2010年3月19日金曜日

3貴子の誕生 その3

卑弥呼と面土国王との関係については魏・蜀正閏論が問題になるようです。このことについては9月21日に投稿した『須佐之男 その3』で述べていますが、改めて見てみたいと思います。

魏の曹操は宦官の養子の子でしたが、その子の曹丕は後漢の献帝から禅譲(位を譲り受ける)されて魏の皇帝になりました。蜀の劉備は前漢景帝の子、中山王劉勝の子孫と称して、漢王朝再興を大義名分にしました。

三国鼎立では三国再統一が大義名分になっていましたが、具体的には魏・蜀のどちらが後漢王朝の後継王朝として正統かということが問題になっていました。これが魏・蜀正閏論です。

後漢王朝は57年に奴国王を、また107年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。それでは両者は後漢王朝の後継王朝として魏と蜀のどちらを正統としたのでしょうか。

当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。

銅戈を配布した部族の側から見ると、蜀こそ正統な後漢の後継王朝であり、後漢の冊封を受けた奴国王と面土国王こそ正統の倭王だということになります。この奴国王と面土国王の関係が「妣(はは)の国、根之堅州国に罷(まか)らむ」と表現されていると考えることができます。

魏は後漢王朝を奪取したのであり、魏の冊封を受けた卑弥呼は大乱で王が立てられないので共立したに過ぎない、仮の王だというのです。そのため卑弥呼の死後に男王が立ちますが、千余人が殺される争乱が起きました。

スサノオが根之堅州国に行きたいと思って泣く原因の一つとして、出雲との関係を考えなければならないでしょう。中細形銅剣c類が配布されていたと考えられる地域がイザナミのいる黄泉の国でもあり、根之堅州国でもあるようです。

前回にも述べましたが57年に奴国王が遣使するについては、中国・四国地方の銅剣を配布した部族との関係が考えられます。その結果、山陰では中細形銅剣c類が、瀬戸内では平形銅剣が配布されます。

そこに高天が原を追放されたスサノオが行って、ヤマタノオロチを退治することになっています。このこともスサノオが母のいる根之堅州国に行きたいと言う原因になっているようです。オロチを退治するスサノオは面土国王そのものではありません。

出雲のイザナギ・スサノオにも魏・蜀正閏論が絡んでいるようです。魏・蜀正閏論は中国の問題であって倭人には関係がないようにも思えますが、それは魏・蜀の正閠論としてではなく、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化しています。
 
815年に成立した『新撰姓氏録』は氏族を応神天皇以前の天皇の子孫の皇別、神話の神の子孫の神別、渡来系の諸蕃、その他の氏族の未定雑姓に区別し、皇別、神別、諸蕃を三体と言っています。

また神別には天神と地祇がありますが、天神は高天が原で活動する神の子孫であり、地祇は葦原中国で活動する神の子孫です。神話は筑紫を舞台にして皇別・天神をイザナギ・天照大神に結びつけています。

また出雲を舞台にして地祇・諸蕃をイザナミ・スサノオに結び付けています。スサノオが出雲に行ったとされるのは、皇別・天神と地祇・諸蕃が対立するのを回避するためでしょう。対立の始まりは卑弥呼と面土国王のどちらが正統の倭王かということであり、さらには魏・蜀の正閏論に至ります。

天神は銅矛を配布した部族に属していた宗族であり、地祇は銅鐸・銅剣を配布した部族に属していた宗族です。銅戈を配布した部族に属していた宗族は地祇とされています。銅戈を配布した部族に擁立された面土国王が、地祇の筆頭のスサノオというわけです。その母のイザナギも、言外に天神ではなく地祇とされていることになります。

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