2010年1月24日日曜日

出雲神在祭 その3

弥生時代後期(2世紀以後)になると、広島・岡山県北部の中国山地では山陰地方と共通性の強い塩町式などの土器を作るようになり、南部の瀬戸内の土器との違いが際立つようになります。このようなことから山間部の人々は日本海沿岸部の人々と積極的に交流を持つようになると考えられています。

また島根県出雲市西谷3号墓などでは吉備南部で作られた特殊器台・特殊壺が、葬祭用の土器として出土しており、山陰・山陽の交流を示すものとして注目されていますが、これについて島根大学の渡辺貞幸氏は首長間に通婚関係があったという考え方を示しています。

このような交流によって出雲と総称される中国地方の部族国家が誕生しますが、その統治方法は合議制統治、つまり白柳秀湖のいう「寄り合い評定」だったようで、それが後に出雲神在祭になると思われます。ですから出雲神在祭の始原は神武天皇の即位以前、つまり大和朝廷成立以前だと考えてよく、おそらくは3世紀になるでしょう。

神在祭で神々が参集する主な目的には縁結びと神議(カミバカリ)がありますが、もっとも重要な目的は縁結だったと思っています。大部族は強引な通婚を行い、同族関係の生じた宗族に青銅祭器を配布して勢力を拡大しようとしましたが、時には武力を用いることもあり争乱も起きました。

先にヤマタノオロチとは強引な通婚によって勢力を拡大しようとした、銅矛を配布した部族であろうと述べましたが、縁結びとは強引な通婚を規制することのようです。縁結びのカミバカリでは勢力を拡大しようとする政略の絡んだ強引な通婚が禁じられました。

すべてが部族中心の時代ですから、部族の思惑があって実現しなかった宗族間の通婚を、参集した宗族長たちが実現してやったこともあったのでしょう。こうしたことから後に出雲大社は縁結びの神とされるようになるようです。

前述のようにスサノオのオロチ退治には、2世紀末の倭国大乱が波及してきて出雲を中心とする部族国家が成立したことが語られています。その後には政略の絡んだ通婚がなくなり、部族の構成が固定したことにより青銅祭器を配布する必要もなくなります

自分たちで銅剣を造らず、銅矛・銅鐸の受け入れも拒否するようになります。通説では青銅祭器の祭祀をやめて四隅突出型墳丘墓の祭祀を行うようになるとされていますが、四国の太平洋側では東から近畿4・5式銅鐸が、西からは広形銅矛が流入してきています。四国の太平洋側は通婚の規制が及ばなかった地域なのでしょう。

図の稍P(出雲)の円から四国の太平洋側を外していますが、これは通婚の規制が及ばなかったことを意識して作図したからです。

円をもっと北にずらし隠岐島を含むようにすれば、このことを強調できると反省していますが、いずれにしても四国の太平洋側に新しいタイプの銅矛・銅鐸が分布していることが説明できます。

卑弥呼は魏から親魏倭王に冊封されましたが、冊封体制は皇帝を頂点とする中央集権制ですから、卑弥呼が親魏倭王に冊封されたことで、女王国では卑弥呼を頂点とする中央集権的な統治が行われるようになります。

その統治は、祭事は王の卑弥呼、政治は弟、経済は大倭、軍事・警察は一大率、外交は「刺史の如き者」というように分担されており、それは古墳時代の氏姓制(部民制)に近いものだと言えるようです。

部族に擁立された稍(600里四方)の王の統治形態は白柳秀湖のいう「寄り合い評定」でしたが、卑弥呼が親魏倭王に冊封されたことにより、部族によって擁立された王と卑弥呼の親魏倭王という2重のヘゲモニーが存在するようになります。神武天皇の東遷はそれを統一しようというものです。

神武天皇の埃宮滞在の目的は、出雲の合議制統治を氏姓制統治に変えることだったでしょう。オオクニヌシに国譲りを説得したアメノホヒ(天菩比)が出雲国造の祖とされるようになるのはこの時でしょ。部族は解体され、青銅祭器は回収されて荒神谷に埋納されたと思います。それは吉備や大和の部族を氏姓制に再編成する前例になるものであったと思います。

先に荒神谷に青銅祭器が埋納されたのはオオクニヌシの国譲りの時だと述べましたが、埃宮のある江の川流域に青銅祭器が見られないことを考えると、神武天皇の埃宮滞在中に臨時に宗族長が召集され、青銅祭器の回収・埋納が決定され実行されたと見ることが可能になってきます。両者の年代差は10年以内ほどで、大きな差はないと思っています。

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