『古事記』の神話はオロチ退治に続いて因幡の素兎の物語になりますが、この神話は『日本書紀』にはありません。因幡の白兎の神話は誰でもよく知っていますが、『古事記』では「素兎」となっています。
其の八十神、各、稲羽の八上比売を婚(よば)はむの心有りて、共に稲羽(因幡)に行きし時、大穴牟遅神に袋を負せ、従者(ともびと)と為(し)て率(い)て往きき。是に気多の前(けたのさき)に到りし時、裸の菟伏せりき
この神話は鳥取市白兎海岸にある兎に似た小島から生まれました。この小島を「淤岐島」(おきのしま)と呼び、対岸を「気多の前」(けたのさき)と呼んでいます。
神話では淤岐島は兎が以前に居た所とされ、日本海の隠岐の島のことではないかとも言われています。気多の前は裸の兎が臥せっていたところです。
小島の周囲には鮫のように見える波蝕棚がありますが、写真は干潮時に東側から見たもので、水平線上の黒い筋のように見えるのが波蝕棚です。これが和邇(わに)です。和邇については爬虫類の鰐のことだとする説もありますが、それはこの波蝕棚を見たことのない人の言い出したことで、山陰地方では鮫のことを「わに」と言っています。
今地に下(お)りむとせし時、吾云はく、『汝は我に欺(あざむ)かえつ』と言ひ竟(お)はる即(すなわ)ち、最端(いやはし)に伏せりし和邇(わに)、我を捕へて悉に我が衣服を剥ぎき。
この小島を満潮時に南側から見ると、波蝕棚が遊泳している鮫のように見えます。それを見ていると、対岸に飛び移ろうとした兎が、最端に居る鮫に向かって「汝は我に欺かえつ」(お前は私に騙されたのだ)と言っているように見えます。
いかにも最端に居る鮫に向かって言っているように見えて、その発想のリアルさに驚かされますが、次のシーンでは兎は皮を剥がれることになっています。この小島と周囲の波蝕棚がなかったら因幡の素兎の神話は生まれなかったし、因幡の八上媛という神も忘れられていたでしょう。
それではこの神話の核になっている史実はどのようなものでしょうか。それには時代を特定する必要がありますが、それはスサノオがヤマタノオロチを退治して間もない時であり、オオクニヌシが国譲りをするよりも以前のことのようです。
ヤマタノオロチは倭国大乱が出雲に波及してきたことが語られているようですから、それは200年の前後になります。またオオクニヌシの国譲りは250~260年ごろのことですから、私の考える倭国大乱以後の後期後半1期(210~240)と考えてよいようです。
『古事記』はスサノオの6世孫がオオクニヌシだとしており、スサノオとオオクニヌシの間に四代が経過することになっていますが、その初期がオオアナムチの活動する時期なのでしょう。その後にオオクニヌシとされている出雲の王が出現してくると思われます。
この神話の主人公は一般にはオオクニヌシと考えられていますが、オオクニヌシではなくオオアナムチ(大穴牟遅神)です。高志(越)の国の沼河比売を妻問いする物語のオオクニヌシは「八千矛神」になります。
オオクニヌシの名前が始めて出てくるのは紀伊のスセリビメ(須勢理毘売)を妻問いする物語です。この時に宇都志国玉・葦原色許男と共に大国主が出てきます。オオアナムジは山陰と紀伊に関係する時の名前です。
そして大穴牟遅にしても八千矛にしても、オオクニヌシになる以前の名前とされていることに注意したいと思います。それは因幡の素兎の神話に語られている時期が、オオクニヌシが活動するようになるよりも以前のことだということです。
先にヤマタノオロチの神話は倭国大乱が中国・四国地方に波及してきたことが語られていると述べました。因幡の素兎の神話には倭国大乱以後のこと、つまり出雲の神話ではヤマタノオロチの神話以後のことが語られているようです。
北部九州では卑弥呼が共立され、面土国王は『自女王国以北』を刺史の如く支配するようになります。山陰では青銅祭器の流入が止まり、四隅突出型墳丘墓が大型化します。
四隅突出型墳丘墓が大型化するのは支配者と被支配者の差が大きくなり、支配者の権力が強くなったということであり、山陰に有力な支配者が出現したということでしょう。オオアナムチや兄弟の八十神はそうした支配者層だと考えられます。
海蝕棚が鮫のように見えるポイントは、国道9号線のトンネル東入り口付近(道の駅側)ですが、道の駅のそばに歩道橋がありますからくれぐれも交通事故に注意して下さい。 、
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