神武天皇の埃宮滞在中に出雲で何等かの動きがあったのではないかと述べました。話が横道に逸れますが、出雲神在祭に触れてみたいと思います。それは直接ではないにしても埃宮滞在中の出雲の動きを知る手懸かりになりそうです。
旧暦10月を神無月と言いますが、神々が出雲に行ってしまうのでこのように呼ばれるとされ、出雲地方は逆に神々が集まるので神有月になります。治承元年(1177)に死亡した藤原清輔の『奥義抄』にも神有月のことが見え、神事も12世紀以前から行われていたと考えられています。
神社の特殊神事は祭神が異なると変わりますし、また神社ごとの特殊神事もありますが、出雲神在祭は出雲国内一円だけではなく、全国に広がりを見せています。一つの祭礼でこれほどの広がりを見せる例はありません。 図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしました。
神々が参会するとされる神社
斐川郡大社町 日御埼神社
斐川郡大社町 出雲大社、
八束郡鹿島町 佐田神社
神々が立ち寄るとされる神社
出雲市朝山町 朝山神社
簸川郡斐川町 万九千神社
大原郡加茂町 神原神社
松江市大庭町 神魂神社
松江市雑賀町 売豆紀神社
松江市朝酌町 多賀神社
祭礼期間中は集まった神々の邪魔をしてはいけないということで「お忌みさん」といわれ、大声を出すな、歌舞音曲はつつしめ、障子貼りをするな、などと言われていました。今でも出雲大社や佐田神社、日御埼神社など関係する神社では厳重に忌みが守られ、神事が行われています。
神在祭で神々が出雲に集まる目的には縁結びのため、会議のためのほかに、里帰りのためとか母神であるイザナミの法事のために行くというものもあり、酒造りや料理、あるいは奉公のために行くというものもあります。 出雲に近ずくにつれて酒造り・料理のためとする神社が多くなると言われています。
参集した神々が出雲から去ることを神等去出(からさで)と言い、その日にも神事が行われますが、簸川郡斐川町併川の万九千神社では、その晩に同社で神々が宴を催し、その後各地への帰途につくと伝えられていて、神々が帰途につく場所を「神立」と言うとされています。
神立は国道9号線斐伊川付近の地名ですが、南1、5キロほどには7基の四隅突出墳丘墓の在ることで知られている西谷墳墓群があって、復元された3号墓を遠望することができます。
西谷墳墓群は3世紀ころのものと考えられていて、神立と西谷墳墓群の関係は、奈良県纒向遺跡と、そこに見られる初期のものとされる古墳の関係によく似ています。 この古墳も3世紀のものと考えられています。
神話では天照大神が岩戸にこもったために天地が暗黒になり、そこで八百万の神々が「天の安の河原」に集まって善後策を協議したとされています。また『日本書紀』第2の一書ではオオモノヌシ・コトシロヌシが従属した時に「天の高市」に八十万(やそよろず)の神が集められたとされています。
奈良県纒向遺跡では出土した土器の15%が大和以外から持ち込まれたもので、西日本の各地から人が集まったことが考えられています。そして出雲神有在祭では全国から神々が参集するとされています。このように人々が集まるための広場が国ごとにあったようです。
出雲神在祭は部族国家の時代(弥生時代後半)に、今の通常国会に相当するものが開かれていたが、それが後に神事になるようです。毎年秋の五穀の収穫が終わると宗族長が招集され、翌年の収穫までの一年間の議案が協議されたのでしょう。これが神在祭を行う神社で言われている神議(カミバカリ)なのでしょう。
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