タカクラジ(高倉下)の倉に布都神が降されたのは、天皇が熊野から大和に入るのをニギハヤヒが認めていることを暗示していると述べましたが、『先代旧事本紀』天孫本紀はタカクラジを尾張氏の祖のアメノカゴヤマ(天香語山)の別名と思わせようとしています。
また『日本書記』は尾張氏の祖をホノにニギの子で、ホホデミの兄のホアカリ(天火明)としていますが、『先代旧事本紀』ではホアカリとニギハヤヒは同神とされ・物部氏の祖のウマシマジと尾張氏の祖のアメノカゴヤマは、ニギハヤヒを父とする異母兄弟としています。
『先代旧事本紀』は物部の系譜に尾張氏を取り込でいますが、物部氏と尾張氏がどのような経過で結びついたのか、あるいは尾張氏がホホデミの兄のホアカリを祖とする理由はよく分かりません。
尾張氏は葛城山々麓の高尾張(奈良県御所市)を本拠とする氏族だとされていますが、尾張国にも同族がいます。私は発生したのは尾張国だが、大和朝廷が成立すると大和に本拠を移すのだと考えています。
三遠式銅鐸は大和の隣の伊勢・伊賀・近江以東の東海西部に分布していますが、尾張国には三遠式銅鐸が分布しています。纏向遺跡の外来土器の49%は東海地方のものとされているように、大和朝廷の成立に三遠式銅鐸分布圏が無関係だったとは考えられません。尾張氏は大和朝廷の成立に大きな影響力を持っていたはずです。
『銅鐸関係資料修成』は銅鐸大辞典とも言うべき大著ですが、その著者・田中巽氏は銅鐸を使用した氏族を尾張氏だとしています。それに対する批判もあるようですが、三遠式に関してはそれを尾張氏だとしてもよいと思います。
タカクラジが尾張氏の祖のアメノカゴヤマ(天香語山)の別名であれば、タカクラジは三遠式銅鐸を配布した部族だと考えることができそうです。熊野は近畿4・5式銅鐸と三遠式の分布が接する場所です。神武天皇の熊野迂回ではさらに東に行こうとした形跡がありますが、三遠式銅鐸を配布した部族を意識してのことであったと考えることもできます。
天皇が熊野の山中で道に迷うと、髙木神はヤタガラス(八咫烏)を遣わして天皇の道案内にしますが、八咫烏についても同様のことが言えるようです。『新撰姓氏録』はヤタガラスをカミムスビ(神魂命)の曾孫で、山城の賀茂県主の祖のカモタケツヌミ(賀茂建角身)の化身だとしています。
出雲のオオナムチの国譲りに続いて経津主神がオオモノヌシとコトシロヌシを帰順させますが、神武天皇の大和入りに大和の賀茂氏の祭るコトシロヌシは出てきません。それに代わるように山城の賀茂県主の祖のカモノタケツヌミの化身がヤタガラスだという話が出てきます。
大和の地祇系(事代主系)賀茂氏と山城の天神系賀茂県主との関係もよく分かりませんが、大和の賀茂氏が山城に進出して賀茂県主になるという説や、両者は無関係だとする説があり、また出雲と関係があるとする説もあります。
山城の賀茂県主の祖とされる神魂命は、出雲ではカモス(神魂)と呼ばれていて出雲の指令神として活動ます。ところが高天が原では活動することがなく、呼び方もカミムスヒ(皇産霊、神産巣日)になります。山城の賀茂氏は高天が原ではなく出雲と関係があるのでしょう。
島根県の加茂には、山城の賀茂神社の荘園があったと言われており、カモノタケツヌミを祭る加茂神社があります。その荘園内の岩倉から銅鐸39個が出土しました。山城の賀茂氏は加茂岩倉遺跡の銅鐸39個と関係があると考えられます。
尾張氏が三遠式銅鐸を使用したのと同様に、賀茂氏も近畿式銅鐸を使用した宗族なのでしょう。神武天皇が熊野に迂回したことにより、三遠式銅鐸を配布した部族が神武天皇を認めるようになり、それが近畿式銅鐸を配布した部族にも及んでいったということであろうと思います。
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