2010年3月10日水曜日

黄泉の国 その2

銅矛を配布した部族はイザナギであり、銅剣を配布した部族はイザナミですが、イザナギの子孫は大和に東遷して大和朝廷を創建します。では黄泉の国に行ったイザナミの子孫はどうなるのでしょうか。私はオオヤマツミ(大山祗・大山積・大山津見)になると思っています。

オオヤマツミは祭られている地方によって大山祗・大山積・大山津見と変わってきます。 大山津見は薩摩半島の加世田市周辺で祭られている神で、コノハナノサクヤビメ(木之花佐久夜毘売)の父とされていますが、加世田市周辺には青銅祭器が全く見られません。

それに対し大山祗は愛媛県伊予大三島の大山祗神社を中心にした西瀬戸内で祭られており、大山積は山陰や中国地方の山間部で祭られています。平形銅剣を配布した部族の末裔が大山祗を祭るようになるのに対し、中細形銅剣c類(出雲形銅剣)を配布した部族の末裔は大山積を祭るようになるようです。

淡路島の西淡町古津路で中細形銅剣b類14本が出土していますが、中細形銅剣c類・平形銅剣の前段階に作られたものです。その淡路の一の宮は伊弉諾神社で、祭神は『日本書記』本文によればイザナギですが、合殿の祭神がイザナミです。

平成16年の改修工事で、祓殿神座床下の唐櫃に小さめの女神像7体が保管されているのが見つかり、翌年には本殿の封印された木箱に男神像・女神像各1体が保管されているのが見つかりました。

神像は鎌倉時代(一部平安後期)に造られたもので明治4年の神仏分離令で隠されたと考えられています。この女神像がイザナミであることは言うまでもありませんが、イザナミを祭ることは鎌倉・平安後期以前から行われていたようです。

古津路の銅剣は中細形銅剣b類ですが、14本は荒神谷遺跡以外では最多です。奴国王が遣使した57年ころ(中期後半2期)には、中細形銅剣b類の祭祀が淡路や瀬戸内を中心にして行われていたが、奴国が衰退したために瀬戸内では平形銅剣が、山陰で中細形銅剣c類が作られるようになると考えられます。

平形銅剣は岡山・広島・香川・愛媛の瀬戸内海沿岸に見られますが、その大部分が伊予大三島の大山祗神社を中心にした60キロ圏内で出土しています。大山祗神社は「和多志(渡し)の大神」とも言われていますが、大三島から瀬戸内海の潮流に乗って往来できる所が平形銅剣の分布地になっています。

その大山祗神社の祭神が大山祗なのです。私は平形銅剣を配布したのは戸内海の海人の部族だと考えています。このように考えると平形銅剣が瀬戸海沿岸に限って分布する理由が説明できます。その部族が後に大山祗を祭るようになると考えられます。

オオヤマツミは山陰地方では大山積になりますが、クシナタヒメ(櫛名田比売・奇稲田比売)の父のアシナツチが大山積の子とされています。言うまでもなくこの2神はヤマタノオロチの神話に登場してきます。

大山積を祭る神社は中国地方の山間部に多く見られますが、これはヤマタノオロチの神話が中国地方の山間部で生まれたことによるのでしょう。それと中細形銅剣c類の分布とが重なると思われます。

先に江の川流域に青銅祭器が見られないことについて、回収されて荒神谷に埋納されからだと述べましたが、これは備中の高梁川上流域、伯耆の日野川流域についても言えるようです。この中細形銅剣c類が配布されていたと考えられる地域がイザナミのいる黄泉の国であり、大山積の活動する場でもあるようです。

大山積の系譜は尋常ではありません。図に示したようにスサノオの女系を辿っていくと大山積に行き着き、その系譜はオオクニヌシに連なっていきます。つまり黄泉の国に葬られたイザナミの子孫のオオクニヌシが、イザナギの子孫のホノニニギに国譲りをするということになりそうです。

オオクニヌシに至る系譜については銅鐸を配布した部族との関係を考える必要がありそうですが、大意はこのようになるでしょう。大山積の系譜にスサノオが入ることについては、投稿の『八岐大蛇 その3』で述べていますので参考にして下さい。

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