タカミムスヒ(高御産巣日神)は倭人伝の大倭であり天照大神は台与です。またオモイカネ(思金神)は大夫の難升米であり、ホノニニギ(邇邇芸命)は台与の後の男王です。『梁書』『北史』に「其の後また男王を立て、并(あわ)せて中国の爵命を受ける」とありますが、この男王が神話のホノニニギです。
ホノニニギには天孫降臨の伝承があります。降臨とは神の住む天から人間の住む地上の降りるということですが、具体的にはこの男王の孫が初代の天皇になるという物語のようです。その前段階がオオクニヌシの国譲りになっています。
出雲には倭国統一を説得する使者が派遣されますが、『古事記』ではアメノホヒ(天菩比)はオオクニヌシに媚びついて三年経っても復命せず、アメノワカヒコ(天若日子)は自分が出雲の王になろうとして、八年経っても復命しなかったとされています。このころ女王国内に、この画策に反対している者がいました。一書は政治に関与することの 許されない庶民である「草木」さえも陰で批判したとしています。
一書に言う。天神は經津主神、武甕槌神を遣わして、葦原中国を平定させた。時に二神は「天に惡い神が居て名を天津甕星と言う。またの名は天香香背男。まずこの神を誅殺して、その後に下って葦原中国を平定したい」と言う。
画策に反対しているのがアマツミカホシ(天津甕星)、またの名がアメノカカセオ(天香香背男)だというのですが、私はこれを出雲の併合に反対しているのではなく、台与の退位、つまり女王制度を廃止しようとする動きに反対しているのだと考えています。
反対しているのは物部氏の一部ではないかと思っています。物部氏の祖のニギハヤヒハには多くの従者を従えて河内の哮が峰に下ったという伝承がありますが、『先代旧事本紀』に見える従者の名を見ると「天津」が付くものが多く、また「赤」や「ら」の音(浦・占・麻良・原)を含むという共通性があります。
船長・舵取り 天津羽原・天津麻良・天津真浦・天津赤麻良・天津赤星
五部人 天津麻良・天勇蘇・天津赤占・天津赤星
天にいる悪い神のアマツミカホシ、またの名はアメノカカセオにも似た点が見られます。アメノカカセオは星の神とされていますが、五部人の天津赤星も星に関係する名で、『先代旧事本紀』は天津赤星を「筑紫の弦田物部の祖」としています。
筑紫弦田物部の故地は鞍手郡鞍手町鶴田とされています。アマツミカホシ、またの名はアメノカカセオもやはり遠賀川流域に居た物部(二ギハヤヒ)の一族であり、ニギハヤヒは台与の退位に反対したのでフツヌシ・タケミカズチの討伐を受け、河内に下ったと考えることができそうです。
フツヌシは物部氏の祀る剣が神格化されたものだと考えられていますが、これだと物部氏の祀る剣が、同じ物部氏の祖のニギハヤヒを討伐するという矛盾が生じます。物部氏には理解できない面が多く推論になりますが、ニギハヤヒの同族の一部が台与の退位に反対したために追放されたのではないかと思っています。
『梁書』『北史』に「其の後また男王を立て、并(あわ)せて中国の爵命を受ける」とあるのは、こうした動きに対処するために台与と男王が同時に立てられ、それを魏が認めていたのだと考えています。
女王国内にそうした動きがありましたが、『日本書紀』本文ではフツヌシとタケミカズチが出雲に派遣されて国譲りをさせます。それが近畿や北陸にまで及んだことは前々回に述べました。
2009年12月27日日曜日
神話の時期のまとめ
私は弥生時代を180年ごとに大区分し、これをさらに90年ごとに中区分し、30年ごとに小区分して実年代を推定することにしています。これは通説に準拠した目安に過ぎませんが、これを元にして今までに述べてきた神話の時期を纏めてみたいと思います。
238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期です。3期は240年から270年までの30年間で台与とその後の男王の時代ですが、 3期初の247年ころが天の岩戸の神話の時期になります。247年にはすでに台与が女王になっていますから、卑弥呼の死はそれ以前です。
3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が遣使した最後の年の266年にほぼ一致することに注意したいと思います。通説では弥生時代の終わりは3世紀後半とされていますが、私はそれを270年としています。その根拠のひとつとして266年の倭人の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思っていることを挙げたいと思います。
266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されると考えています。中国・朝鮮半島の歴史は倭人の歴史と無関係ではありません。中国では倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するようです。
奈良県箸墓古墳の外提から出土した「布留0(ふるゼロ)式土器」は、一説に280~300年ころのものだと言われていますが、270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンだと考えていますが、この間に確実に古墳時代が始まるようです。
239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、『晋書』武帝紀はその後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相国になってからも何度かの遣使・入貢があったとしています。昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年から265年までの7年間でした。
司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。炎が即位すると翌266年にさっそく倭人が遣使していますが、これが神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。
神武天皇は東遷の途中で筑紫の岡田宮(福岡県葦屋とする説が有力)に1年間 (古事記)立ち寄っています。それは東遷コースから外れていますがその理由は何だったのでしょうか。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮滞在中に行なわれたと考えています。
司馬炎が即位したのは255年12月ですから、遣使の行なわれたのは266年の夏でしょう。そして『神功皇后紀』は使節が洛陽に到着したのは秋の10月だとしていますから、使節の帰国は267年の初夏になったと思います。
267年に大和への移動が始まると考えるのですが、即位するまでに何年間かが経過したとされており、また即位後の在位期間を考えると天皇の死は280年代ころになることが考えられます。これは箸墓古墳の築造時期と重なりますが、私は箸墓古墳は神武天皇の墓ではないかと考えています。
270~80年ころに神武天皇が即位して大和朝廷が成立するようです。大和朝廷の成立、すなわち神武天皇の即位が弥生時代の終わりであり、部族制社会から氏姓制への転換点でもあり、また青銅祭器が姿を消して古墳が出現する原因でもあると考えます。
神武天皇を含めて「欠史八代」と呼ばれている開化天皇までの諸天皇は存在しないとする説がありますが、270年から360年までの90年間が「欠史八代」の時代であり、古墳時代前期でもあるようです。この間に大和朝廷の支配が確立すると考えられます。
そして卑弥呼の死んだ247年から266年までの20年間に、スサノオの追放、オオクニヌシの国譲り、天孫降臨の神話に語られているような、何等かの史実が存在していると考えています。司馬昭が相国だった7年間に行なわれた何度かの遣使にそれが反映しているように思っていますが、残念ながら記録には残っていません。
238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期です。3期は240年から270年までの30年間で台与とその後の男王の時代ですが、 3期初の247年ころが天の岩戸の神話の時期になります。247年にはすでに台与が女王になっていますから、卑弥呼の死はそれ以前です。
3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が遣使した最後の年の266年にほぼ一致することに注意したいと思います。通説では弥生時代の終わりは3世紀後半とされていますが、私はそれを270年としています。その根拠のひとつとして266年の倭人の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思っていることを挙げたいと思います。
266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されると考えています。中国・朝鮮半島の歴史は倭人の歴史と無関係ではありません。中国では倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するようです。
奈良県箸墓古墳の外提から出土した「布留0(ふるゼロ)式土器」は、一説に280~300年ころのものだと言われていますが、270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンだと考えていますが、この間に確実に古墳時代が始まるようです。
239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、『晋書』武帝紀はその後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相国になってからも何度かの遣使・入貢があったとしています。昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年から265年までの7年間でした。
司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。炎が即位すると翌266年にさっそく倭人が遣使していますが、これが神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。
神武天皇は東遷の途中で筑紫の岡田宮(福岡県葦屋とする説が有力)に1年間 (古事記)立ち寄っています。それは東遷コースから外れていますがその理由は何だったのでしょうか。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮滞在中に行なわれたと考えています。
司馬炎が即位したのは255年12月ですから、遣使の行なわれたのは266年の夏でしょう。そして『神功皇后紀』は使節が洛陽に到着したのは秋の10月だとしていますから、使節の帰国は267年の初夏になったと思います。
267年に大和への移動が始まると考えるのですが、即位するまでに何年間かが経過したとされており、また即位後の在位期間を考えると天皇の死は280年代ころになることが考えられます。これは箸墓古墳の築造時期と重なりますが、私は箸墓古墳は神武天皇の墓ではないかと考えています。
270~80年ころに神武天皇が即位して大和朝廷が成立するようです。大和朝廷の成立、すなわち神武天皇の即位が弥生時代の終わりであり、部族制社会から氏姓制への転換点でもあり、また青銅祭器が姿を消して古墳が出現する原因でもあると考えます。
神武天皇を含めて「欠史八代」と呼ばれている開化天皇までの諸天皇は存在しないとする説がありますが、270年から360年までの90年間が「欠史八代」の時代であり、古墳時代前期でもあるようです。この間に大和朝廷の支配が確立すると考えられます。
そして卑弥呼の死んだ247年から266年までの20年間に、スサノオの追放、オオクニヌシの国譲り、天孫降臨の神話に語られているような、何等かの史実が存在していると考えています。司馬昭が相国だった7年間に行なわれた何度かの遣使にそれが反映しているように思っていますが、残念ながら記録には残っていません。
2009年12月25日金曜日
大国主の国譲り その5
『日本書紀』第二の一書は出雲のオオナムチに続いて、大和のオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順したことを記しています。近畿式銅鐸の分布圏が統一されたことを伝えているのですが、さらに次のようにも記しています。
時に高皇産霊尊は大物主神に「汝がもし国つ神を妻とするなら、吾はなお汝に疎んずる心が有ると思うであろう。今、吾が娘三穂津姫を汝の妻にしようと思う。八十萬の神を率いて永遠に皇孫を守るように」と言って環り降らせた。
これは一種の妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話で、タカミムスビ(倭人伝の大倭)は娘のミホツヒメをオオモノヌシの妻にすることで、銅鐸分布圏の支配権を確保したというのです。大和の銅鐸を配布した部族と同じような立場にあったのが越(北陸)の部族ですが、これがタケミナカタ(建御名方)です。
タケミナカタは追われて信濃の諏訪大社の祭神になったとされていますが、タケミナカタが北陸地方の勢力を表し、オオナムチが山陰地方の勢力を表し、オオモノヌシとコトシロヌシは大和、あるいは近畿地方の勢力を表していると見てよいでしょう。いずれも銅鐸の分布圏です。
それはフツヌシの功績といえるのですが、フツヌシは物部氏の祀る神です。物部氏の祖のニギハヤヒは船長・舵取り・五部人・二十五部など、多くの従者を従えて天磐船に乗り、天から河内の哮が峰(たけるがみね)に下り、後に大和国の鳥見に遷ったと伝えられています。
『先代旧事本紀』はニギハヤヒをホノニニギの兄としていますが、ニギハヤヒが河内に下った理由を記していません。しかし天照大神から十種の神宝を授かって降りたとしていて、弟のホノニニギが日向の高千穂の峰に降臨したのに対し、兄のニギハヤヒは河内の哮が峰に降臨したと言いたいようです。
ニギハヤヒもまた、鳥見(奈良県登美)のナガスネビコ(長髄彦)の妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、児のウマシマジ(宇麻志麻遅)が生まれたとされています。これもタカミムスビがミホツヒメをオオモノヌシの妻にするのと同じ、高天が原との関係を表す妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話です。
氏姓制下の氏族は大和朝廷に初めて服属した者を始祖としています。元来の物部氏はフツヌシを始祖としていたようですが、ニギハヤヒが神武天皇に服従したことで、ニギハヤヒが始祖になるようです。ニギハヤヒの東遷はフツヌシが近畿式銅鐸の分布圏を併合したことにより、物部氏が大和に地盤を持ったということです。
換言するとオオモノヌシの帰順は物部氏が行わせたということになります。そこに神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するのですが、大和朝廷が成立したことにより全ての部族が消滅し、部族の存続する根拠の青銅祭器は地上から姿を消します。そして青銅祭器による部族の宗廟祭祀に替わって、大和朝廷に初めて服属した者を始祖とする氏族の宗廟祭祀が行なわれるようになります。その神体の多くは銅鏡です。
津田左右吉は主として『古事記』と『日本書紀』の神話の違いから、神話は創作されたものであって史実ではないとしていますが、伝えた部族や氏族によって違いがあるのは当然のことです。『日本書紀』第二の一書の、言わば異伝とも言うべき伝承から、意外な事実が分かってきます。
時に高皇産霊尊は大物主神に「汝がもし国つ神を妻とするなら、吾はなお汝に疎んずる心が有ると思うであろう。今、吾が娘三穂津姫を汝の妻にしようと思う。八十萬の神を率いて永遠に皇孫を守るように」と言って環り降らせた。
これは一種の妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話で、タカミムスビ(倭人伝の大倭)は娘のミホツヒメをオオモノヌシの妻にすることで、銅鐸分布圏の支配権を確保したというのです。大和の銅鐸を配布した部族と同じような立場にあったのが越(北陸)の部族ですが、これがタケミナカタ(建御名方)です。
タケミナカタは追われて信濃の諏訪大社の祭神になったとされていますが、タケミナカタが北陸地方の勢力を表し、オオナムチが山陰地方の勢力を表し、オオモノヌシとコトシロヌシは大和、あるいは近畿地方の勢力を表していると見てよいでしょう。いずれも銅鐸の分布圏です。
それはフツヌシの功績といえるのですが、フツヌシは物部氏の祀る神です。物部氏の祖のニギハヤヒは船長・舵取り・五部人・二十五部など、多くの従者を従えて天磐船に乗り、天から河内の哮が峰(たけるがみね)に下り、後に大和国の鳥見に遷ったと伝えられています。
『先代旧事本紀』はニギハヤヒをホノニニギの兄としていますが、ニギハヤヒが河内に下った理由を記していません。しかし天照大神から十種の神宝を授かって降りたとしていて、弟のホノニニギが日向の高千穂の峰に降臨したのに対し、兄のニギハヤヒは河内の哮が峰に降臨したと言いたいようです。
ニギハヤヒもまた、鳥見(奈良県登美)のナガスネビコ(長髄彦)の妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、児のウマシマジ(宇麻志麻遅)が生まれたとされています。これもタカミムスビがミホツヒメをオオモノヌシの妻にするのと同じ、高天が原との関係を表す妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話です。
氏姓制下の氏族は大和朝廷に初めて服属した者を始祖としています。元来の物部氏はフツヌシを始祖としていたようですが、ニギハヤヒが神武天皇に服従したことで、ニギハヤヒが始祖になるようです。ニギハヤヒの東遷はフツヌシが近畿式銅鐸の分布圏を併合したことにより、物部氏が大和に地盤を持ったということです。
換言するとオオモノヌシの帰順は物部氏が行わせたということになります。そこに神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するのですが、大和朝廷が成立したことにより全ての部族が消滅し、部族の存続する根拠の青銅祭器は地上から姿を消します。そして青銅祭器による部族の宗廟祭祀に替わって、大和朝廷に初めて服属した者を始祖とする氏族の宗廟祭祀が行なわれるようになります。その神体の多くは銅鏡です。
津田左右吉は主として『古事記』と『日本書紀』の神話の違いから、神話は創作されたものであって史実ではないとしていますが、伝えた部族や氏族によって違いがあるのは当然のことです。『日本書紀』第二の一書の、言わば異伝とも言うべき伝承から、意外な事実が分かってきます。
2009年12月20日日曜日
大国主の国譲り その4
『日本書紀』第二の一書は大和のオオモノヌシ(大物主」とコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順してきたとしていますが、それに続いて物作りの忌部が定められたことが記されています。
すなわち紀国(紀伊)の忌部の遠祖、手置帆負神(たおきほおいのかみ)を作笠者(かさぬい)に定めた。彦狭知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬい)とする。天目一箇神(あめまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とする。天日鷲神(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆふつくり)とする。櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たますり)とする。(後略)
これを『日本書紀』第三の一書などでさらに詳しく見てみると次のようになります。重複しますが図を再度載せます。
讃岐の忌部の祖 手置帆負神
紀伊の忌部の祖 彦狭知神
筑紫・伊勢の忌部の祖 天目一箇神
阿波の忌部の祖 天日鷲神
出雲の忌部の祖 櫛明玉神
これを見ると筑紫・出雲の忌部を除くと近畿4式・5式銅鐸が分布する紀伊半島や四国東部の忌部になっています。そこで図では讃岐・阿波の忌部を⑥の徳島県徳島市の大麻比古神社で代表させてみました。
紀伊・伊勢の忌部についてはよく分からないので⑦の和歌山県日前・国縣宮、⑨の三重県伊勢神宮、⑩の愛知県熱田神宮をそれに代えて図示しています。銅鐸を配布した部族が併合されて大和朝廷が成立すると、その影響下で近畿4・5式、三遠式銅鐸の分布圏にこれらの神社が祭られるようになることを表そうとしています。
忌部といえば太玉命を祖とする忌部首氏との関係が考えられますが、『日本書紀』第三の一書を見ると別系統のように思われます。横田健一氏によると物部氏は祭祀に用いる物を調達・管理する氏族だったようですが、その物部氏の元で祭祀用具の製作に携わったのが、ここに見られる忌部のようです。
この神話のフツヌシ(経津主)の別名は、建布都神、または豊布都神ですが、布都神は物部氏の祀る剣神だと考えられていて、奈良県石上神宮でも祭られています。大場磐雄氏は物部氏を銅剣を使用した氏族だとしていますが、そうであれば瀬戸内に見られる平形銅剣を使用した物部氏が紀伊半島・四国東部を平定したことになります。
物部氏は「八十物部」と言われるように同族が多く、世情を見るのに巧みな氏族で、よく分からない面がありますが、私は元来の物部氏は奴国王の同族で銅剣を配布した部族ではなかったかと思っています。しかし九州で銅剣が造られなくなると銅矛を配布した部族に転じたと考えます。
四国には物部一族の分布が濃密ですが、通婚を強要し銅矛を配布することで勢力を侵食していったのでしょう。前述の「ヤマタノオロチ」も物部氏の進出かも知れません。その延長線上にあるのが出雲のオオナムチの国譲りであり、大和のオオモノヌシ・コトシロヌシの帰順だと考えます。国譲り神話は物部氏が存在しなければもっと変わっていたでしょう。
出雲の国譲りがあったのであれば、吉備の国譲りがあってもよさそうなものですが、出雲の国譲りの中に含まれてしまっているのでしょう。このことを表すために図では⑤の岡山県・吉備津神社と、Ⅲの岡山県赤磐町・石上布津之魂神社を加えてみましたが、これは国譲りとは直接の関係はありません。
すなわち紀国(紀伊)の忌部の遠祖、手置帆負神(たおきほおいのかみ)を作笠者(かさぬい)に定めた。彦狭知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬい)とする。天目一箇神(あめまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とする。天日鷲神(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆふつくり)とする。櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たますり)とする。(後略)
これを『日本書紀』第三の一書などでさらに詳しく見てみると次のようになります。重複しますが図を再度載せます。
讃岐の忌部の祖 手置帆負神
紀伊の忌部の祖 彦狭知神
筑紫・伊勢の忌部の祖 天目一箇神
阿波の忌部の祖 天日鷲神
出雲の忌部の祖 櫛明玉神
これを見ると筑紫・出雲の忌部を除くと近畿4式・5式銅鐸が分布する紀伊半島や四国東部の忌部になっています。そこで図では讃岐・阿波の忌部を⑥の徳島県徳島市の大麻比古神社で代表させてみました。
紀伊・伊勢の忌部についてはよく分からないので⑦の和歌山県日前・国縣宮、⑨の三重県伊勢神宮、⑩の愛知県熱田神宮をそれに代えて図示しています。銅鐸を配布した部族が併合されて大和朝廷が成立すると、その影響下で近畿4・5式、三遠式銅鐸の分布圏にこれらの神社が祭られるようになることを表そうとしています。
忌部といえば太玉命を祖とする忌部首氏との関係が考えられますが、『日本書紀』第三の一書を見ると別系統のように思われます。横田健一氏によると物部氏は祭祀に用いる物を調達・管理する氏族だったようですが、その物部氏の元で祭祀用具の製作に携わったのが、ここに見られる忌部のようです。
この神話のフツヌシ(経津主)の別名は、建布都神、または豊布都神ですが、布都神は物部氏の祀る剣神だと考えられていて、奈良県石上神宮でも祭られています。大場磐雄氏は物部氏を銅剣を使用した氏族だとしていますが、そうであれば瀬戸内に見られる平形銅剣を使用した物部氏が紀伊半島・四国東部を平定したことになります。
物部氏は「八十物部」と言われるように同族が多く、世情を見るのに巧みな氏族で、よく分からない面がありますが、私は元来の物部氏は奴国王の同族で銅剣を配布した部族ではなかったかと思っています。しかし九州で銅剣が造られなくなると銅矛を配布した部族に転じたと考えます。
四国には物部一族の分布が濃密ですが、通婚を強要し銅矛を配布することで勢力を侵食していったのでしょう。前述の「ヤマタノオロチ」も物部氏の進出かも知れません。その延長線上にあるのが出雲のオオナムチの国譲りであり、大和のオオモノヌシ・コトシロヌシの帰順だと考えます。国譲り神話は物部氏が存在しなければもっと変わっていたでしょう。
出雲の国譲りがあったのであれば、吉備の国譲りがあってもよさそうなものですが、出雲の国譲りの中に含まれてしまっているのでしょう。このことを表すために図では⑤の岡山県・吉備津神社と、Ⅲの岡山県赤磐町・石上布津之魂神社を加えてみましたが、これは国譲りとは直接の関係はありません。
2009年12月19日土曜日
大国主の国譲り その3
前回の投稿では銅矛を配布した部族が勢力を東進させ、銅鐸・銅剣を配布した部族を統合したと考え、その経過をイメージ図で示してみました。九州と畿内との関係については様々な説がありますが、私は神武天皇の東遷説、あるいは邪馬台国東遷説に従いたいと思っています。
しかしその実態は銅矛を配布した部族の東遷であろうと思います。前回に示した図はこのことを示したいと思って作図したものですが、この図では国譲りの最終目的地は出雲ではなくて畿内だということになって、従来の解釈とは違った国譲り神話になります。
このように考えるのは『日本書紀』第二の一書が、オオナムチ(大己貴)の国譲りの後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順したとしているからです。オオナムチとオオモノヌシが区別されています。少々長くなりますが抜粋してみます。
ここに大己貴神は答えて、「天神の言われることはもっともです。あえて言われることに叛くことはありません。私が治めてきた顕露の事(あらわのこと、政事)は皇孫が治めなさい。私は退いて幽事(かくれたること、祭事)を治めます」と言った。すなわち岐神(ふなとのかみ)を二神に薦めて「この者が私に代わって仕えます。私は此処から去ろうと思います」(中略)
故に経津主神は岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として各地を平定して回った。逆らう者は斬り殺し帰順するものは褒めた。この時に帰順した首渠(君長・賊首)は大物主神と事代主神である。すなわち八十万(やそよろず)の神を天高市(あめのたけち)に集めて、率いて天(高天が原、邪馬台国)に昇って服属に偽りのないことを申し述べた。(後略)
オオナムチの国譲りの後に、オオモノヌシとコトシロヌシが帰順したというのですが、大己貴神は神話の舞台が山陰地方の場合のオオクニヌシですが、大和が舞台の場合には大物主になります。多くの場合、両者が区別されることはありませんが、ここでは明確に区別されています。そしてコトシロヌシもオオナムチではなく、オオモノヌシと共に帰順しています。
これはオオモノヌシを祀る大神(大三輪)氏や、コトシロヌシを祭る加茂氏の伝承でしょう。出雲の国譲りとは別に、近畿式銅鐸の内でも最も新しい4式・5式銅鐸を持っていた宗族が帰順したことが語られていると考えます。
そのオオモノヌシは多くの神々を天高市(あめのたけち)に集めて帰順したとされていますが、これは大和国高市郡に由来するのでしょう。高市郡は今の橿原市・明日香村・大和高田市などですが、大和朝廷の存在した古墳時代はともかくも、弥生時代の高市郡がそれほど重要な場所のようには思えません。
天照大神が岩戸にこもると八百万の神が「天の安の河原」に集まって善後策を相談したとされています。また出雲の特殊神事の「出雲神在祭」でも、出雲に参集した神々は、斐伊川の河原にある万九千神社で饗宴を催した後に帰っていくとされています。部族によって擁立された王の統治権は弱く、事が起きると合議が行なわれたようです。そのための広場が河原にあったようです。
初期の纏向遺跡もそうした広場だったでしょう。私は天高市は纏向遺跡のことであり、常時は市場だが有事には合議の場になったと考えています。纏向遺跡に有力者が集められ、部族の統合に同意するかどうか討議されたが、出雲はすでに帰順しているのだから、我々も帰順しようとゆうことになったと考えます。
しかしその実態は銅矛を配布した部族の東遷であろうと思います。前回に示した図はこのことを示したいと思って作図したものですが、この図では国譲りの最終目的地は出雲ではなくて畿内だということになって、従来の解釈とは違った国譲り神話になります。
このように考えるのは『日本書紀』第二の一書が、オオナムチ(大己貴)の国譲りの後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順したとしているからです。オオナムチとオオモノヌシが区別されています。少々長くなりますが抜粋してみます。
ここに大己貴神は答えて、「天神の言われることはもっともです。あえて言われることに叛くことはありません。私が治めてきた顕露の事(あらわのこと、政事)は皇孫が治めなさい。私は退いて幽事(かくれたること、祭事)を治めます」と言った。すなわち岐神(ふなとのかみ)を二神に薦めて「この者が私に代わって仕えます。私は此処から去ろうと思います」(中略)
故に経津主神は岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として各地を平定して回った。逆らう者は斬り殺し帰順するものは褒めた。この時に帰順した首渠(君長・賊首)は大物主神と事代主神である。すなわち八十万(やそよろず)の神を天高市(あめのたけち)に集めて、率いて天(高天が原、邪馬台国)に昇って服属に偽りのないことを申し述べた。(後略)
オオナムチの国譲りの後に、オオモノヌシとコトシロヌシが帰順したというのですが、大己貴神は神話の舞台が山陰地方の場合のオオクニヌシですが、大和が舞台の場合には大物主になります。多くの場合、両者が区別されることはありませんが、ここでは明確に区別されています。そしてコトシロヌシもオオナムチではなく、オオモノヌシと共に帰順しています。
これはオオモノヌシを祀る大神(大三輪)氏や、コトシロヌシを祭る加茂氏の伝承でしょう。出雲の国譲りとは別に、近畿式銅鐸の内でも最も新しい4式・5式銅鐸を持っていた宗族が帰順したことが語られていると考えます。
そのオオモノヌシは多くの神々を天高市(あめのたけち)に集めて帰順したとされていますが、これは大和国高市郡に由来するのでしょう。高市郡は今の橿原市・明日香村・大和高田市などですが、大和朝廷の存在した古墳時代はともかくも、弥生時代の高市郡がそれほど重要な場所のようには思えません。
天照大神が岩戸にこもると八百万の神が「天の安の河原」に集まって善後策を相談したとされています。また出雲の特殊神事の「出雲神在祭」でも、出雲に参集した神々は、斐伊川の河原にある万九千神社で饗宴を催した後に帰っていくとされています。部族によって擁立された王の統治権は弱く、事が起きると合議が行なわれたようです。そのための広場が河原にあったようです。
初期の纏向遺跡もそうした広場だったでしょう。私は天高市は纏向遺跡のことであり、常時は市場だが有事には合議の場になったと考えています。纏向遺跡に有力者が集められ、部族の統合に同意するかどうか討議されたが、出雲はすでに帰順しているのだから、我々も帰順しようとゆうことになったと考えます。
2009年12月18日金曜日
大国主の国譲り その2
オオクニヌシの国譲りとは、銅鐸を配布した部族の支配権が台与の後の男王に譲り渡されたということですが、図は銅矛を配布した部族が勢力を東進させて銅鐸を配布した部族を統合していく経過を、後世の著名神社の位置からイメージしています。
『日本書紀』本文では物部氏の祀るフツヌシ(経津主)と中臣氏の祀るタケミカズチ(武甕槌)が出雲に派遣されて強談判を行うことになっていますが、国譲り神話にしばしばこの2神が登場してきます。このことからフツヌシを祀る物部氏系の神社の位置からイメージしています。
タケミカズチを祀る中臣氏との関係も示すべきであろうと思いますが、中臣氏の祀る神社は少ないので、物部氏の祀る神社のみを示しています。ローマ数字は物部氏の祭る神社であり、英数字は非物部系神社です。
Ⅰ 島根県太田市 物部神社、 大国主の国譲りと関係する?
Ⅱ 愛媛県大三島 大山祗神社、 物部氏の伝承
Ⅲ 岡山県赤磐町 石上布津之魂神社 ヤマタノオロチとの関係
Ⅳ 奈良県天理市 石上神宮 神武天皇東征のニギハヤヒ
① 長崎県対馬 海神神社 ウガヤフキアエズとの関係
② 福岡県 住吉神社 邪馬台国と関係
③ 大分県 宇佐神宮 神武天皇東征の脚一騰宮の伝承
④ 島根県 出雲大社 大国主の国譲り
⑤ 岡山県 吉備津神社 神武天皇東征の高島宮の伝承
⑥ 徳島県 大麻比古神社 阿波忌部の服属
⑦ 和歌山県 日前・国縣宮 神体の鏡の由来
⑧ 奈良県 大神神社 大物主の服属
⑨ 三重県 伊勢神宮 八咫鏡の由来
⑩ 愛知県 熱田神宮 草薙剣の由来
図は私の年代観の弥生時代後期後半から古墳時代前期(180~360年)にわたる、相当に長期間をイメージしています。概観を言うと九州北半の①~③は神武天皇の東征が始まるまでをイメージし、中国地方と瀬戸内の④~⑥は大国主の国譲りがあったことをイメージし、近畿地方の⑦~⑩は神武天皇の東征で大和朝廷が成立し、大和が政治の中心になったことをイメージしています。
図では中国・四国北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡が示しているように青銅祭器の流入はなかったものの、前段階の中広形銅矛や銅剣・銅鐸が分布しています。私は国譲りのあったのは250年代だと考えていますが、これらの青銅祭器の祭祀が国譲りまで続いたかどうかが問題です。
鳥取県青谷上寺地遺跡、及び出雲市青木遺跡で近畿4式、または5式銅鐸の「飾り耳」と呼ばれている部分が出土しています。銅鐸片については鋳造の原材料だとか、アクセサリーだとか言われていますが、銅鏡片がそうであるように完形の銅鐸と同じ性格を持っていると考えるのがよいでしょう。
出雲市青木遺跡遺跡では副葬品として出土しており、完形の銅鐸が集団の祭祀具であったのに対し、銅鐸片は個人が祀ったように思います。これは山陰地方の銅鐸の祭祀は続いていたのであり、荒神谷・加茂岩倉遺跡は国譲りが銅鐸を配布した部族だけでなく、銅剣を配布した部族にも及んだことを示していると考えています。
『日本書紀』本文では物部氏の祀るフツヌシ(経津主)と中臣氏の祀るタケミカズチ(武甕槌)が出雲に派遣されて強談判を行うことになっていますが、国譲り神話にしばしばこの2神が登場してきます。このことからフツヌシを祀る物部氏系の神社の位置からイメージしています。
タケミカズチを祀る中臣氏との関係も示すべきであろうと思いますが、中臣氏の祀る神社は少ないので、物部氏の祀る神社のみを示しています。ローマ数字は物部氏の祭る神社であり、英数字は非物部系神社です。
Ⅰ 島根県太田市 物部神社、 大国主の国譲りと関係する?
Ⅱ 愛媛県大三島 大山祗神社、 物部氏の伝承
Ⅲ 岡山県赤磐町 石上布津之魂神社 ヤマタノオロチとの関係
Ⅳ 奈良県天理市 石上神宮 神武天皇東征のニギハヤヒ
① 長崎県対馬 海神神社 ウガヤフキアエズとの関係
② 福岡県 住吉神社 邪馬台国と関係
③ 大分県 宇佐神宮 神武天皇東征の脚一騰宮の伝承
④ 島根県 出雲大社 大国主の国譲り
⑤ 岡山県 吉備津神社 神武天皇東征の高島宮の伝承
⑥ 徳島県 大麻比古神社 阿波忌部の服属
⑦ 和歌山県 日前・国縣宮 神体の鏡の由来
⑧ 奈良県 大神神社 大物主の服属
⑨ 三重県 伊勢神宮 八咫鏡の由来
⑩ 愛知県 熱田神宮 草薙剣の由来
図は私の年代観の弥生時代後期後半から古墳時代前期(180~360年)にわたる、相当に長期間をイメージしています。概観を言うと九州北半の①~③は神武天皇の東征が始まるまでをイメージし、中国地方と瀬戸内の④~⑥は大国主の国譲りがあったことをイメージし、近畿地方の⑦~⑩は神武天皇の東征で大和朝廷が成立し、大和が政治の中心になったことをイメージしています。
図では中国・四国北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡が示しているように青銅祭器の流入はなかったものの、前段階の中広形銅矛や銅剣・銅鐸が分布しています。私は国譲りのあったのは250年代だと考えていますが、これらの青銅祭器の祭祀が国譲りまで続いたかどうかが問題です。
鳥取県青谷上寺地遺跡、及び出雲市青木遺跡で近畿4式、または5式銅鐸の「飾り耳」と呼ばれている部分が出土しています。銅鐸片については鋳造の原材料だとか、アクセサリーだとか言われていますが、銅鏡片がそうであるように完形の銅鐸と同じ性格を持っていると考えるのがよいでしょう。
出雲市青木遺跡遺跡では副葬品として出土しており、完形の銅鐸が集団の祭祀具であったのに対し、銅鐸片は個人が祀ったように思います。これは山陰地方の銅鐸の祭祀は続いていたのであり、荒神谷・加茂岩倉遺跡は国譲りが銅鐸を配布した部族だけでなく、銅剣を配布した部族にも及んだことを示していると考えています。
2009年12月17日木曜日
大国主の国譲り その1
卑弥呼の死後に起きた千余人が殺されるという争乱は、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でした。神話ではこれが天照大神の天の岩戸こもりとして語られていますが、争乱の原因はスサノオ(面土国王)にあるとされ、追放されたことになっています。
広形銅戈が激減していることから分かるように銅戈を配布した部族は劣勢でしたから、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、面土国王が悪役にされたのです。その結果、台与が共立されますが、面土国王と銅戈を配布した部族という対立する勢力が消滅したことにより女王制は有名無実になります。
そこで台与を退位させて男王を立て、倭人を統一しようという動きが出てきます。これを画策したのが大倭(高皇産霊尊)や難升米(思金神)たちでした。倭人を統一するとなると、思い立ったからといって直ぐに実行できる性質のものではありませんが、その基礎はすでに出来上がっていました。
それには2つの大きな要素があると考えています。その一つは卑弥呼の「親魏倭王」という魏の爵号です。台与は卑弥呼の「宗女」だとされていますから、台与もまた親魏倭王に冊封されたでしょう。
周代の諸侯(後の内臣の王)は周王の住む城からの距離に応じて毎年、二年毎、3年毎というように定期的に貢納することを義務付けられていました。卑弥呼は即位後ほぼ隔年に遣使していますが、これは周王の居城から1500~2000里以内を領土とする「旬服」に位置づけられている諸候に義務付けられた頻度に当たります。
卑弥呼の「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる高位で、他には大月氏国(クシャーン王国)のヴァースデーヴァ王が「親魏大月氏王」に任ぜられただけでした。卑弥呼は魏皇帝の執務代行者として、倭人の有力者に魏の官職を授けることができたと考えられます。
このことについては「邪馬台国と神話 その3」で述べていますので参考にして下さい。これは部族によって擁立された王と卑弥呼の親魏倭王という、二重のヘゲモニー(覇権・主導権)が存在しているということです。後継者の台与が倭人を統一したいと言えば、それは魏皇帝が言ったことになります。
冊封体制の職約(義務)によって、部族の擁立した王は稍(六〇〇里四方)以上を支配することはできませんが、親魏倭王はそれらの王を超越した存在でした。親魏倭王の卑弥呼・台与がいたことが、弥生時代の部族制社会から古墳時代の氏姓制社会への転換の契機になりました。
もう一つの基礎は青銅祭器を配布する巨大な部族が存在していたことです。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしたものですが、卑弥呼・台与の時代に配布された銅矛と銅鐸の分布が示されています。
北部九州から四国西部に銅矛が分布し、近畿から四国東南部に銅鐸が分布しています。両者は四国南部で接触していますが、これは条件が整えば何時でも統合できる状態になっていたということです。
倭人を統一するには銅矛・銅鐸を配布した部族の族長に、その支配権を放棄させればよいのです。一般にオオクニヌシの国譲りといえば出雲の国を譲り渡したということだと考えられていますが、実は銅鐸を配布した部族の支配権を、台与の後の男王に譲り渡したということなのです。
オオクニヌシには多くの別名がありますが同時に稍出雲(中国・四国地方)の王でもあります。図では中国地方と四国の北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡に見られるように、ここには銅矛・銅鐸に加えて銅剣も見られます。オオクニヌシの別名を八千戈神とも言いますが、これは銅剣のことを言っているのでしょう。
出雲の王が部族の統一に同意したことで銅矛・銅鐸を配布した部族も、また銅剣を配布した部族も部族も統一に同意したのでしょう。国譲り神話の舞台が出雲とされているのはこのためでしょう。
広形銅戈が激減していることから分かるように銅戈を配布した部族は劣勢でしたから、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、面土国王が悪役にされたのです。その結果、台与が共立されますが、面土国王と銅戈を配布した部族という対立する勢力が消滅したことにより女王制は有名無実になります。
そこで台与を退位させて男王を立て、倭人を統一しようという動きが出てきます。これを画策したのが大倭(高皇産霊尊)や難升米(思金神)たちでした。倭人を統一するとなると、思い立ったからといって直ぐに実行できる性質のものではありませんが、その基礎はすでに出来上がっていました。
それには2つの大きな要素があると考えています。その一つは卑弥呼の「親魏倭王」という魏の爵号です。台与は卑弥呼の「宗女」だとされていますから、台与もまた親魏倭王に冊封されたでしょう。
周代の諸侯(後の内臣の王)は周王の住む城からの距離に応じて毎年、二年毎、3年毎というように定期的に貢納することを義務付けられていました。卑弥呼は即位後ほぼ隔年に遣使していますが、これは周王の居城から1500~2000里以内を領土とする「旬服」に位置づけられている諸候に義務付けられた頻度に当たります。
卑弥呼の「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる高位で、他には大月氏国(クシャーン王国)のヴァースデーヴァ王が「親魏大月氏王」に任ぜられただけでした。卑弥呼は魏皇帝の執務代行者として、倭人の有力者に魏の官職を授けることができたと考えられます。
このことについては「邪馬台国と神話 その3」で述べていますので参考にして下さい。これは部族によって擁立された王と卑弥呼の親魏倭王という、二重のヘゲモニー(覇権・主導権)が存在しているということです。後継者の台与が倭人を統一したいと言えば、それは魏皇帝が言ったことになります。
冊封体制の職約(義務)によって、部族の擁立した王は稍(六〇〇里四方)以上を支配することはできませんが、親魏倭王はそれらの王を超越した存在でした。親魏倭王の卑弥呼・台与がいたことが、弥生時代の部族制社会から古墳時代の氏姓制社会への転換の契機になりました。
もう一つの基礎は青銅祭器を配布する巨大な部族が存在していたことです。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしたものですが、卑弥呼・台与の時代に配布された銅矛と銅鐸の分布が示されています。
北部九州から四国西部に銅矛が分布し、近畿から四国東南部に銅鐸が分布しています。両者は四国南部で接触していますが、これは条件が整えば何時でも統合できる状態になっていたということです。
倭人を統一するには銅矛・銅鐸を配布した部族の族長に、その支配権を放棄させればよいのです。一般にオオクニヌシの国譲りといえば出雲の国を譲り渡したということだと考えられていますが、実は銅鐸を配布した部族の支配権を、台与の後の男王に譲り渡したということなのです。
オオクニヌシには多くの別名がありますが同時に稍出雲(中国・四国地方)の王でもあります。図では中国地方と四国の北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡に見られるように、ここには銅矛・銅鐸に加えて銅剣も見られます。オオクニヌシの別名を八千戈神とも言いますが、これは銅剣のことを言っているのでしょう。
出雲の王が部族の統一に同意したことで銅矛・銅鐸を配布した部族も、また銅剣を配布した部族も部族も統一に同意したのでしょう。国譲り神話の舞台が出雲とされているのはこのためでしょう。
2009年12月14日月曜日
少名彦那と大物主 その2
『 古事記』では国作りの途中でスクナヒコナは常世の国に行ってしまい、オオクニヌシ(大国主)が嘆いているとオオモノヌシ(大物主)が現れて共に国造りをすることになっています。ここでオオクニヌシと「双生児的な関係」、あるいは「第2の自我」であるスクナヒコナは、オオモノヌシと入れ替わります。言うまでもなくオオモノヌシは奈良県大神神社の祭神で、纏向遺跡にとっては神奈備山とも言うべき三輪山に祀られている神です。
以前には銅鐸分布圏と利器形祭器分布圏とは対立しており九州には銅鐸は無いと考えられていましたが、最近では九州に古いタイプの銅鐸があることが知られるようになって来ました。銅鐸もやはり九州が起源であり、部族の支配権の移動に伴って分布圏も移動したようです。
近畿式銅鐸が造られ始めて、銅鐸の祭祀の中心は近畿地方に移ります。中国地方(稍P)の銅鐸を配布した部族は、初期には荒神谷の6個や福田形のような最古式の銅鐸を持っていた宗族が支配していたが、やがて近畿式銅鐸を持っていた宗族に移るようです。
それは一世紀末ころで北部九州では奴国王から面土国王に王権の移譲があり、また中国地方では荒神谷の中細形銅剣c類が造られたことにより、部族間のパワーバランスに変化があったことに関係するのでしょう。
スクナヒコナが常世の国に行ったというのは、一見すると最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだということのように思えますが、そうではなさそうです。考古学では青銅祭器が造られなくなった時点と祭祀が終わった時点とは、得てして同じだと考えられ勝ちですが、造られなくなった時と祭祀が終わった時とには時間差があるはずです。
荒神谷遺跡では最古式の銅鐸と中広形銅矛b類が同じ埋納坑から出土しています。写真は出土状況を再現したものですが、同時に埋められたことが分かります。銅鐸の祭祀は続いており最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだわけではありません。
荒神谷遺跡では銅剣と銅矛・銅鐸が7メートルほど離れた別の埋納坑から出土しました。銅鐸6個は最古式の特徴を持ち、九州で造られたことを考えてもよいと思います。銅矛は明らかに九州で造られたもので、それが同じ埋納坑から出土しています。
出雲で造られたとも言われている銅剣は別の埋納坑に埋められていましたが、埋納坑が別になっているのは、部族連合国家としての出雲(稍P)が、九州(稍M)系宗族と畿内(稍O)系宗族に分立していたということでしょう。
近畿式銅鐸が荒神谷遺跡にはなく、加茂岩倉遺跡で出土していることもこのことを表しているようです。私は荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の青銅器はオオクニヌシの国譲りの時に埋納されたと考えますが、荒神谷に埋納された時点では加茂岩倉の近畿式銅鐸を持っていた宗族は国譲りに同意していなかったようです。
『日本書紀』第二の一書はオオナムチ(オオクニヌシの別名)が国譲りした後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシとコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順してきたとしています。加茂岩倉の銅鐸はこの時に埋納されたようで、荒神谷と加茂岩倉にはわずかに時間差があると思われます。
オオモノヌシはオオクニヌシの別名とされ、オオクニヌシの子がコトシロヌシだと考えられていますが、大神氏(大三輪氏)の祖がオオモノヌシであり、加茂氏の祖がコトシロヌシで、両者は共に銅鐸を祀る宗族ではあるけれど父子というわけではないようです。
オオクニヌシの国造りのイメージは、西日本が律令制出雲国を中心にして統一されたように思えますが、これは銅鐸を配布した部族の神話であり、その内部事情が語られているようです。
以前には銅鐸分布圏と利器形祭器分布圏とは対立しており九州には銅鐸は無いと考えられていましたが、最近では九州に古いタイプの銅鐸があることが知られるようになって来ました。銅鐸もやはり九州が起源であり、部族の支配権の移動に伴って分布圏も移動したようです。
近畿式銅鐸が造られ始めて、銅鐸の祭祀の中心は近畿地方に移ります。中国地方(稍P)の銅鐸を配布した部族は、初期には荒神谷の6個や福田形のような最古式の銅鐸を持っていた宗族が支配していたが、やがて近畿式銅鐸を持っていた宗族に移るようです。
それは一世紀末ころで北部九州では奴国王から面土国王に王権の移譲があり、また中国地方では荒神谷の中細形銅剣c類が造られたことにより、部族間のパワーバランスに変化があったことに関係するのでしょう。
スクナヒコナが常世の国に行ったというのは、一見すると最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだということのように思えますが、そうではなさそうです。考古学では青銅祭器が造られなくなった時点と祭祀が終わった時点とは、得てして同じだと考えられ勝ちですが、造られなくなった時と祭祀が終わった時とには時間差があるはずです。
荒神谷遺跡では最古式の銅鐸と中広形銅矛b類が同じ埋納坑から出土しています。写真は出土状況を再現したものですが、同時に埋められたことが分かります。銅鐸の祭祀は続いており最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだわけではありません。
荒神谷遺跡では銅剣と銅矛・銅鐸が7メートルほど離れた別の埋納坑から出土しました。銅鐸6個は最古式の特徴を持ち、九州で造られたことを考えてもよいと思います。銅矛は明らかに九州で造られたもので、それが同じ埋納坑から出土しています。
出雲で造られたとも言われている銅剣は別の埋納坑に埋められていましたが、埋納坑が別になっているのは、部族連合国家としての出雲(稍P)が、九州(稍M)系宗族と畿内(稍O)系宗族に分立していたということでしょう。
近畿式銅鐸が荒神谷遺跡にはなく、加茂岩倉遺跡で出土していることもこのことを表しているようです。私は荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の青銅器はオオクニヌシの国譲りの時に埋納されたと考えますが、荒神谷に埋納された時点では加茂岩倉の近畿式銅鐸を持っていた宗族は国譲りに同意していなかったようです。
『日本書紀』第二の一書はオオナムチ(オオクニヌシの別名)が国譲りした後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシとコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順してきたとしています。加茂岩倉の銅鐸はこの時に埋納されたようで、荒神谷と加茂岩倉にはわずかに時間差があると思われます。
オオモノヌシはオオクニヌシの別名とされ、オオクニヌシの子がコトシロヌシだと考えられていますが、大神氏(大三輪氏)の祖がオオモノヌシであり、加茂氏の祖がコトシロヌシで、両者は共に銅鐸を祀る宗族ではあるけれど父子というわけではないようです。
オオクニヌシの国造りのイメージは、西日本が律令制出雲国を中心にして統一されたように思えますが、これは銅鐸を配布した部族の神話であり、その内部事情が語られているようです。
2009年12月12日土曜日
少名彦那と大物主 その1
根の堅洲国のスサノオからさまざまな試練を受けたオオナムチは、鼠やスセリビメの助けを借りてこれを乗り切り、兄弟の八十神を追い伏せ、追い払って国造りを始めます。国造りを助けたのがスクナヒコナ(少名彦那)とオオモノヌシ(大物主)ですが、スクナヒコナについて本居宣長は『古事記伝』で次のように述べています。
此ノ御名の須久那は、只少の意のみとも聞こえ、又名の字を添えて書けるは、大名持の大名に対へるか
スクナとは一寸法師のような小さな神という意味か、あるいはオオクニヌシの別名であるオオナモチ(大名持)のオオナに対してスクナ(少名)というのであろうとしています。また両者の双生児的な関係が述べられているとする説や、スクナヒコナにオオクニヌシの「第2の自我」を見ることができるとする説もあります。
私はこれらの説に概ね同意したいと思いますが、青銅祭器と神話は相関々係にあると考えるので、「少」については「小さな銅鐸」のことだと理解しています。オオクニヌシは銅鐸を配布した部族ですから、スクナヒコナは銅鐸を祀っていた宗族だと考えるのです。
初期の菱環鈕式銅鐸が24センチ程度であるのに対して、滋賀県小篠原出土の突線鈕5式銅鐸は135センチもあり、その差は110センチにもなります。図は同縮尺で比較したものですが、とても同じ銅鐸とは思えないほどの違いで、その違いを小さな神だと語り伝えていると考えます。
その小さな銅鐸の中に「福田形」という特殊な形態を持つ一群がありますが、この福田形銅鐸を持っていた宗族がスクナヒコナのようです。その福田形銅鐸は5個が出土しています。図は私の想定している福田形銅鐸の移動経路です。
考えられることは福田形銅鐸を持っていた宗族は北部九州(女王国)の宗族と同族関係にあったということです。それに対し近畿式銅鐸は近畿地方で造られたものであり、これを持っていた宗族は近畿地方の宗族と同族関係があったようです。つまり青銅祭器を配布した部族には幾つもの分派があったのであり、銅鐸の場合には東海地方西部にも三遠式銅鐸を持っていた分派がありました。
此ノ御名の須久那は、只少の意のみとも聞こえ、又名の字を添えて書けるは、大名持の大名に対へるか
スクナとは一寸法師のような小さな神という意味か、あるいはオオクニヌシの別名であるオオナモチ(大名持)のオオナに対してスクナ(少名)というのであろうとしています。また両者の双生児的な関係が述べられているとする説や、スクナヒコナにオオクニヌシの「第2の自我」を見ることができるとする説もあります。
私はこれらの説に概ね同意したいと思いますが、青銅祭器と神話は相関々係にあると考えるので、「少」については「小さな銅鐸」のことだと理解しています。オオクニヌシは銅鐸を配布した部族ですから、スクナヒコナは銅鐸を祀っていた宗族だと考えるのです。
初期の菱環鈕式銅鐸が24センチ程度であるのに対して、滋賀県小篠原出土の突線鈕5式銅鐸は135センチもあり、その差は110センチにもなります。図は同縮尺で比較したものですが、とても同じ銅鐸とは思えないほどの違いで、その違いを小さな神だと語り伝えていると考えます。
その小さな銅鐸の中に「福田形」という特殊な形態を持つ一群がありますが、この福田形銅鐸を持っていた宗族がスクナヒコナのようです。その福田形銅鐸は5個が出土しています。図は私の想定している福田形銅鐸の移動経路です。
②佐賀県吉野ヶ里銅鐸
④広島県福田木の宗山銅鐸
⑤島根県木幡家銅鐸
⑥伝伯耆出土銅鐸
⑦岡山県足守銅鐸
佐賀県吉野ヶ里銅鐸を除く4個が中国地方の中央部で出土していることに注意が必要で、付近はヤマタノオロチやスクナヒコナの伝承地になっています。私は『風土記』に見えるスクナヒコナの伝承から、播磨国神前郡(兵庫県神前郡)と③の伊予国温泉郡(愛媛県松山市付近)にも福田形銅鐸があると見ています。
その中間の40センチ前後の大きさの近畿2式、近畿3式銅鐸を持っていた宗族がオオモノヌシのようで、これが書によってはコトシロヌシ(事代主)になることもあるようです。大神氏(大三輪氏)の伝承の場合にはオオモノヌシになり、加茂氏の伝承の場合にはコトシロヌシになるようです。
福田形銅鐸は佐賀県吉野ヶ里でも出土しており、その鋳型は九州以外では出土せず佐賀県安永田、福岡県赤穂ノ浦(図の①)で出土していますから、福田形銅鐸は九州で造られ中国地方に運ばれてきたと考えてよいでしょう。
④広島県福田木の宗山銅鐸
⑤島根県木幡家銅鐸
⑥伝伯耆出土銅鐸
⑦岡山県足守銅鐸
佐賀県吉野ヶ里銅鐸を除く4個が中国地方の中央部で出土していることに注意が必要で、付近はヤマタノオロチやスクナヒコナの伝承地になっています。私は『風土記』に見えるスクナヒコナの伝承から、播磨国神前郡(兵庫県神前郡)と③の伊予国温泉郡(愛媛県松山市付近)にも福田形銅鐸があると見ています。
その中間の40センチ前後の大きさの近畿2式、近畿3式銅鐸を持っていた宗族がオオモノヌシのようで、これが書によってはコトシロヌシ(事代主)になることもあるようです。大神氏(大三輪氏)の伝承の場合にはオオモノヌシになり、加茂氏の伝承の場合にはコトシロヌシになるようです。
福田形銅鐸は佐賀県吉野ヶ里でも出土しており、その鋳型は九州以外では出土せず佐賀県安永田、福岡県赤穂ノ浦(図の①)で出土していますから、福田形銅鐸は九州で造られ中国地方に運ばれてきたと考えてよいでしょう。
そして『古事記』はスクナヒコナを神産巣日神の子とし、『日本書紀』第六の一書は高皇産霊尊の子だとしていますが、先述のように神産巣日神も高皇産霊尊も高天が原の神です。高天が原は邪馬台国ですが、最古式銅鐸と邪馬台国が結びつきます。
考えられることは福田形銅鐸を持っていた宗族は北部九州(女王国)の宗族と同族関係にあったということです。それに対し近畿式銅鐸は近畿地方で造られたものであり、これを持っていた宗族は近畿地方の宗族と同族関係があったようです。つまり青銅祭器を配布した部族には幾つもの分派があったのであり、銅鐸の場合には東海地方西部にも三遠式銅鐸を持っていた分派がありました。
2009年12月7日月曜日
八岐大蛇 その4
スサノオは面土国王ですが、銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になりました。スサノオは銅戈を配布した部族でもあります。そのスサノオは出雲でも活動しますが出雲の銅戈は1本だけで、その活動ぶりと出土した銅戈数はアンバランスです。
ところが大阪湾沿岸には「大阪湾形」と呼ばれる銅戈が見られ、出雲神話のスサノオには大阪湾形銅戈を配布した部族が含まれていることが考えられます。和歌山県有田市山地では大阪湾形銅戈6本が出土しており、近くにはスサノオの子の五十猛を祭る伊太祁曾神社があり、樹種を蒔いたという伝承があります。また和歌山県内には熊野本宮大社を始めとして多くのスサノオ伝承があります。
長野県中野市の柳沢遺跡で銅鐸5個と大阪湾形銅戈6本が、九州形銅戈1本と共に出土して注目されていますが、大阪湾形銅戈6本の中には和歌山県有田市山地のものと同じ斜格子文、複合鋸歯文を持つものが見られて、両遺跡に関係のあることが考えられています。
信濃の九州形銅戈はこれで2本になりましたが、2本の九州形銅戈は面土国王と直接の関係があり、6本の大阪湾形銅戈は大阪湾沿岸を介した間接の関係が有ったことが考えられます。信濃にはスサノオの伝承はないようですが、諏訪大社の祭神タケミナカタを筑前宗像と結びつける説があります。
これらの事を見ると神話の出雲は近畿から北陸にかけての地域も含まれていると考えるのがよさそうです。つまり倭人伝に見える、女王国の東の海を渡った所にある「倭種の国」が、神話では出雲として捉えられているのです。私は倭人伝に見える「船行一年」を面土国から本州の東端に至るのに 一年を要するのだと理解しています。
兵庫県神戸市桜ヶ岡遺跡の銅鐸14個と共に出土した大阪湾形銅戈7本や、神戸市保久良遺跡の1本などについてはスサノオとの関係が見られませんが、『播磨国風土記』に見られるようにアシハラシコオ(オオクニヌシの別名)や天之日矛・伊和大神の伝承のために消滅してしまったことが考えられます。
長野県柳沢、神戸市桜ヶ岡のいずれも銅鐸と共伴しており、そこは近畿式銅鐸の分布する地域でもあります。大場磐雄氏は『銅鐸私考』で、銅鐸を使用した氏族を大神氏(大三輪氏)・加茂氏などの「出雲神族」だとしています。出雲神族とはオオクニヌシに系譜が連なるという伝承を持っている氏族という意味で、銅鐸の分布している地域にはオオクニヌシの伝承があります。
倭国大乱は近畿・北陸地方にまで波及していった可能性があります。この地方にはヤマタノオロチの伝承がないので推察になりますが、もしも争乱が起きたのであれば、それは近畿式銅鐸を配布した部族と大阪湾形銅戈を配布した部族の対立であったはずです。
このような推察をするのは紀伊(和歌山県)が『古事記』でオオナムチ(オオクニヌシの別名)がスサノオの娘のスセリビメを妻問い(求婚)する神話の舞台になっているからです。神話の舞台は「木の国」となっていますが、紀伊のことです。
根の堅洲国のスサノオからさまざまな試練を受けたオオナムチは、鼠やスセリビメの助けを借りてこれを乗り切り、スセリビメと生大刀・生弓矢・天の沼琴を手に入れ、大国主になるという物語です。出雲のヤマタノオロチの神話はスサノオがクシイナタビメを妻問いしますが、紀伊ではオオナムチがスサノオの娘を妻問いしています。
私は銅鐸分布圏では大きな争乱は起きなかったと考えていますが、オオナムチがスサノオから試練を受けることが、倭国大乱が紀伊や信濃に波及したことを表していると考えます。その結果、近畿式銅鐸を配布した部族が王を擁立しますが、その王がオオクニヌシとされるようになると考えます。
こうして『日本書紀』本文に見えるオオクニヌシをスサノオの児とする伝承が生まれたと考えますが、これは銅鐸を配布した部族の伝承で、他の一書や『古事記』の六世孫とするものは銅矛・銅剣を配布した部族の伝承でしょう。銅剣を配布した部族の伝承だと考えるのがよさそうです。
ところが大阪湾沿岸には「大阪湾形」と呼ばれる銅戈が見られ、出雲神話のスサノオには大阪湾形銅戈を配布した部族が含まれていることが考えられます。和歌山県有田市山地では大阪湾形銅戈6本が出土しており、近くにはスサノオの子の五十猛を祭る伊太祁曾神社があり、樹種を蒔いたという伝承があります。また和歌山県内には熊野本宮大社を始めとして多くのスサノオ伝承があります。
長野県中野市の柳沢遺跡で銅鐸5個と大阪湾形銅戈6本が、九州形銅戈1本と共に出土して注目されていますが、大阪湾形銅戈6本の中には和歌山県有田市山地のものと同じ斜格子文、複合鋸歯文を持つものが見られて、両遺跡に関係のあることが考えられています。
信濃の九州形銅戈はこれで2本になりましたが、2本の九州形銅戈は面土国王と直接の関係があり、6本の大阪湾形銅戈は大阪湾沿岸を介した間接の関係が有ったことが考えられます。信濃にはスサノオの伝承はないようですが、諏訪大社の祭神タケミナカタを筑前宗像と結びつける説があります。
これらの事を見ると神話の出雲は近畿から北陸にかけての地域も含まれていると考えるのがよさそうです。つまり倭人伝に見える、女王国の東の海を渡った所にある「倭種の国」が、神話では出雲として捉えられているのです。私は倭人伝に見える「船行一年」を面土国から本州の東端に至るのに 一年を要するのだと理解しています。
兵庫県神戸市桜ヶ岡遺跡の銅鐸14個と共に出土した大阪湾形銅戈7本や、神戸市保久良遺跡の1本などについてはスサノオとの関係が見られませんが、『播磨国風土記』に見られるようにアシハラシコオ(オオクニヌシの別名)や天之日矛・伊和大神の伝承のために消滅してしまったことが考えられます。
長野県柳沢、神戸市桜ヶ岡のいずれも銅鐸と共伴しており、そこは近畿式銅鐸の分布する地域でもあります。大場磐雄氏は『銅鐸私考』で、銅鐸を使用した氏族を大神氏(大三輪氏)・加茂氏などの「出雲神族」だとしています。出雲神族とはオオクニヌシに系譜が連なるという伝承を持っている氏族という意味で、銅鐸の分布している地域にはオオクニヌシの伝承があります。
倭国大乱は近畿・北陸地方にまで波及していった可能性があります。この地方にはヤマタノオロチの伝承がないので推察になりますが、もしも争乱が起きたのであれば、それは近畿式銅鐸を配布した部族と大阪湾形銅戈を配布した部族の対立であったはずです。
このような推察をするのは紀伊(和歌山県)が『古事記』でオオナムチ(オオクニヌシの別名)がスサノオの娘のスセリビメを妻問い(求婚)する神話の舞台になっているからです。神話の舞台は「木の国」となっていますが、紀伊のことです。
根の堅洲国のスサノオからさまざまな試練を受けたオオナムチは、鼠やスセリビメの助けを借りてこれを乗り切り、スセリビメと生大刀・生弓矢・天の沼琴を手に入れ、大国主になるという物語です。出雲のヤマタノオロチの神話はスサノオがクシイナタビメを妻問いしますが、紀伊ではオオナムチがスサノオの娘を妻問いしています。
私は銅鐸分布圏では大きな争乱は起きなかったと考えていますが、オオナムチがスサノオから試練を受けることが、倭国大乱が紀伊や信濃に波及したことを表していると考えます。その結果、近畿式銅鐸を配布した部族が王を擁立しますが、その王がオオクニヌシとされるようになると考えます。
こうして『日本書紀』本文に見えるオオクニヌシをスサノオの児とする伝承が生まれたと考えますが、これは銅鐸を配布した部族の伝承で、他の一書や『古事記』の六世孫とするものは銅矛・銅剣を配布した部族の伝承でしょう。銅剣を配布した部族の伝承だと考えるのがよさそうです。
2009年12月5日土曜日
八岐大蛇 その3
2世紀末の倭国大乱を境にして、武器形祭器は中広形から広形に変わりますが、それにつれて女王国(稍P)では銅戈が激減し銅矛が増加しています。卑弥呼を女王に擁立したことにより部族の構成が変わり、銅矛を配布した部族が優勢になったことを表しています。
中国・四国地方の稍(稍P)でも同様の現象が見られ、広形の青銅祭器が見られなくなります。北部九州製の銅矛も、近畿製の銅鐸も流入してこなくなり、また自分達で銅剣を造らなくなります。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしました。
これについては青銅祭器の祭祀をやめて山陰側では四隅突出型墳丘墓の、また山陽側では特殊器台を用いた墓の祭祀を行なうようになったと考えられていますが、私は青銅祭器を用いた宗廟祭祀は続いていると見ています。新たな王が立てられたことにより部族の構成が固定されたため、青銅祭器を配布する必要がなくなったのだと考えます。女王国とは 逆の現象が起きたのです。
女王国の大乱は銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でしたが、その結果、部族に対して中立の立場の卑弥呼が王に共立されます。大乱は中国・四国地方の稍(稍P)にも波及したようです。前回に述べたように銅矛を配布した部族、すなわちヤマタノオロチ(邪馬台のおろ血)が通婚を強要して勢力を拡大しようとしたようです。
そのため銅矛、銅剣・銅鐸を配布した三部族が鼎立する争乱に発展したようです。神話は斬られたオロチの血で斐伊川が染まったと述べていますが、鳥取県青谷上寺地遺跡では殺傷痕のあるものを含む90数体の人骨が溝の中で見つかっています。その時期は170年ころと見られていますから、倭国大乱が因幡に波及してきたことを考えて見る必要がありそうです。
島根県荒神谷遺跡では銅剣358本、銅矛16個、銅鐸6個が出土し、加茂岩倉遺跡では銅鐸39個が出土しており、その合計は419になります。青銅祭器がこの2遺跡に集中している意味を考える必要がありますが、出雲国内では他でも出土しています。これらの青銅祭器の全てが出雲国内から回収されたようには思えません。
荒神谷遺跡が発見された時、島根大学の山本清氏は358本の銅剣に関連して「山陰地方連合体」という考えを提唱されました。山陰地方は8国52郡387郷だから、1郷に1本が配布されたのであり、「山陰地方連合体」が存在したのだというものです。
マタノオロチの伝承は安芸の可愛川流域や備前の赤坂郡にもありますから、大乱は中国地方一帯に波及したことが考えられます。銅剣には隣接する山陰・山陽や四国、つまり「稍P」の全域から回収されたものもあると考えるのがよいようです。ちなみに荒神谷遺跡のものと同じ中細形銅剣c類が四国でも出土しています。
稍P(出雲)の三部族に対して中立の立場にあるのは銅戈を配布した部族ですが、出雲の銅戈の出土は一本だけで王を立てることができる勢力ではありません。このような場合、銅戈を配布した部族が王をたてることはできませんが、卑弥呼の例のように出雲の王は三部族鼎立のバランスの上に立つ必要があり、こうして王になったのが面土国王の同族で、これが出雲神話のスサノオだと思われます。
出雲大社本殿の背後にスサノオを祀る素鵞神社があります。素鵞神社の東200メートルほどの境外摂社、命主神社境内から中細形銅戈1本と硬玉製の勾玉1個が出土しています。出雲大社の祭神はオオクニヌシですが、中世にはスサノオと考えられた時期がありました。出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しているようです。
スサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものでもありますが、この銅戈を持っていた宗族がオロチを退治したスサノオとされているようです。このために出雲大社の摂社として素鵞神社が祭られるようになったことが考えられます。
オロチの尾を切ると中から草薙剣が出て来ることになっています。この剣は中細形銅剣c類を配布した部族を象徴しており、この剣を持つことは銅剣を配布した部族を支配している王であることを表すと考えています。それが今では皇位を継承していることを表すようになっています。
荒神谷遺跡の青銅祭器は銅剣が圧倒的に多数ですが、スサノオが草薙剣を得たというのは、中細形銅剣c類を配布した部族が面土国王の一族を王に擁立したということなのでしょう。
中国・四国地方の稍(稍P)でも同様の現象が見られ、広形の青銅祭器が見られなくなります。北部九州製の銅矛も、近畿製の銅鐸も流入してこなくなり、また自分達で銅剣を造らなくなります。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしました。
これについては青銅祭器の祭祀をやめて山陰側では四隅突出型墳丘墓の、また山陽側では特殊器台を用いた墓の祭祀を行なうようになったと考えられていますが、私は青銅祭器を用いた宗廟祭祀は続いていると見ています。新たな王が立てられたことにより部族の構成が固定されたため、青銅祭器を配布する必要がなくなったのだと考えます。女王国とは 逆の現象が起きたのです。
女王国の大乱は銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でしたが、その結果、部族に対して中立の立場の卑弥呼が王に共立されます。大乱は中国・四国地方の稍(稍P)にも波及したようです。前回に述べたように銅矛を配布した部族、すなわちヤマタノオロチ(邪馬台のおろ血)が通婚を強要して勢力を拡大しようとしたようです。
そのため銅矛、銅剣・銅鐸を配布した三部族が鼎立する争乱に発展したようです。神話は斬られたオロチの血で斐伊川が染まったと述べていますが、鳥取県青谷上寺地遺跡では殺傷痕のあるものを含む90数体の人骨が溝の中で見つかっています。その時期は170年ころと見られていますから、倭国大乱が因幡に波及してきたことを考えて見る必要がありそうです。
島根県荒神谷遺跡では銅剣358本、銅矛16個、銅鐸6個が出土し、加茂岩倉遺跡では銅鐸39個が出土しており、その合計は419になります。青銅祭器がこの2遺跡に集中している意味を考える必要がありますが、出雲国内では他でも出土しています。これらの青銅祭器の全てが出雲国内から回収されたようには思えません。
荒神谷遺跡が発見された時、島根大学の山本清氏は358本の銅剣に関連して「山陰地方連合体」という考えを提唱されました。山陰地方は8国52郡387郷だから、1郷に1本が配布されたのであり、「山陰地方連合体」が存在したのだというものです。
マタノオロチの伝承は安芸の可愛川流域や備前の赤坂郡にもありますから、大乱は中国地方一帯に波及したことが考えられます。銅剣には隣接する山陰・山陽や四国、つまり「稍P」の全域から回収されたものもあると考えるのがよいようです。ちなみに荒神谷遺跡のものと同じ中細形銅剣c類が四国でも出土しています。
稍P(出雲)の三部族に対して中立の立場にあるのは銅戈を配布した部族ですが、出雲の銅戈の出土は一本だけで王を立てることができる勢力ではありません。このような場合、銅戈を配布した部族が王をたてることはできませんが、卑弥呼の例のように出雲の王は三部族鼎立のバランスの上に立つ必要があり、こうして王になったのが面土国王の同族で、これが出雲神話のスサノオだと思われます。
出雲大社本殿の背後にスサノオを祀る素鵞神社があります。素鵞神社の東200メートルほどの境外摂社、命主神社境内から中細形銅戈1本と硬玉製の勾玉1個が出土しています。出雲大社の祭神はオオクニヌシですが、中世にはスサノオと考えられた時期がありました。出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しているようです。
スサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものでもありますが、この銅戈を持っていた宗族がオロチを退治したスサノオとされているようです。このために出雲大社の摂社として素鵞神社が祭られるようになったことが考えられます。
オロチの尾を切ると中から草薙剣が出て来ることになっています。この剣は中細形銅剣c類を配布した部族を象徴しており、この剣を持つことは銅剣を配布した部族を支配している王であることを表すと考えています。それが今では皇位を継承していることを表すようになっています。
荒神谷遺跡の青銅祭器は銅剣が圧倒的に多数ですが、スサノオが草薙剣を得たというのは、中細形銅剣c類を配布した部族が面土国王の一族を王に擁立したということなのでしょう。
2009年12月2日水曜日
八岐大蛇 その2
今では蛇も蛙も少なくなってあまり見かけませんが、以前には蛇が蛙を丸呑みにしているのをよく見たものです。「蛇ににらまれた蛙」と言いますが、蛙は蛇の意のままになっています。蛙を助けようと蛇を殺した経験のある人もいるでしょう。このような経験が、ある史実と結びついてヤマタノオロチの神話が生まれたようです。
蛇のことを古くはミズチ(水の精霊)といい、巨大なミズチがオロチです。ミズチは蛙を呑みますがオロチは娘を呑みます。子供が蛙を助けようとして蛇を殺すように、スサノオが娘を助けるために巨大な蛇、すなわちヤマタノオロチを殺したというストーリーができたようです。しかし実際に娘を呑むような大蛇がいたわけではありません。
ヤマタノオロチについては「鉄穴流し」と呼ばれる製鉄法にまつわる伝承だとか、シベリヤのオロチョン族だとする説、あるいは斐伊川の氾濫を表しているとする説などがありますが、神話が史実ではないとされる代表格がこのヤマタノオロチでしょう。私はヤマタノオロチを「邪馬台のおろ血」だと理解しています。
日本古典文学大系『日本書紀』は「頭尾八岐有り」とあるので八岐大蛇というとし、ヲを峰、ロを助詞、チはミズチ、イカヅチなどのチだとしていますが、私は「オロチ」の「オ」は「緒=ほそ紐」のことで、緒には始め・興り・糸口・筋という意味もあり、同族間の序列を言うと考えています。ニニギの天孫降臨に随行する神を「五伴緒」(いつのとものお)とする使用例があります。前述のように スサノオも「帥升の緒」でしょう。
助詞の「ロ」は同族間の序列に従って、オウ(王)・オミ(臣)・オサ(長)・オヤ(親)・オセ(大人)・オエ(大兄・兄)・オト(弟)・オジ(叔父)・オバ(叔母)・オイ(甥)・オレ(俺)・オラ(緒等・仲間)というように変化し、序列の遠近・親疎を表すと考えます。男系社会のため女系の呼称はオバ以外にはないようです。
それでは「オロ」とはどうゆう序列かということになりますが、『大辞林』には「オロ」について次のように述べられています。
接頭
おろそか、おろかなどの「おろ」と同源。動詞・形容詞などについて十分でないさまを表す。不完全、わずかなどの意
このように解釈するとオロチの「オロ」は序列の最末端に位置する者、疎遠な者といった意味になり、オラ(緒等・仲間)よりも関係の薄い「遠い親戚」ほどの意味になりそうです。オロチの「チ」は血のことで、祖先を同じくする同族ということでしょうが、日本古典文学大系『日本書紀』の述べるようにミズチ・イカズチなどのチのように「精霊」といった意味も含んでいるのかもしれません。
弥生時代には銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸を配布する巨大な大部族が存在していました。部族は血縁集団である宗族が通婚することによって結合した「擬制された血縁集団」で、その序列は宗族と同じ形態を取ったでしょう。オサ(長)が宗族の族長ですが、青銅祭器を配布し王を出すような巨大な部族の場合には、その序列の中に支配者階層のオウ(王)やオミ(臣)を含むようです。
大部族は勢力を拡大するために通婚を強要し、通婚が成立すると青銅祭器を配布しました。娘を呑む大蛇とは通婚を強要し青銅祭器を配布する大部族のことであり、その大部族が邪馬台なのだと考えます。ヤマタについては邪馬台国のこととする考え方がありますが、これに同意したいと思います。つまり ヤマタノオロチとは「邪馬台の一族」といったほどの意味でしょう。
邪馬台(女王国)は銅矛を配布した部族が主導権を持つ国でした。銅矛を配布した部族が出雲の宗族に通婚を強要し、勢力を拡大しようとしたようです。それがヤマタノオロチは娘を呑むと言い伝えられているようです。島根県荒神谷遺跡では16本の銅矛が出土していますが、この16本の銅矛を祀っていた宗族がオロチに呑まれた娘ということになります。
蛇のことを古くはミズチ(水の精霊)といい、巨大なミズチがオロチです。ミズチは蛙を呑みますがオロチは娘を呑みます。子供が蛙を助けようとして蛇を殺すように、スサノオが娘を助けるために巨大な蛇、すなわちヤマタノオロチを殺したというストーリーができたようです。しかし実際に娘を呑むような大蛇がいたわけではありません。
ヤマタノオロチについては「鉄穴流し」と呼ばれる製鉄法にまつわる伝承だとか、シベリヤのオロチョン族だとする説、あるいは斐伊川の氾濫を表しているとする説などがありますが、神話が史実ではないとされる代表格がこのヤマタノオロチでしょう。私はヤマタノオロチを「邪馬台のおろ血」だと理解しています。
日本古典文学大系『日本書紀』は「頭尾八岐有り」とあるので八岐大蛇というとし、ヲを峰、ロを助詞、チはミズチ、イカヅチなどのチだとしていますが、私は「オロチ」の「オ」は「緒=ほそ紐」のことで、緒には始め・興り・糸口・筋という意味もあり、同族間の序列を言うと考えています。ニニギの天孫降臨に随行する神を「五伴緒」(いつのとものお)とする使用例があります。前述のように スサノオも「帥升の緒」でしょう。
助詞の「ロ」は同族間の序列に従って、オウ(王)・オミ(臣)・オサ(長)・オヤ(親)・オセ(大人)・オエ(大兄・兄)・オト(弟)・オジ(叔父)・オバ(叔母)・オイ(甥)・オレ(俺)・オラ(緒等・仲間)というように変化し、序列の遠近・親疎を表すと考えます。男系社会のため女系の呼称はオバ以外にはないようです。
それでは「オロ」とはどうゆう序列かということになりますが、『大辞林』には「オロ」について次のように述べられています。
接頭
おろそか、おろかなどの「おろ」と同源。動詞・形容詞などについて十分でないさまを表す。不完全、わずかなどの意
このように解釈するとオロチの「オロ」は序列の最末端に位置する者、疎遠な者といった意味になり、オラ(緒等・仲間)よりも関係の薄い「遠い親戚」ほどの意味になりそうです。オロチの「チ」は血のことで、祖先を同じくする同族ということでしょうが、日本古典文学大系『日本書紀』の述べるようにミズチ・イカズチなどのチのように「精霊」といった意味も含んでいるのかもしれません。
弥生時代には銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸を配布する巨大な大部族が存在していました。部族は血縁集団である宗族が通婚することによって結合した「擬制された血縁集団」で、その序列は宗族と同じ形態を取ったでしょう。オサ(長)が宗族の族長ですが、青銅祭器を配布し王を出すような巨大な部族の場合には、その序列の中に支配者階層のオウ(王)やオミ(臣)を含むようです。
大部族は勢力を拡大するために通婚を強要し、通婚が成立すると青銅祭器を配布しました。娘を呑む大蛇とは通婚を強要し青銅祭器を配布する大部族のことであり、その大部族が邪馬台なのだと考えます。ヤマタについては邪馬台国のこととする考え方がありますが、これに同意したいと思います。つまり ヤマタノオロチとは「邪馬台の一族」といったほどの意味でしょう。
邪馬台(女王国)は銅矛を配布した部族が主導権を持つ国でした。銅矛を配布した部族が出雲の宗族に通婚を強要し、勢力を拡大しようとしたようです。それがヤマタノオロチは娘を呑むと言い伝えられているようです。島根県荒神谷遺跡では16本の銅矛が出土していますが、この16本の銅矛を祀っていた宗族がオロチに呑まれた娘ということになります。
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