2010年1月21日木曜日

出雲神在祭 その2

小説家・思想家の白柳秀湖は『民族歴史建国編』(昭和17年、千倉書房)で、出雲神在祭がツングース族の「ムニャーク」という寄り合い評定に似ている述べています。鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり、国政の得失を論じ、それは巨帥(統領)の任免にまで及んだということです

ムニャークは毎年一定の場所で開催され、その場所には多くの天幕が張られ、会議期間中は盛大な歌舞宴飲が行なわれたということです。ムニャークは重大な会議ではあるが、一年に一度の大舞踏会でもあったといいます。

出雲神在祭で神々が参集する目的には縁結びや会議のほかに、酒作りや料理のためとするものがあります。図は島根県教育委員会編『出雲古代文化展』からお借りしましたが、黄色丸印が酒作りです。出雲に近い日本海側に多いことが注目されています。

また簸川郡斐川町の万九千神社では神等去出(からさで、祭礼の最終日)の晩に同社で神々が饗宴を催し、その後帰途に就くと伝えられていて、両者には共通性が見られます。

江上波夫氏は『騎馬民族』(中公新書)で、匈奴の国家運営形態を蒙古族のクリュリタイに似たものであったとしています。匈奴は正月のほかに春5月と秋に、つまり遊牧生活の変わり目に特定の場所で大会を開いて国家的な祭典を行い、国事を議定し人民・家畜数を調査し、租税の徴収を計画したと述べられています。

それには匈奴国家を形成する全部族が集合する(神集い)義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺されたと言います。匈奴も鮮卑と同様の部族連合国家で巨帥(統領)が統治しており、一般の族長は大会に参加する義務があったようです。

匈奴では遊牧生活の変わり目に大会が開かれたようですが、出雲神在祭は旧暦10月(太陽暦の11月後半)に行なわれますから、倭人の場合には稲の収穫の終わるのを待って開かれたのでしょう。米の収穫量に応じて租税の徴収が計画されたことが考えられます。

このような鮮卑・匈奴の例から見て、部族に擁立された倭人の王の支配権は極めて弱く、鮮卑の巨帥(統領)のようなものだったようです。出雲神在祭の原形は有力者を招集して行われる合議制統治、つまり白柳秀湖のいう「寄り合い評定」であったことが考えられます。これが本来の部族の統治方法なのでしょう

それに参加しないと国に対する敵意・謀反と見なされたことが考えられます。江上氏の言われる匈奴の部族は倭人伝の宗族に当たると思われますが、青銅祭器は宗族に1本が配布されたようです。荒神谷の青銅祭器を持っていた380の宗族の族長にも参集する義務が課せられていたでしょう

加茂岩倉の39個という多数の銅鐸についても同様のことが考えられます。その総数は419になりますが、そうすると500人、あるいはそれ以上が参集したことが考えられます。これだけの人数が集まるには相当に広い場所が必要です。

神等去出(祭礼の最終日)の晩に神々が宴を催すという伝承のある万九千神社は、その地勢から見て斐伊川の河原だったと思われますが、鮮卑がシラムレン河の河畔に集ったように、この河原が族長の集まる広場になっていたでしょう。鮮卑は広場に天幕を張りましたが、農耕民の倭人には天幕という発想はありませんから掘立柱建物を建てた思います。

奈良県纒向遺跡は巻向川の河原といってよい所ですが、3世紀前半の纒向遺跡もそうした広場だったと思われます。纒向遺跡は日常生活の場とは考えられないことから、卑弥呼の王都ではないかとされています。しかし初期の天皇の皇宮が1代ごとに違っていることでも分かるように、弥生時代に平城京や平安京のような王都があったとは考えられません。

また卑弥呼の宮殿ではないかと話題になっている大型の掘立柱建物は、周辺からの出土品などから見て、広場に設けられた宴会場であり、また会議場でもあったでしょう。周辺にはまだ多数の建物があると考えられていますが、それらは会議場に付属する建物でしょう。

出雲大社本殿の東と西に出雲神在祭に参集する「八百万の神」の宿舎だとされる、「十九社」と呼ばれる細長い社殿があります。纒向遺跡の大型の掘立柱建物は出雲大社の本殿に相当し、周辺の多数の建物は「十九社」に相当する考えることができそうです。

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