沢氏の言われる①の基礎地域でありであり、部族国家が②の大地だと考えればよいと思っています。寺沢氏は 大共同体が統合されて③の大共同体群が形成されるとされていますが、私は大共同体群の巨大なものが戸数7万の邪馬台国であり、5万の投馬国だと考えるのがよいと思っています。

私は邪馬台国は筑前西半に、奴国は筑前東半に、投馬国は筑後に在ったと考えていますが、『王権誕生』の図は倭人伝の国々を考察する上で、非常によいヒントだと思います。ぜひとも参考にしてみてください。ちなみに図中の胸肩が面土国です。

2009年7月19日日曜日

邪馬台国と面土国 その10

前回に「中国の皇帝の権威に頼らない、言わば自前の倭国王が出現する』と書きましたが、これは説明不足でした。面土国王や卑弥呼の倭国王と、後世の「倭の五王」の倭国王とは同じではなく、その違いを理解するには倭人社会にも「稍の考え方」が存在していたことを考える必要があります。

「その2」に倭人の稍を図示していますが、この図は青銅祭器の分布に元づいて作図しています。銅矛・銅戈が濃密に分布している北部九州が一つの稍を形成していました。福岡・佐賀・長崎・大分の各県と熊本県の北半ですが、図には山口県も含んでいます。熊本県の南半と宮崎・鹿児島には青銅祭器がほとんど見られませんが、この地域は別の稍を形成していました。

北部九州の稍を「稍筑紫」と呼び、南九州の稍を「稍日向」と呼ぶことにします。銅剣が濃密に分布している中国・四国地方が「稍出雲」です。また銅鐸が濃密に分布している近畿・東海地方西部を「稍大和」と呼ぶことにします。近畿・東海地方には概念的な呼び方がないので大和で代表させてみましたが、尾張や河内・摂津もよく見かけます。

青銅祭器は祭祀具であって政治との関係はないとする考え方もありますが、青銅祭器は政治と直結していました。青銅祭器は巨大な部族が父系の同族関係を擬制した宗族に配布しましたが、部族はその擬制された父系の同族関係を背景にして王を擁立しました
                    そのためしばしば王の擁立を巡って部族間に争乱が起きました。卑弥呼が共立されたのは北部九州の銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族が対立したからです。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただきました。

各稍には青銅祭器を配布した部族に擁立された王がいました。「稍筑紫」の王が面土国王の帥升であり、また卑弥呼なのです。「稍筑紫」の王が中国の皇帝から倭国王に冊封されますが、この倭国王も「稍出雲」や「稍大和」を支配することはできません。弥生時代の最終末期に部族が統一されて稍を支配する王は存在しなくなります全ての青銅祭器が埋納され大和朝廷が成立するのです。

「中国の皇帝の権威に頼らない自前の倭国王」とは、部族に擁立された稍の王ではなく、すべての稍が統一された「統一された倭国の王という意味です。266年の倭人の遣使を最後として、しばらくの間中国との交渉が途絶しますが、この間に「自前の王」が誕生するのです。

2009年7月17日金曜日

邪馬台国と面土国  その9

稍には「王城を去ること三百里」という意味がありますが、どうもそれには 300里以上を支配してはいけないという、隠された意味もあるようです。中国の諸王朝は敵対する巨大な勢力が台頭することを恐れて、王の支配地を300里以内に制限していたようです。

魏から「親魏倭王」に冊封された卑弥呼も倭王としての支配地は王城から300里以内に制限されていました卑弥呼の王城は邪馬台国に在ったから、女王国は邪馬台国を中心とする130キロ以内ということになります。仮に邪馬台国が畿内にあったとすると、卑弥呼は出雲や北部九州を支配することはできません。

逆に邪馬台国が北部九州に在ったとしても出雲や畿内を支配することはできません。しかし卑弥呼は親魏倭王に冊封されたことにより畿内を間接的に支配することができました。

『後漢書』は面土国王の帥升を「倭国王」としていますが、倭国王は稍を支配する王です。それに対し親魏倭王は魏の皇帝の職務を分担し執行する王です。魏の皇帝は卑弥呼を親魏倭王に冊封することによって間接的に倭国を支配していることになりますが、卑弥呼も畿内に対して同様の立場にあったのです。

出雲や畿内、それに越〔北陸地方〕にはそれぞれ王がいました。それらの王の支配下にあった有力者が卑弥呼の元に使者を派遣し貢物を献上すると、卑弥呼はその有力者に魏の官職を授けることができました。使者を派遣してきた有力者はそのことによって個人的な権威を高めることができました

倭国王と親魏倭王とはその性格が違います。このことについては西島定生氏の『邪馬台国と倭国』が大変に参考になりました。卑弥呼は倭国王であると共に親魏倭王ですが、帥升は面土国王であると共に倭国王です。そして57年に遣使した奴国王は倭国内の一小国の奴国の王ではあるが、倭国王ではありません。

倭人の王の権威が次第に高まっていることが分かりますが、卑弥呼の次には中国の皇帝の権威を借りない、いわば自前の倭国王が出現するようです。『倭の五王』はこうした王なのです。一般的に面土国は存在していないと考えられていますが、面土国は一世紀後半から二世紀にかけて奴国と共に倭の有力な小国家であったようです。

2009年7月12日日曜日

邪馬台国と面土国 その8

話を稍に戻します。稍には「方六百里」という意味と「王城を去ること三百里」という、2つの意味があります。魏代の一里は434メートルですから600里は260キロになり、300里は130キロになります。

そして「王城を去ること三百里』の起点は王城ですが、終点は隣の稍との境界です。終点が隣の稍の王城になることはありません。これを「稍の考え方」と呼ぶことにします。

おかしなことに東夷伝の地理記事は、全て「稍の考え方」で書かれています。そして300里を「千里」とし、600里四方を「方二千里」としています。

そしてなぜか韓伝と倭人伝だけは千里が半分の150里になっています。東夷伝は他には見られない特殊な地理観によって記されています。

このことに気づいた時、私自身も、”そんな馬鹿なことがあるか”と思いましたが、あるいは当時の国境は不明確だったので「こうあらねばならない」という中国人の理想論が述べられているのかもしれません。いずれにしても東夷諸国に対する中国の影響がいかに強かったかが分かります。

「論より証拠」、ご自身で当たってみてください。特に高句麗伝、夫余伝がよく判ります。遼東郡冶は遼寧省遼陽付近、玄莵郡冶は撫順付近、高句麗国都は集安付近と考えられています。夫余国都は吉林省農安付近で、農安は長春の北に当たります。

その方位・距離の終点は国都ではなく国境です。図の小円の直径が600里ですが、600里の線が国境になっていることを、下図と比較して確認してみてください。

ただし韓伝と倭人伝の場合の千里は300里ではなく、半分の150里のようです。高句麗と夫余は「方二千里」とされていますが、韓は倍の「方四千里」になっています。韓は朝鮮半島南部にあった国ですが、高句麗・夫余の4倍もあるような大きな国ではありません。

韓と倭が接触していた帯方郡に限って、150里を千里とする地理観が存在したようです。帯方郡冶はソウル付近と考えられています。その理由はよく分かりませんが、帯方郡は規定の4分の1程度の小さな郡ですから、これを設置した公孫氏が大きく思わせようとしたのかも知れません。

倭人伝の千里は150里、つまり65キロです。この数が妥当かどうかは、対馬下島の南北の、約26キロが四百里とされ、壱岐の約16キロが三百里とされていることから判断できます。そしてその方位・距離の起点は王城ですが、終点は国境です。けっして国都などの「中心地」ではありません。

2009年7月11日土曜日

邪馬台国と面土国 その7

あまりメントコク、メントコクと言っていると、それなら邪馬台国の「水行十日・陸行一月」はどうなるのと突っ込まれそうなので、予防線を張っておきます。 この日数は魏都、洛陽までの所要日数であり、この日数からは邪馬台国の位置は決まりません。

円仁の『入唐求法巡礼行記』によると唐に渡るのに8日、帰りは8日半で東シナ海を一気に渡海しています。このことから考えて邪馬台国から帯方郡を経由して山東半島まで、順風なら十日で行けるというのでしょう。

正始8年〔247〕に帯方郡使の張政が黄幢・詔書を届けに来ましたが、帰る時には台与の使者の掖邪狗ら20人を魏都の洛陽まで送り届けるという任務ができました。張政と倭人の間で洛陽までの日数が話題になったのでしょう。掖邪狗らの渡海に要する日数が十日だというのです。

『唐六典』によると徒歩及び驢馬の一日の陸行は50里とされています。これが一月、すなわち30日だと1500里になりますが、唐代の一里は560メートルですから1500里は840キロになります。これは山東半島の登州から洛陽までの距離に相当します。

つまり『水行十日・陸行一月」は邪馬台国から帯方郡・山東半島の登州を経由して、洛陽までの所要日数に相当するのです。通説では北部九州のある地点から邪馬台国までの日数が「水行十日・陸行一月」だと考えられていますが、そうではなく洛陽までの距離です。

日本に洛陽までの距離に相当するような場所があるでしょうか。日本列島の東西というのなら分かりますがそうではないようです。もちろん畿内も相当しません。邪馬台国の位置論に「水行十日・陸行一月」を持ち込むのは賢明ではないようです。

このことについては当時の魏と呉の関係を考慮する必要がありそうです。呉は「南船北馬」と言われるように優秀な船を保有しており、237年には朝鮮半島まで来ています。その後も呉の軍船が東シナ海をウロウロしていたようで、倭に来る可能性もあります。

その呉の船が投馬国に来るのに「水行二十日」を要するというのでしょう。それは倭からだと沖縄まで南下して呉に渡る、遣唐使船の航路の南島路であることが考えられます。

それに対して魏と接触のあった邪馬台国の場合は、洛陽と邪馬台国の間が「水行十日・陸行二十日」なのでしょう。そうでなければ伊都国や奴国は距離で示されているのに、邪馬台国と投馬国の場合には日数になっていることの意味がわかりません。

呉と投馬国との関係がよくわかりませんが、あるいは張政は、女王国の南の狗奴国が呉と接触することを警戒していたのかも知れません。張政が黄幢・詔書を届けに来たのは女王国と狗奴国が不和の関係にあったためですが、女王国に対抗して狗奴国が呉と接触することは考えられることです。 

2009年7月10日金曜日

邪馬台国と面土国 その6

倭人伝に「如刺史」とありますが、通説では伊都国には一大率が置かれて諸国を検察していたが、その様子が「刺史の如く」だと解釈されています。この時代の刺史は最高位の地方行政官で13ある州の長官ですが、この時期の幽州刺史として毋丘倹の名が知られています。

少々発想が飛躍しますが、通説だと一大率は毋丘倹のようだということになり、相当にイメージが違います。前漢代の刺史は監察官で行政権も軍事権もありませんでした。説の想定している刺史は前漢時代の監察官としての刺史であって、魏・晋時代の地方行政官としての刺史ではありません。

最初にこのように解釈したのは植村清二氏のようです。植村氏は倭国の高官の大倭が伊都国に一大率を派遣して諸国を検察させているのだとしていますが、そうすると「如刺史」は一大率の権能を説明していることになります。これが今日でも通説として罷り通っています。

大倭は市場や租税などの経済を担当し、一大率は軍事・警察を担当しています。そして「如刺史」は「自女王国以北」の国々を、女王に対して半ば独立した状態で支配しているのです。その半ば独立した状態があたかも中国の州の如くであり、その支配者が刺史の如くだというのです

植村氏は市場や租税と大倭とに関係がないとしていることになりますが、これが問題で意味がまったく違ってきます。「如刺史」、つまり面土国王は卑弥呼共立の当事者として、女王の行なう外交を監視していました。それが文書や賜遺の物を「津に臨みて捜露す」ることなのです。

この津が面土国という国名の由来になっている港ですが、帯方郡使だけでなく女王の使者にも捜露が行なわれていることに注意が必要です。このように考えることで、倭人伝の刺史が魏・晋代の地方行政官としての刺史であることが理解できます。

2009年7月8日水曜日

邪馬台国と面土国 その5

面土国と言っても、「そんな国は知らない」と言う人がほとんどです。倭面土国は『通典』に出てくる国名ですが、『通典』は権威のある書ではあるが正史ではありません。また『後漢書』はその王を「倭国王帥升」としているし、倭人伝にも見えません。面土国が知られていない最大の原因は倭人伝にその名が見えないことでしょう

その面土国について東京大学教授の西島定生氏は、「倭面土国という国名が記録されて残っている以上、その国の存在が否定されない限り、奴国以外に面土国という国が在ったことになる」とされていました。西嶋氏は伊都国のことだとする説に同意されていたようですが、この指摘を無視すべきではないと思います。

その後、西嶋氏は王仲殊氏の見解などを加味して面土国の存在を否定されるようになります。7世紀前半の唐代初期以後には倭という国名を嫌って「やまと」あるいは「日本」と称するようになるが、日本の古称の「やまと」に倭面土の文字を当てたというのです。(『倭国の出現』1999年5月)

この西嶋氏の考えは、内藤湖南の倭と面土を一体のものとして読む説を肯定するものですが、一方では白鳥庫吉の「倭の面土国」という読み方を否定したことになります。前者の場合だと、倭に面土国という国は無いことになります。そして次のように述べられています。

この想定が正しいかどうかについては、今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである。しかしその当否にかかわらず、「倭面土国」の名称がいわゆる邪馬台国時代より以前の二世紀にすでに実在したということが文献学的に実証されない限り、その時代において「倭面土国」とはいかなる国名を表記したものか、あるいは「面土国」は何処に求めるべきであるか、などという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか、と私には思われるのである。

私は以前の見解のほうが正しいと思います。その理由は「その3」で述べていますが、面土国は末盧国と伊都国の間に位置していることになるから、文献学的に実証できると言えます。「従郡至倭」の行程も邪馬台国までではなく、末盧国までということになります。

倭人伝については様々な見解が発表されていて、いささか冷静さを欠いています。冷静になって考えてみると面土国の存在を認める方が理に適うことが分かってきます。なによりも邪馬台国の位置が定まらないのは面土国が3世紀にも実在していることが考えられていないからです

2009年7月7日火曜日

邪馬台国と面土国 その2の2

今回は「その2」の補足です。「稍」は「方六百里」とも言い、太夫に食封として与えられる面積で、260キロ四方を言いますが、「王城を去ること三百里という意味もあります。「方六百里」が方形であるのに対し、「王城を去ること三百里」は円形のようにも思えますが、もっと別の意味があります。

王城を中心とした半径300里までの支配が認められているという意味があるのです。その地理観では方位・距離の起点は王城ですが、終点は隣接する稍との境界になります。隣接している稍は別の王が支配しているのですから、300里の終点が隣の稍の王城になることはありません

「王城を去ること三百里」は換言すると支配地が制限されているということであり、300里以上(隣の稍)を支配してはいけないということですさて倭人伝ですが、倭人伝の地理記事に見える方位・距離が、私の考える「王城を去ること三百里」の地理観に従って書かれていればどうなるでしょうか。

私たちは倭人伝の方位・距離の終点は国都などの「中心地」だと思い込んでいます。そこで著名遺跡を国都に疑定して方位・距離をあれこれと操作することが行なわれています。それらの遺跡は偶然に発見されたものであり、国都と見るにはよほどの根拠が必要です。

方位・距離の起点は王城ですが終点は王城や国都ではなく国境です。著名遺跡だからということは起点・終点の根拠にはなりません。奈良県の纒向遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡を邪馬台国の王城だとする説が盛んですが、元来それは「王城を去ること三百里」の地理観には合致しません。

それらは倭人伝の地理記事とは無関係に語られています。このことは伊都国の中心地を前原付近、奴国の中心地を春日市付近とする説にも言えることです。この地域に遺跡・遺物が多ことと、この地域が伊都国・奴国であるということとは別問題です。

2009年7月5日日曜日

邪馬台国と面土国 その4

先日の「その3」の補足です。あまり先走り過ぎると余分な誤解を招きそうですが、理解し易いと思うので書きます。面土国王の帥升と、その子・孫のことは『古事記』『日本書紀』 にも書かれています。それどころか140年後の子孫のことまで書かれています。
                                                帥升は『古事記』には須佐、『日本書紀』には素戔と記されています。「帥升」は倭人の発音を漢字で表したものですが、元の音は「すさ」なのです。倭国大乱の結果、卑弥呼が共立されますが、それ以前の7~80年間は男子が王でした。この男王は帥升の子孫の面土国王ですが、おそらく曾孫も含まれているでしょう。
                                                その男王は敬意を込めて 「帥升の緒」(すさのお)呼ばれていました。これが『古事記』の須佐之男命であり、『日本書紀』の素戔嗚尊です。「緒」には「始め」「興り」「糸口」といった意味がありますが、「すさのお」とは帥升に連なっている者という意味になります。
                                                もうお解かりでしょう。卑弥呼は天照大神です。卑弥呼の死後に男王が立ちますが、国中が従わず千余人が殺される争乱が起き、台与が共立されます。これが「天の岩戸」の神話になっています。岩戸に入る前の天照大神が卑弥呼であり、岩戸から出てきた天照大神が台与です。
                                             
倭人伝の記事は台与が共立された時点で終わっていますが、間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれ、争乱の当事者が処罰されるようです。
                                                              
神話では高天が原を追放されたスサノオは出雲に下り、オロチを退治することになっていますが、面土国王は争乱の最大の当事者とされて滅ぼされるようです。
                  
面土国は宗像郡ですが、宗像郡の宗像大社にはスサノオの剣から生まれたとされる3女神が祀られています。祀っているのが宗像氏ですが、祭神がスサノオではなく3女神だということは、宗像氏は面土国王の直系の子孫ではなく、3女神とされている傍系の子孫だということでしょう。

神話は史実ではないといわれますが、神話が生まれるについては相応の史実が存在しています。邪馬台国が高天が原であるのに対し、スサノオの支配する海原が面土国と言うことになります。

2009年7月4日土曜日

邪馬台国と面土国 その3

『魏志』倭人伝によると倭国で大乱が起きて卑弥呼が共立されますが、卑弥呼が共立される以前の7~80年間は男子が王でした。大乱が起きた時期については書によって違いがありますが、後漢霊帝の光和年中(178~183)だと考えられています。

光和年中から7~80年を遡ると、98年~113年の間になりますが、この間の107年に面土国王の帥升が遣使しています。このことは井上光貞氏が述べているところです。面土国王の帥升についてはこれを奴国王とする説がありますが、光和年中の7~80年前というのであればこの説は成り立ちません。

そうであれば卑弥呼共立以前の男王は帥升の子・孫の面土国王であり、面土国王は卑弥呼共立の一方の当事者だということになります。面土国は三世紀にも存在しているのです。面土国王は「自女王国以北」の面土・奴・不弥などの諸国を「州刺史の如く」に支配しています。伊都国は『女王国に統属』しているとされていますから支配下にはなかったようです。

通説では伊都国にいる一大率があたかも刺史の如くだと解釈されていますが、後述するようにこの通説は大変な誤解です。 通説が想定している刺史は前漢代の刺史であって、魏・晋代の刺史には郡・県を検察する任務はなく、従って郡・県が畏憚することはありません。陳寿自身も『魏志』巻十五の評語で次のように述べています。

漢の時以来、刺史は諸郡を総統し、都の外にあって行政を行った。これは先の時代にただ司察だけを行っていたのと同じではない

その陳寿が300年も前の、前漢代の刺史を引き合いに出して3世紀の倭人の一大率を説明することはあり得ません。この刺史は魏・晋代の最高位の地方行政官である、州の長官のようだというのであって、倭人伝の一大率と刺史とはまったく別の官職です。

面土国は筑前宗像郡であり、『自女王国以北』は遠賀川流域です。面土国王の帥升は宗像氏のはるかな遠祖なのです。解釈のしようではこのような結果になってきますが、私にとっての邪馬台国論の面白さは、邪馬台国の位置よりもこうしたところにあります。

2009年7月3日金曜日

邪馬台国と面土国 その2

図は諸橋轍次編『大漢和辭典』第七巻一一三五ページ【畿】の項から借用したものですが、それによると、諸侯(後の王)は領地として四方五百里を与えられましたが、これを「方千里」と言い、また「都(と)」とも称していたようです。方八百里(四方四百里)は「縣(けん)」と言われ、王の子に食封として与えられる面積のようです。
  
また『大漢和辭典』【稍】の項には『正字通』を引用して「王畿六遂、三百里外為稍地、太夫之所食也」とあります。方六百里(四方三百里)は稍(しょう)といい、太夫に食封として与えられる面積です。大夫は王・候・太夫・士という身分のうちの太夫のことです。

方四〇〇里(四方二〇〇里)は「遂」と呼ばれ、方二〇〇里(四方百里)は「郷」と呼ばれましたが、郷には遠郊と近郊がありました。王の住む城からの距離に応じて100里ごとに呼び方があり、身分に応じてその広さが封地として与えられられました。

漢代には俸給が身分を表すようになり、太夫は二千石(にせんせき)と呼ばれるようになります。二千石が地方行政官に任命される場合には、州の長官の刺史(しし)や、郡の長官の郡太守(ぐんたいしゅ)に任命されます。
    
秦の始皇帝は一族や功臣に封地を分け与えて国とする制度を廃止して、全国を三六の郡に分け官僚を派遣して統治しましたが、これを郡県制(ぐんけんせい)といいます。秦が滅んで前漢時代になると皇帝の一族の封地である国と、官僚を派遣して統治する郡とが並存するようになり、これを郡国制(ぐんこくせい)と呼んでいます。  

郡国制では郡と国の面積が共に稍だったようです。前漢時代には内臣の王に任ぜられると郡が封地として与えられましたが、これを国と称しその王は郡王(ぐんおう)と呼ばれることがあります。その国の面積も稍で、王の封地ではない郡には太夫が郡太守に任命されて統治しました。

もちろん稍よりも大きな郡・国もあれば小さな郡・国もありますが、稍が基準になったようです。 この規定は外臣の王である卑弥呼にも適用されていました。1里を434メートルとすると、六百里は260キロになりますが、卑弥呼が王として支配することを許されていたのは 260キロ四方だったのです。

前回に邪馬台国は筑前にあったと述べましたが、卑弥呼の支配できるのは260キロ四方ですから、支配下の30ヶ国は北部九州を出ることはありません。従って出雲や大和を卑弥呼が直接に支配することはなく、畿内説は成立しません。 しかし卑弥呼は出雲や大和を間接的に支配していました。

卑弥呼は魏から「親魏倭王」に冊封されましたが、それは魏の皇帝の職務執行代行者であることを表します。卑弥呼はその「親魏倭王」として出雲や大和に対応していたのですが、それを象徴するのが「三角縁神獣鏡」でした。

魏の皇帝は印綬を授与しましたが、これは冊封体制が文書外交であることを示しています。倭人社会にはまだ文字が無く文書を交付することは行なわれていなかったので鏡を授与したのです。

私はこれを「擬似冊封体制」、あるいは「小中華」と呼ぶのがよいではないかと思っていますが、このことが大和朝廷の成立に深く係わっているようです。
 
図は稍を円で表したものですが、円の直径が260キロです。韓、及び帯方郡の位置・面積と比較してみてください「筑紫」「出雲」「日向(熊襲)」「越」などの概念が稍から生まれたことがわかります。近畿を中心とする稍には固有の呼称が無いので、大和で代表させてみました。