『日本書紀』第二の一書は天に天津甕星(あまつみかほし)、又の名は天香香背男(あめのかかせお)がいるとしていますが、台与の退位と男王の即位に反対しているようで、私はこれを物部の支族だと考えています。
物部氏の祖のニギハヤヒハは多くの従者を従えて河内の哮が峰に下ったという伝承を持っていますが、『先代旧事本紀』に見えるニギハヤヒの随行者には「天津○○」が多く、「赤」の文字や浦・占・麻良・原など「ら」の音を含むものが多いという特徴があります。
船長・舵取り 天津羽原・天津麻良・天津真浦・天津赤麻良・天津赤星
五部人 天津麻良・天勇蘇・天津赤占・天津赤星
天にいる神の天津甕星も「天津○○」ですし、またの名の天香香背男は『日本書紀』本文では星の神とされていますが、ニギハヤヒに随行する舵取り・五部人の天津赤星も星に関係する名です。天津甕星と天津赤星も「みかほし」「あかほし」と、音がひとつ違うだけです。
鳥越憲三郎氏は畿内に同族関係にあると思われるものがあることから、物部氏の発祥地は遠賀川流域だとしています。また吉田東伍編『大日本地名辭書・西国』には、鞍手郡とその周辺の物部氏の故地と思われる地名が紹介されています。
1、鞍手郡若宮町鶴田 筑紫弦田物部
2、 都地 十市部首
3、 芹田 芹田物部
4、 小竹町小竹 狭竹物部
5、 鞍手町新北 贄田物部
6、飯塚市新多 二田物部
7、嘉穂郡嘉穂町馬見 馬見物部
8、遠賀郡遠賀町島門 嶋戸物部
9、宗像市赤間 赤間物部
10、北九州市(企救郡) 聞物部
奥野正雄氏は『日本の神社』で北部九州にある物部伝承地には神武東遷以前からある古いものと、継体天皇21年の物部麁鹿火による筑紫君磐井討伐以後の新しいものがあるとしています。私は神武天皇が筑紫の岡田の宮(遠賀郡岡垣町)に滞在したのは、神武東遷以前の古い物部一族から、東遷の同意を取り付けるためであったと考えています。
図の土穴から烏尾峠までの赤い太線で示した部分が、私の考えている「東南陸行五百里、到伊都国」の行程ですが、土穴から猿田峠までが百里、猿田峠から烏尾峠までが四百里になります。◎が物部伝承地ですが、図は伊都国に到る行程の途中に物部伝承地が多いことを表そうとしています。
図には2の鞍手郡若宮町都地と、6の飯塚市新多を記入していませんが、2の都地は1の鶴田と3の芹田の中間に位置しており、図が煩雑になるので記入していません。都地の位置も伊都国に到る行程の途中になります。
6の飯塚市新多ですが、飯塚市には新多という地名は見られず、小竹町新多(こたけまちにいだ)の間違いだと思います。私は伊都国に到る五百里の行程では小竹町新多の付近が遠賀川の渡河地点になっていると考えています。
面土国を宗像郡と考え、奴国は鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、宗像郡の釣川、および鞍手郡の犬鳴川・西川の分水嶺が宗像郡と鞍手郡の郡境になっています。犬鳴川・西川流域は宗像氏の支配地だったとも言われていて、流域の象徴になっている六ヶ岳には宗像3女神が降臨したという伝承があります。
物部氏の故地は六ヶ岳周辺の犬鳴川・西川流域に集中していますが、ここを中心とする遠賀川中・下流域に10数社の剣神社・八剣神社があり、物部氏の兵杖を祭るという伝承があります。物部氏の発祥地がこの地であることをうかがわせます。
『先代旧事本紀』には若宮町鶴田を故地とする筑紫弦田物部などの祖の天津赤星は見えますが『日本書紀』第二の一書の天津甕星は見えません。神武東遷以前の鞍手郡にいて、台与の退位・男王の即位に反対したために滅ぼされた物部の支族だと考えます。
そうであれば物部氏の遠祖は奴国王であることが考えられ、また2世紀から3世紀前半にあっては面土国王と密接な関係にあったと考えることができます。面土国王が「自女王国以北」を刺史のごとく支配しているのは、宗像氏の祖と物部氏の祖による連合支配なのでしょう。
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