吉備の高島宮滞在中に船を準備し兵糧を蓄えた神武天皇は、河内の白肩の津(大阪府枚方市)から生駒山を越えて大和に入ろうとして、ナガスネビコ(長髄彦)の妨害を受けます。ナガスネビコは生駒山を源流とする富雄川流域の宗族だと考えられています。
ナガスネビコの妨害を受けた天皇は紀伊の熊野川々口(和歌山県新宮)に迂回しますが、熊野ではで大熊、あるいはニシキトベ(丹敷戸畔)の毒気に当たって失神します。その時、高御産巣日神と天照大神は、タカクラジ(高倉下)の夢の中でタケミカズチ(建御雷神)を向かわせようとします。
タケミカズチはその必要はないとして、神剣をタカクラジのもとに降します。『古事記』では次のようになっています。
「僕は降らずとも、専ら其の国を平げし横刀あれば、是の刀を降すべし〔此の刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)と云ひ、亦の名は甕布都神(みかふつのかみ)と云ひ、亦の名は布都御魂(ふつのみたま)。此の刀は石上神宮に坐す〕此の刀を降さむ状は、高倉下の倉の頂を穿ちて、其れより堕し入れむ」
タカクラジの夢の中で、倉の屋根を破って物部氏の祭る布都神が降されたというのですから、何かを暗示していると考えるのがよいようです。私は天皇が熊野から大和に入ることをニギハヤヒが認めていることを暗示していると考えます。 大和朝廷で祭祀を職掌とした中臣氏の祭るタケミカズチが出てくるのも意味ありげです。
横刀には幾つかの名があるが、共通するのは布津神であり、それは石上神宮に祭られているというのです。石上神宮は物部氏が剣神である布都神を祭っていることで知られていますが、横刀には物部氏が関係しているようです。
この文は先に紹介した『日本書紀』第二の一書の、出雲のオオナムチの国譲りに続いて経津主神が岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として、オオモノヌシとコトシロヌシを帰順させたことに関係するようです。
この時、讃岐・阿波・紀伊・伊勢の忌部が定められますが、この忌部は太玉命を祖とする忌部首氏とは別系統で、忌部首氏が中臣氏と共に祭祀を行ったのに対し、祭祀用の物を調達・管理する物部氏の元で祭祀用の物作りを行ったようです。これは四国東部・紀伊半島に物部氏の勢力が及んでいたということでしょう。
オオモノヌシとコトシロヌシを帰順させ、物作りの忌部を定めたのは物部氏の祭る剣神の経津主神ですが、建御雷神がタカクラジの元に降した横刀とは経津主神であると同時に、ニギハヤヒのことでもあることを暗示していると思われます。
オオモノヌシ・コトシロヌシの帰順から、ニギハヤヒがナガスネビコを殺して天皇に帰順するまでの経過を見ていくと、ニギハヤヒはナガスネビコを排除する機会を窺がっているような印象を受けます。それは神武天皇の筑紫の岡田宮に滞在中に結ばれた密約によると考えます。
先に天皇の筑紫の岡田宮滞在の目的の一つは、遠賀川流域のニギハヤヒの一族と接触することだったと述べました。『古事記』『日本書記』にそれを思わせるものはありませんが、この時にナガスネビコを排除する密約が交わされ、ニギハヤヒもそれを承知していたのだと思っています。
ニギハヤヒが大和に入る経過については『大国主の国譲り その4・5』で述べていますが、ニギハヤヒは近畿4・5式銅鐸を配布した部族に迎えられて、大和盆地の東部(天理市周辺)に本拠を置くことになると考えます。ニギハヤヒは近畿4・5式銅鐸の分布圏である讃岐・阿波・紀伊・伊勢から大和南部にかけて地盤を持っていたようです。
大和の銅鐸出土地を見ると西北部の大和盆地に多く、南部には見られません。根拠はありませんが大和盆地の近畿2・3式銅鐸を配布した部族がナガスネビコではないかと思っています。近畿2・3式銅鐸を持っていた宗族は、部族に属していた歴史が永いだけに、天皇の大和入りが受け入れられなかったのでしょう。
神武天皇は生駒山を越えようとして近畿2・3式銅鐸を持っていた宗族の妨害を受けたので、ニギハヤヒの地盤でもあり、部族としての歴史が新しくて天皇を受け入れ易い近畿4・5式銅鐸分布圏の熊野に迂回したのだと考えます。
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