前回には壱岐(一支国)・対馬(対馬国)・玄界灘沿岸の交易が南九州にも及んでおり、それに伴って帯方郡や魏との外交関係が有ったのではないかと述べました。このように考えるのは志布志湾沿岸の鹿児島県曾於郡有明町野井倉で南九州唯一の中広形銅矛が出土しているからです。出土地は地図に見える野井倉神社か、その付近でしょう。
大場磐雄氏は銅矛を配布したのは阿曇氏だとしますが、私は銅矛を配布した部族が神格化されてイザナギになると考えています。また銅矛を配布したのは阿曇・那珂海人などの北部九州の部族だと考えます。
前回には安曇氏がトヨタマヒコ(豊玉彦)を祖としていること、および那珂海人もその可能性があることを述べました。ただ一本ではあるけれど、この中広形銅矛を介して志布志湾沿岸と玄界灘の阿曇・那珂海人とが結びついてきます。
日向神話ではシオツチノオジ(塩土老翁、塩筒老翁)がしばしば登場してきますが、『日本書紀』第四の一書はシオツチノオジのまたの名を事勝国勝神とし、イザナギの子だとしています。シオツチノオジもまた銅矛と関係があることになります。
有明町野井倉の中広形銅矛を祀っていた宗族が、ホホデミに海神の宮に行く方法を教えるシオツチノオジでもあると考えることができます。前回に述べた南九州と玄界灘沿岸の交易商人との接触は、すなわち銅矛を配布した部族との接触でもあるということになりそうです。
対馬の大量の銅矛に注意する必要があります。銅矛は宗族ごとに1本が配布されたようですが、「筑前5ヶ浦」の一つで博多湾頭の唐泊で、海底から1本が引き上げられています。対馬の商船一隻の経済力は一つの宗族に相当すると考えられて、一隻に一本が配布されており、その商船が日向・大隅地方まで来ていたと考えます。
大隈の志布志湾に流入する肝属川流域は、狭い平野の多い鹿児島県下では最大の穀倉地帯になっていて、唐仁古墳群、塚崎古墳群などがあり大隅直、曽君(曽県主)など、大きな勢力がこの地に形成されていたことが考えられています。
肝属川流域にウガヤフキアエズの吾平山上陵とされるものがあり、『陵墓要覧』は肝属郡吾平町字上名に比定しています。ウガヤフキアエズの神話の舞台は志布志湾沿岸だと考えることができますが、それは大隅直・曽君などが伝えていた侏儒国の歴史であることが考えられます。
ホホデミとトヨタマビメの間にフガヤフキアエズが生まれますが、そのウガヤフキアエズとトヨタマビメの妹のタマヨリビメの子が神武天皇です。銅矛を配布した部族は、神武天皇を海神の娘に結び付けて同族だとしているのですが、私はそうした史実が存在したと考えています。
確証はありませんが、これは『晋書』四夷伝 倭人条に見える「文帝の相に及ぶに、又、數至(かずいた)る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す」の文と関係すると思っています。文帝は司馬昭のことで、昭が相国になってからも何度かの遣使・入貢があったというのです。
昭が相国だったのは258年から265年までの7年間ですから、卑弥呼の例から考えて遣使は2~3度だったでしょう。昭が死んで炎が晋の武帝として即位すると翌266年に倭人がさっそく遣使しますが、司馬昭が相国だった7年間に倭国で何らかの動きがあったように思われます。
私はそれを神武天皇の東遷が急がれていたからだと考えています。大和に入った神武天皇に対し、ナガスネビコ(長髄彦)は「天神の子、饒速日命を主君として仕えている。天神の子が二人もいるはずがない。天神の子だと言って国を奪うつもりだろう」となじっていますが、こうした事態が起きることが事前に予測されていたのでしょう。
司馬昭が相国だった間の倭人の何度かの遣使は、こうした事態に対処するために倭王に冊封される必要があったからでしょう。しかし当時の魏は実態のない国になっていましたし、まだ晋が成立していないので司馬氏には倭王を冊封する権限がありませんでした。結局神武天皇が冊封を受けたのは晋が成立した翌年になったと考えます。
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