神武東遷のハイライシーンは、金鳶が天皇の弓にとまったためにナガスネビコの兵は目が眩んで戦うことができなくなった場面でしょう。一見するとこれも史実のようには思えません。
金鳶について『生駒市誌』は、鳶とは物部氏の根拠地の鳥見・富雄・登美という地名に由来するもので、ナガスネビコ側の神ではないかとしています。これは『日本書記』が鳥見という地名を金鳶と結び付けていることが根拠になっているようです。
鳶と鳥見・富雄・登美という地名の類似はともかくとして『生駒市誌』の金鳶をナガスネビコ側の神とする考えに同意したいと思います。金鳶のために戦えなくなったナガスネビコは使者を遣わして「天神の子、饒速日命を主君として仕えている。天神の子が二人もいるはずがない。天神の子だと言って国を奪うつもりだろう」となじっています。
天皇が本当の天神の子であることを知ったナガスネビコは、武器を取った以上は途中で止めることはできないとしてなおも抵抗します。そこでニギハヤヒはナガスネビコを殺して天皇に帰順します。金鵄は天皇が支配者として認められたことを表していると見ることができます。
金鳶が天皇の弓にとまるのは天皇の大和入りを認めようとする宗族と認めまいとする宗族があったが、前回に述べたように三遠式銅鐸を使用した尾張氏(高倉下)や、近畿式銅鐸を使用した賀茂氏(八咫烏)などがこれを認めたので、大勢が認める方向に動いたということでしょう。
ここにはオオモノヌシ(大三輪氏の祖)が出てきませんが、神武天皇は言わばオオモノヌシの入り婿という形になっていて、オオモノヌシは神武天皇の大和入りに大きな役割を持っています。状況証拠になりますが大和の王であるオオモノヌシを金鳶だと考えることもできそうです。
纏向遺跡はオオモノヌシを祭る三輪山の傍にあります。オオモノヌシは卑弥呼の宮殿ではないかと言われている大型建物に有力者を集めて、前述の白柳秀湖の言う「寄り合い評定」を行ったのかもしれません。その「寄り合い評定」で天皇を受け入れることが決定したので、ナガスネビコは戦うことができなくなったという想像もできます。
神武天皇の東遷開始から即位まで『古事記』では7年以上、『日本書紀』では17年以上が経過したことになっています。私は東遷開始を倭人が晋に遣使した266年と考えていますが、7年が経過したとすると即位は273年になり、17年だと283年になります。
こうして天皇は橿原宮で初代の天皇として即位することになっていますが、それは280年ころのことであろうと思います。これは古墳時代が始まる三世紀後半に当たります。280年ころの即位は推察ですが、3世紀後半に大和朝廷が成立したことにより古墳時代が始まることは考えられてもよいと思います。
今まで弥生時代が古墳時代に変わる理由、あるいは原因は何かという点が、問題にされることはなかったように思います。土器が弥生式から土師器に変わるとか、古墳が造られるようになると言われていますが、それは時代の特徴(結果)であって原因ではありません。
私は部族が王を擁立した部族制社会から、天皇を頂点とする氏姓制社会に変わったことが原因だと考えています。今までまったくと言ってよいほど部族ということが考えられていなかったので、氏姓制社会への移行も考えられていません。弥生時代が古墳時代に変わることへの疑問が持たれていないのです。
全ての青銅祭器が地上から姿を消すのは、青銅祭器を配布した巨大な部族が統一されて消滅したからです。青銅祭器を用いた部族の宗廟祭祀は大和朝廷から姓(かばね)を与えられた者を始祖とする氏族の祭祀に変わります。そして姓を与えられた者の墓が古墳です。
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