2010年1月10日日曜日

海幸彦・山幸彦 その1

ホホデミ(山幸彦)はシオツチノオジに教えられて海神の宮に行きます。その宮の場所について、藤原貞幹は1781年に発表した『衝口発』で奄美大島とし、薩摩の国学者、白尾国柱も『神代山陵考』で「世の人の多くは今の南琉球であると言っている」としています。

しかしその伝承は奄美や琉球(沖縄)には無く、なぜか玄界灘沿岸、ことに対馬に有ります。対馬の和多都美神を祭る式内社は上県郡2座、下県郡2座の4座があり、祭神はトヨタマビメ・ホホデミ・ウガヤフキアエズです。

対馬には和多都美神社や和多都美御子神社があり、海の神の母子をセットで祭る信仰が見られます。和多都美神を祀る神社として峰町木坂の海神神社、厳原町中村の厳原八幡神社、豊玉町仁位の和多都美神社などがあって、どれが式内社の和多都美神社かという論争があります。

また『新撰姓氏録』は志賀島の海紳を祭る阿曇氏を「綿積豊玉彦神之子、穂高見命』の子孫だとし、『古事記』は「綿津見神の子、宇都志日金拆命の子なり」としています。阿曇氏の祀る綿積神なら阿曇三神のように思われますが、なぜか豊玉彦が始祖とされています。

壱岐の海神社(石田町筒城)の祭神、豊玉彦も阿曇氏の祖神の豊玉彦ではなく、日向神話のトヨタマビメ・タマヨリビメの父の豊玉彦だと考えられていて、この神には天照大神やタカミムスビと同等の格が与えられています。

同様のことが摂津の住吉神社にも見られます。摂津住吉神社の四つの摂社のなかに大海神社があり、延喜式神名帳には「大海神社二座、元名津守氏人神」とあって、大海神社は津守氏が氏神として奉祭しています。津守氏は尾張氏の一族と言われていますから、祭神は火明命のはずですが豊玉彦・豊玉姫になっています。

津守氏は住吉神社で住吉三神を祭り、大海神社で氏神として豊玉彦、豊玉姫を祭るという、二重の祭祀を行っています。津守氏が奉祭していたのは摂津の住吉神社だけで、筑前の住吉神社には関係がみられませんが、筑前の住吉神社も豊玉彦、豊玉姫と何等かの関係があるのかも知れません。

筑前の住吉神社は住吉3神を祭っていますが、これを祭る有力な氏族がみられません。博多湾を根拠地とする那珂海人が、阿曇氏や津守氏のように海神を祖とする伝承をもっていた可能性があります。

和多都美神社の社伝でも和多都美神社は山幸彦神話の海神の宮だとされていますが、このように見てくると海神の宮が在ったのは沖縄とするよりも玄界灘沿岸、ことに対馬とするほうがよいようです。なぜ北部九州に伝承があるのでしょうか。

このことについては倭人伝の対馬国・一支国の記事との関係を考慮する必要があるように思います。

(対馬国)良田無く海物を食して自活する。乗船して南北に市糴す 
(一支国)田地に差有り耕田すれども猶食に不足。亦南北に市糴す

どちらも良田が無く米が不足しており、南北に交易して米を得ているというのですが、壱岐の原の辻遺跡では立派な船着場が見つかっており、交易が盛んに行なわれていたことが分かります。ゆうまでもなく北とは朝鮮半島であり南は九州本島です。

そこで南北の範囲を考えてみる必要があります。狭く考えると北は朝鮮半島の南岸、南は玄界灘沿岸と見ることができますが、広く考えると北は遼東半島や中国まで、南は九州本島だけでなく瀬戸内や大阪湾までを考えてもよいでしょう。

玄界灘沿岸の交易商人が南海産の物資を求めたので、交易圏は南九州にも及んでいたことが考えられます。それと共に朝鮮半島(帯方郡)や中国(魏)との外交関係があり、私はこのことが山幸彦が海神の宮に行ったとされていると考えています。

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