因幡の素兎の神話は、因幡の八上郡に住む八上媛を妻問いする途中、苦しんでいる素兎をオオアナムチ(大穴牟遅)が助ける物語として親しまれています。今まで述べてきたように弥生時代には部族間の抗争が頻発しました。
このころ山陰地方には銅矛も銅鐸も流入しなくなりますが、四国西部には銅矛が、また東部には銅鐸が流入していますから、山陰に部族が存在しなかったというのではなさそうです。この神話の背景には銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族の対立がありそうです。
大場磐雄氏は銅鐸を使用したのは「出雲神族」だとしていますが、私は銅鐸を配布した部族が神格化されたものがオオクニヌシだと考えています。とすれば異名同神のオオアナムチも銅鐸を配布した部族だと考えてよいようです。
オオアナムチは山陰地方に多い外縁付鈕式・扁平鈕式などの、比較的に古いタイプの銅鐸を祭っていた宗族でしょう。このタイプの銅鐸が加茂岩倉遺跡で39個出土しています。
兄弟の八十神は八上媛を妻問いするために、連れ立って因幡に向かいます。オオアナムチは八十神の荷物を持たされているので、一行から遅れて追っていきますが、そのような史実があったとは思えません。これは何かを意味しているようです。
図には方言圏が示されていますが、出雲と伯耆西部の方言は中国地方の方言と異なっています。この雲伯方言圏が元来の出雲のようです。ヤマタノオロチに語られている争乱の後、雲伯方言圏(元来の出雲)が伯耆東部や因幡を併合しようとしているのでしょう。
その因幡の併合の焦点になったのが、裸の兎が臥せっていた気多の前(けたのさき)だと考えることができそうです。裸の兎が臥せっていたというのは、争乱の後遺症に苦しんでいる人たちが居たということだと考えています。その場所が「気多の前」なのです。
兄弟の八十神はそれを助長するような酷い仕打ちをしたが、オオアナムチはこれを助けたというのです。兎が八上比売を妻にするのはオオアナムチだと言い、八上比売もそれを承諾するのは、オオアナムチが因幡を支配するようになるということだと考えます。
『吾と汝と競べて、族(うがら)の多き少なきを計(かぞえ)へてむ。故、汝は其の族の在りの随に悉に率(い)て来て、此の島より気多の前まで皆列(な)み伏し度れ。爾に吾其の上を踏みて、走りつつ読み度らむ。是に吾が族と孰(いずれ)か多きを知らむ』といひき。
弥生時代後半は部族が国を形成し王を擁立した時代ですが、同族が多いほど優勢ですから同族の多少が問題になります。兎が鮫にどちらの仲間が多いか較べようと言っているのは、部族の勢力の大小を言っているのでしょう。
推察になりますが兎は銅鐸を配布した部族であり、鮫は銅剣を配布した部族だと思っています。伯耆国八橋郡(東伯郡琴浦町)のイズチガシラから中細形銅剣c類4本が出土し、また同郡の上中山村から1本が出土したと伝えられています。
因幡には銅鐸は見られるものの銅剣は見られません。銅鐸を配布した部族と銅剣を配布した部族との間に抗争が起きたのでしょう。これらの銅剣を持っていた部族が鮫であろうと思います。
それでは「気多の前」はどこでしょうか。兎は鮫に「此の島より気多の前まで皆列(な)み伏し度れ」と言っています。「此の島」を隠岐の島と考えて船の航路のことを言っていると見ると、「地乗り航法」で「気多の前」に至る方法を言っているとすることができます。
これは高草郡についての『風土記』逸文の考察と言われているものから考えられている説ですが、「気多の前」とは「気多の崎」、あるいは「気多の岬」のことだと考えることができます。そうであればそれは鳥取県青谷の長尾鼻のことになりそうです。
白兎海岸は高草郡ですがその東隣が気多郡で、長尾鼻はその気多郡の岬です。このあたりの海岸線は単調で出入りが少なく、近くには高い山もないので「地乗り航法」の目標になる岬といえばこの長尾鼻になります。
別の考え方もできます。伯耆国汗入郡と八橋郡の境の甲川流域が雲伯方言圏の東限になっていますが、その甲川流域に因幡の素兎の神話と同じ内容の伝承があります。このことからの発想ですが、「気多の前」は伯耆国の河村郡と因幡国の気多郡との国境の近くだと考えることができそうです。
気多郡の長尾鼻は伯耆と因幡の国境の近くです。「気多の前」の「前」とは「先」のことで、国境に近いところという意味だと考えるのですが、とかく国境・境界は紛争の種になりやすいものです。
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