105、6年ころからの中国は内政では幼帝が続いて外戚・宦官が実権を握り、外交では異民族の侵犯が続いて、漢王朝は次第に衰退していきます。こうした中国の影響を受けて奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、帥升が倭王になることが考えられます。
帥升についてはこれを奴国王とする説や伊都国王とする説があります。帥升が奴国王なら107年ころに倭の盟主が奴国王から面土国王に交替することはありませんから、男王の統治期間は70~80年間ではなく120~30年以上でなければいけません。
また伊都国王とする説も面土国のことが考えられていないだけで根拠はありません。帥升は奴国王でも伊都国王でもなく面土国王なのです。そして西島定生氏は『邪馬台国と倭国』の中で次のように述べています。
倭国王帥升等が一〇七年に朝貢したということの背景には、奴国の没落とか、何か倭人の国々の中に 変動が起こったことを示しているのかもしれません。そうであるとすると、その背後には、その後の倭国大乱をまたずに、すでに倭国が形成されていたのであり、その前夜にも動乱があったのではないかということになるでしょう。
帥升が107年に朝貢する直前に、奴国の没落とそれに伴う動乱があったのではないかと述べられています。この動乱のことは中国側の史書には見えません。 通説ではこのことがまったく考慮されていません。
貨泉が流通停止になった四〇年ころは中期前半2期の安定期で、この動乱に留意すれば中期と後期の境を40年ころとする根拠が薄弱であることが分かってきます。その根本的原因は面土国の存在を認めていないことにあり、年代を考える上でも面土国の存在を認めることは重要なようです。
それは青銅祭器を理解することにも繋がるようです。表は岩永省三氏による分類で、時代区分には私の私観が加わっています。この表は造られ期間を示しており、使用期間の終わりはこの表では示すことはできないと考えています。もちろん正確に30年ごとに形式が変化するわけではなく、全体の推移はこのようになるという推定です。
中細形は中期後半に造られ、中広形と広形は後期に造られたと考えられていますが、とすれば中細形が中広形に変わる時と、時代区分の中期が後期に移る時とは一致する可能性があり、中細形が中広形に替わるのは90年ころであることが考えられます。
中細形a類が作られたのは新が滅んで後漢の興る中期後半1期と考えるのがよいように思います。中期前半の百余国体制がどのようなものであったかは分かりませんが、その百余国体制が崩壊し、新たな体制が模索された結果、部族の統合が急速に進んでいくと思います。
その結果、部族は新たに同族関係が生じた宗族に中細形a類を配布したのだと考えます。57年の奴国王の遣使のころに中細形b類が配布されますが、銅剣を配布した部族も銅剣b類を配布したでしょう。
中細形c類が配布されたころに奴国王の退位があり、それに伴って銅剣を配布した部族の中枢は北九州から出雲に移っていくと考えられます。出雲の荒神谷遺跡では中細形c類が358本出土していますが、奴国王の退位との関係を考えなければならないようです。
剣形祭器が九州に少ないのは、奴国王を擁立した部族が衰退し、面土国王を擁立した部族が優勢になったことを表しているのでしょう。奴国王を擁立した部族が配布したのは銅剣であり、面土国王を擁立した部族が配布したのは銅矛、または銅戈だということになりますが、私は銅戈だと考えています。
2009年10月20日火曜日
中期後半 その1
王莽は前漢末期の社会不安を巧に利用して新を建国しますが、建国10年で赤眉・緑林の反乱が起き、光武帝が後漢王朝を成立させたのは後25年でした。中期前半3期に王莽が漢王朝中断を準備し、中期後半1期に光武帝が漢王朝を再興したと言えます。
56年、光武帝は泰山で「封禅の儀」を挙行しますが、「封禅の儀」は秦の始皇帝、前漢の高祖劉邦・武帝、後漢の光武帝など、功績のあった皇帝のみが行なえた儀式です。翌57年には奴国王が遣使していますが、「奉貢朝賀」とあることから見て封禅の儀を祝賀するための遣使だったのでしょう。
光武帝、明帝、章帝の時代は匈奴など異民族の侵犯もなく、国内もよく治まりました。外戚(皇帝の母系の一族)の王莽が前漢を滅ぼしたことが忘れられておらず、明帝・章帝の時代の外戚は謙虚でした。しかし四代和帝が88年に9歳で即位してから幼少で即位する皇帝が続き、外戚・宦官が実権を握るようになります。
和帝は宦官の鄭衆に頼り外戚の竇氏を粛清するという悪例を残しました。宦官の多くは政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、その跳梁により政治の腐敗が深刻になります。こうしたことから後漢王朝はなし崩しに衰退していき、やがて滅亡します。
通説では中期と後期の境は1世紀中葉と考えられています。王莽の時代(8~23)には銅銭の改鋳がしばしば行われましたが、14年に鋳造が始まり40年に流通停止になった貨泉が日本でも相当数出土していて、貨泉と一緒に出土する土器は中期末のものなのか、あるいは後期初頭のものなのかということが問題になっています。
今のところ中期末とする説が有力で、このことから通説では貨泉は中期と後期の境に埋まったとされています。しかし私の年代観では貨泉が鋳造された14年は中期後半1期になり、流通が停止された40年は2期になって、中期と後期の境は90年になります。
通説との差の50年については次のように考えています。倭人伝は倭国大乱以前の7~80年間は男子が王だったことを記していますが、大乱は霊帝の光和年中(178~183)に起きています。西暦178年の80年前は西暦98年であり、西暦183年の70年前は西暦113年です。
今まで述べてきたように大乱前の男王は面土国王ですが、面土国王が初めて倭王になったのは、西暦98~113年の間ということになります。その15年間のうちの西暦107年に帥升が生口160人を献上しているのです。
私の年代観は90年ごとに等分に区分しているので、中期と後期の境は自動的に西暦90年になります。しかし実際には90年ごとに時代が変わるわけではなく、西暦98~113年までの15年間のある時に帥升が王になり、そのことが中期から後期に変わる原因になっていると考えています。
西暦98~113年の中間は西暦105年か6年ですが、このころ中国や朝鮮半島ではさまざまな動きがありました。105年に和帝が死ぬと生後百余日の殤帝が立てられ、竇皇太后が臨朝しますが、翌年死亡し13歳の安帝が即位します。
中国の西では106年ころにチベットの羌族が反乱を起こし、東では105年に高句麗が遼東郡に入蒄していますが、そのためなのでしょうか106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しており、第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなります。
玄莬郡 が後退したことは楽浪郡の果たす役割が大きくなったということであり、朝鮮半島や倭国に影響が出てきたことが考えられます。こうした東アジア世界の動きが倭国に波及してきて、奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、帥升が倭王になることが考えられます。
この争乱のことは中国史書には見えず問題にもされていませんが、相当に大規模なものであったようです。私はこのことが青銅祭器を中細形から中広形に変え、また中期から後期に移る原因になっていると考えています。
56年、光武帝は泰山で「封禅の儀」を挙行しますが、「封禅の儀」は秦の始皇帝、前漢の高祖劉邦・武帝、後漢の光武帝など、功績のあった皇帝のみが行なえた儀式です。翌57年には奴国王が遣使していますが、「奉貢朝賀」とあることから見て封禅の儀を祝賀するための遣使だったのでしょう。
光武帝、明帝、章帝の時代は匈奴など異民族の侵犯もなく、国内もよく治まりました。外戚(皇帝の母系の一族)の王莽が前漢を滅ぼしたことが忘れられておらず、明帝・章帝の時代の外戚は謙虚でした。しかし四代和帝が88年に9歳で即位してから幼少で即位する皇帝が続き、外戚・宦官が実権を握るようになります。
和帝は宦官の鄭衆に頼り外戚の竇氏を粛清するという悪例を残しました。宦官の多くは政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、その跳梁により政治の腐敗が深刻になります。こうしたことから後漢王朝はなし崩しに衰退していき、やがて滅亡します。
通説では中期と後期の境は1世紀中葉と考えられています。王莽の時代(8~23)には銅銭の改鋳がしばしば行われましたが、14年に鋳造が始まり40年に流通停止になった貨泉が日本でも相当数出土していて、貨泉と一緒に出土する土器は中期末のものなのか、あるいは後期初頭のものなのかということが問題になっています。
今のところ中期末とする説が有力で、このことから通説では貨泉は中期と後期の境に埋まったとされています。しかし私の年代観では貨泉が鋳造された14年は中期後半1期になり、流通が停止された40年は2期になって、中期と後期の境は90年になります。
通説との差の50年については次のように考えています。倭人伝は倭国大乱以前の7~80年間は男子が王だったことを記していますが、大乱は霊帝の光和年中(178~183)に起きています。西暦178年の80年前は西暦98年であり、西暦183年の70年前は西暦113年です。
今まで述べてきたように大乱前の男王は面土国王ですが、面土国王が初めて倭王になったのは、西暦98~113年の間ということになります。その15年間のうちの西暦107年に帥升が生口160人を献上しているのです。
私の年代観は90年ごとに等分に区分しているので、中期と後期の境は自動的に西暦90年になります。しかし実際には90年ごとに時代が変わるわけではなく、西暦98~113年までの15年間のある時に帥升が王になり、そのことが中期から後期に変わる原因になっていると考えています。
西暦98~113年の中間は西暦105年か6年ですが、このころ中国や朝鮮半島ではさまざまな動きがありました。105年に和帝が死ぬと生後百余日の殤帝が立てられ、竇皇太后が臨朝しますが、翌年死亡し13歳の安帝が即位します。
中国の西では106年ころにチベットの羌族が反乱を起こし、東では105年に高句麗が遼東郡に入蒄していますが、そのためなのでしょうか106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しており、第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなります。
玄莬郡 が後退したことは楽浪郡の果たす役割が大きくなったということであり、朝鮮半島や倭国に影響が出てきたことが考えられます。こうした東アジア世界の動きが倭国に波及してきて、奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、帥升が倭王になることが考えられます。
この争乱のことは中国史書には見えず問題にもされていませんが、相当に大規模なものであったようです。私はこのことが青銅祭器を中細形から中広形に変え、また中期から後期に移る原因になっていると考えています。
2009年10月19日月曜日
中期中葉
紀元前四九年に即位した元帝は熱心な儒学信奉者でしたが、その甥の王莽もまた儒学に傾倒しました。若いころの王莽は儒学の実践者として知られ、聖人とまで言われましたが、その彼が教理に反して主家を滅ぼすのです。前期前半の3期という人間のバイオリズムが、王莽を狂わせたのでしょうか。
儒教は仁・義・礼・智・信という徳性を養うことにより父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の序列や、その関係を維持することを教えていますが、元帝から王莽の時代には周時代以前への回帰が盛んに言われ、春秋・戦国時代に失われた周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活した時代でした。礼とは人間の上下関係で守るべきことを言います。
しかしその政治は「託古改制」と言われている、孔子の思想をそのまま政治に持ち込んだ現実を無視したものでした。皇帝になった王莽の統治も託古改制そのもので、現実に合わず矛盾が生じ、その矛盾を訂正しなかったため社会は大混乱に陥ります。それを批判するように讖緯思想が盛んになります。
この時期には元帝の皇后だった元后と、その外戚の王氏が実権を握っていました。中期前半三期は成帝、哀帝、平帝という暗君と、王氏という愚臣が前漢王朝を崩壊へ導いた時期でした。紀元後八年、元后の甥の王莽が「天人感応説」を巧に利用して、前漢王朝を滅ぼして新を建国します。
九年、王莽は『周官』に基づいて前漢王朝の制度を廃止する、官制、官名、地名の改革を断行し、「天に二日無く、地に二王無し」ということで王を諸侯に降格します。周時代以前には王は一人だけで他はすべて諸侯でしたから、これに習って王という呼称を廃止しようとしたのですが、理由はそれだけでまさに暴挙としか言いようがありません。
これは外臣の王にも及び、外臣の王も諸侯に降格されました。これに反発したのが匈奴で、王莽は離反した匈奴を討伐するために高句麗に出兵を命じます。しかし高句麗も降格されていたのでこれに応じませんでした。王莽は高句麗候を殺し、布告を出して国名を下句麗に変えさせています。
子供が駄々をこねているような話ですが、それが大真面目で行なわれたのです。王莽の政治は一事が万事で社会を混乱に陥れ、各地で大規模な反乱が起き、農民反乱軍の赤眉、緑林をはじめ、各種各様の反乱軍が蜂起し、大地主たちも自衛のために武装集団を抱えるようになります。こうした中で南陽(河南省南陽市)の豪族、劉秀兄弟が出てきますが、劉秀が後漢初代の光武帝です。
弥生時代は前漢200年と後漢200年に、その前後の先秦・秦時代と三国時代を加えた時期に並行します。そのちょうど中間が王莽の新時代ですが、王莽が前漢王朝の簒奪を図った平帝の時代、つまり紀元前後を中期中葉とするのがよいようです。
中期前半には倭の百余国が遣使していますが、玄界灘・響灘沿岸を中心にした「百余国体制」とでもいうべきものが存在していたことが考えられますが、その内容の詳しいことは分かっていません。しかし前漢王朝の滅亡と王莽の失政で、その体制が崩壊したことが考えられます。
冊封体制によって儒教の「礼」という考え方が流入してきたことや、百余国体制が崩壊したことにより、新しい社会体制が摸索されたことが青銅器を祭器に変えていくと考えられます。新しい社会体制とは巨大な部族が出現し、その巨大な部族が王を擁立しするようになるということのようです。
紀元前後の中国では仏教が定着し、儒教では讖緯思想が現れています。キリストの誕生もこのころですが、世界全体がそうした変動期であったようです。私は神道の成立もこのころであり、神道の成立と同時に青銅祭器が出現 すると考えています。
北部九州は冊封体制に直接に組み込まれていたので、青銅器を入手する機会が多く、中国、朝鮮半島の風習をまねて青銅器(銅鏡、細形の剣、矛、戈など)を副葬することが行われていますが、北部九州以外では青銅器の流入量が少ない上に、特定の個人が青銅器を独占することはなかったと考えられています。
北部九州以外では青銅器は個人の持つものではなく、集団(宗族)の共有物とされ、宗族の祖先祭祀に用いられるようになると考えられます。青銅器を祭器に変えたのは中国・四国地方の宗族であったことが考えられています。
中国の氏族には姓がありますが、倭人の部族には姓はなかったでしょう。北アメリカインディアンの部族は動物、植物を象徴物(トーテム)とし、扶余の部族は牛、馬、豚、犬などをトーテムにしていました。青銅祭器は部族、あるいは宗族の祖先祭祀の神体であると同時に、姓に相当するトーテムでもあったでしょう。
宗族が所有している青銅祭器を見れば、その宗族がどの部族に所属しているかが解り、その形式から所有している宗族が置かれている、部族内部でのランクさえも解ったと考えられます。福田形銅鐸と近畿式銅鐸を比較すれば福田形が古く近畿式が新しいことが分かり、それを所有していた宗族の新旧が分かりますが、こうしたことから宗族のランク付けも可能だったのでしょう。
儒教は仁・義・礼・智・信という徳性を養うことにより父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の序列や、その関係を維持することを教えていますが、元帝から王莽の時代には周時代以前への回帰が盛んに言われ、春秋・戦国時代に失われた周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活した時代でした。礼とは人間の上下関係で守るべきことを言います。
しかしその政治は「託古改制」と言われている、孔子の思想をそのまま政治に持ち込んだ現実を無視したものでした。皇帝になった王莽の統治も託古改制そのもので、現実に合わず矛盾が生じ、その矛盾を訂正しなかったため社会は大混乱に陥ります。それを批判するように讖緯思想が盛んになります。
この時期には元帝の皇后だった元后と、その外戚の王氏が実権を握っていました。中期前半三期は成帝、哀帝、平帝という暗君と、王氏という愚臣が前漢王朝を崩壊へ導いた時期でした。紀元後八年、元后の甥の王莽が「天人感応説」を巧に利用して、前漢王朝を滅ぼして新を建国します。
九年、王莽は『周官』に基づいて前漢王朝の制度を廃止する、官制、官名、地名の改革を断行し、「天に二日無く、地に二王無し」ということで王を諸侯に降格します。周時代以前には王は一人だけで他はすべて諸侯でしたから、これに習って王という呼称を廃止しようとしたのですが、理由はそれだけでまさに暴挙としか言いようがありません。
これは外臣の王にも及び、外臣の王も諸侯に降格されました。これに反発したのが匈奴で、王莽は離反した匈奴を討伐するために高句麗に出兵を命じます。しかし高句麗も降格されていたのでこれに応じませんでした。王莽は高句麗候を殺し、布告を出して国名を下句麗に変えさせています。
子供が駄々をこねているような話ですが、それが大真面目で行なわれたのです。王莽の政治は一事が万事で社会を混乱に陥れ、各地で大規模な反乱が起き、農民反乱軍の赤眉、緑林をはじめ、各種各様の反乱軍が蜂起し、大地主たちも自衛のために武装集団を抱えるようになります。こうした中で南陽(河南省南陽市)の豪族、劉秀兄弟が出てきますが、劉秀が後漢初代の光武帝です。
弥生時代は前漢200年と後漢200年に、その前後の先秦・秦時代と三国時代を加えた時期に並行します。そのちょうど中間が王莽の新時代ですが、王莽が前漢王朝の簒奪を図った平帝の時代、つまり紀元前後を中期中葉とするのがよいようです。
中期前半には倭の百余国が遣使していますが、玄界灘・響灘沿岸を中心にした「百余国体制」とでもいうべきものが存在していたことが考えられますが、その内容の詳しいことは分かっていません。しかし前漢王朝の滅亡と王莽の失政で、その体制が崩壊したことが考えられます。
冊封体制によって儒教の「礼」という考え方が流入してきたことや、百余国体制が崩壊したことにより、新しい社会体制が摸索されたことが青銅器を祭器に変えていくと考えられます。新しい社会体制とは巨大な部族が出現し、その巨大な部族が王を擁立しするようになるということのようです。
紀元前後の中国では仏教が定着し、儒教では讖緯思想が現れています。キリストの誕生もこのころですが、世界全体がそうした変動期であったようです。私は神道の成立もこのころであり、神道の成立と同時に青銅祭器が出現 すると考えています。
北部九州は冊封体制に直接に組み込まれていたので、青銅器を入手する機会が多く、中国、朝鮮半島の風習をまねて青銅器(銅鏡、細形の剣、矛、戈など)を副葬することが行われていますが、北部九州以外では青銅器の流入量が少ない上に、特定の個人が青銅器を独占することはなかったと考えられています。
北部九州以外では青銅器は個人の持つものではなく、集団(宗族)の共有物とされ、宗族の祖先祭祀に用いられるようになると考えられます。青銅器を祭器に変えたのは中国・四国地方の宗族であったことが考えられています。
中国の氏族には姓がありますが、倭人の部族には姓はなかったでしょう。北アメリカインディアンの部族は動物、植物を象徴物(トーテム)とし、扶余の部族は牛、馬、豚、犬などをトーテムにしていました。青銅祭器は部族、あるいは宗族の祖先祭祀の神体であると同時に、姓に相当するトーテムでもあったでしょう。
宗族が所有している青銅祭器を見れば、その宗族がどの部族に所属しているかが解り、その形式から所有している宗族が置かれている、部族内部でのランクさえも解ったと考えられます。福田形銅鐸と近畿式銅鐸を比較すれば福田形が古く近畿式が新しいことが分かり、それを所有していた宗族の新旧が分かりますが、こうしたことから宗族のランク付けも可能だったのでしょう。
2009年10月17日土曜日
中期前半
武帝は紀元前141年に即位し、87年までの54年間在位しました。中期前半は紀元前九〇年から西暦紀元までと考えていますが、武帝の死のころが前漢王朝の転換点になっているようです。それに追随する形で弥生時代が前期から中期に移っていくと考えればよいと思います。
武帝は108年に真番・辰国が遣使するのを衛氏朝鮮が妨害しているという、冊封体制の職約(義務)違反を理由にして衛氏朝鮮を滅ぼし、そしてその地に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置します。しかし真番・臨屯・玄菟の3郡は維持していくことができず、紀元前82年に真番・臨屯郡は廃止され玄菟郡も西に後退します。
ただ楽浪郡だけは真番・臨屯郡の果たしていた役割をも合わせ持つ、朝鮮半島経営の拠点になりました。これを大楽浪郡と言っていますが、中期前半は前漢の大楽浪郡時代に並行する時期だと考えるのがよいと思っています。
紀元前七四年に即位した宣帝は下情に通じた名君として知られ、武帝死後の混乱した前漢王朝を安定させます。宣帝の子の元帝の時代が中期前半二期になりますが、匈奴との関係も良好で、前漢時代で最も平穏な時代でした。このころ倭人も楽浪郡を通じて前漢王朝と接触したと考えられます。倭人伝に「旧百余国、漢時有朝見者」とあるのはこのころのことでしょう。
福岡県春日市須玖岡本遺跡、飯塚市立岩遺跡、前原市三雲南小路遺跡などの出土品が流入してくるのがこの時期だと考えられます。ただこれらの遺跡の副葬品が作られた時と、副葬された時には時間差があると考えなければいけないでしょう。前漢王朝の滅亡が原因になって前漢鏡が価値を失い、王莽の新鏡や後漢初期の鏡が流入してきたことで副葬されるのであり、遺跡の実年代は紀元後一世紀前半以後になると思います。
紀元前三三年に成帝が即位しますが、このころから前漢末の社会不安が広がっていきます。次の哀帝は同性愛の相手を大司馬に任ずる愚帝でした。次の平帝も九歳で即位しましたが、14歳で王莽に毒殺されます。3期は変革期ですが、中期前半3期の中国は王莽による前漢王朝簒奪が準備された時期でした。
この中期前半で特記されなければならことは、儒教が国教として定着したことです。前漢の高祖、劉邦は遊侠の徒から成り上がって皇帝になりましたから、倫理思想とか政治思想には関心を持たず、儒者の勿体ぶった態度を嫌い儒者の冠帽に小便をしたといわれています。
しかし前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、武帝の治世の紀元前一三六年に、菫仲舒の奏上により五経博士が定められて、太学で儒教の経典である五経を講義させるようになります。しかしまだ国教として定着したわけではありません。儒学が国教として定着するのは紀元前四九年に即位した元帝以後のことです。
元帝は熱心な儒学信奉者で、まだ皇太子であったころ父の宣帝の統治を批判して儒教に元づく統治を進言しました。その執着ぶりに宣帝は「国家を乱すのは皇太子であろう」と嘆いたということですが、宣帝の嘆いた通りに元帝の甥の王蒙が儒学を弄して前漢を滅ぼすことになります。
元帝が父の宣帝に儒教に元づく統治を進言した時、宣帝は「王道と覇道とは時に応じて使い分けるものだ」と答えています。王道とは儒教に基づく統治であり、覇道とは秦の法治主義などを言っているのでしょう。元帝の統治時代は平穏で覇道は必要のないものでしたので儒教が重視されました。
即位した元帝は儒家を登用して彼らの言う理想的な政治を行おうとしました。孔子は周初期やそれ以前を理想的な社会とし、その時代の道徳を取り戻すことを目標としたが、登用された儒家は周初期やそれ以前の社会を再現すれば、それが理想的な社会だと考えていました。
周初期と前漢時代とでは時代背景が違いますから、当然のこととして矛盾が生じています。また思想には得てして理想論が加わりやすいものです。そのため元帝の政治は孔子の理想を追求するだけの、現実を無視したものになりました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。
こうしたことから孔子の思想に忠実であろうとする儒者を今文派というのに対し、儒教を現実に合うように解釈しようとする一派が生まれ、その一派を古文派と言っています。古文派は秦の始皇帝による「焚書坑儒」で焼け残った儒書をテキストにしていると称したのでこう呼ばれています。これが冊封体制によって倭人に伝わってきたようです。
ただし倭人がこの時に儒教を知ったというのではありません。中国の統治方法が儒教の教理に基づいており、冊封体制の根本原理でもあったので、倭人はこれを部族国家の統治方法として受け入れたのです。換言するとそうとは知らずに儒教を受け入れていたということでしょう。
儒教では宗廟祭祀が重視されていますが、私はそうとは知らずに儒教を受け入れたことが、青銅器を祭器に変えていく原因になっており、また神道が成立する要因にもなっていると考えています。青銅祭器は巨大な部族が同族関係にある宗族に配布しましたが、青銅祭器の配布を受けた宗族は、これを神体とする宗廟祭祀を行ないました。それが後に氏族の行なう氏神の祭りになり、神社の神体の鏡になると考えています。
武帝は108年に真番・辰国が遣使するのを衛氏朝鮮が妨害しているという、冊封体制の職約(義務)違反を理由にして衛氏朝鮮を滅ぼし、そしてその地に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置します。しかし真番・臨屯・玄菟の3郡は維持していくことができず、紀元前82年に真番・臨屯郡は廃止され玄菟郡も西に後退します。
ただ楽浪郡だけは真番・臨屯郡の果たしていた役割をも合わせ持つ、朝鮮半島経営の拠点になりました。これを大楽浪郡と言っていますが、中期前半は前漢の大楽浪郡時代に並行する時期だと考えるのがよいと思っています。
紀元前七四年に即位した宣帝は下情に通じた名君として知られ、武帝死後の混乱した前漢王朝を安定させます。宣帝の子の元帝の時代が中期前半二期になりますが、匈奴との関係も良好で、前漢時代で最も平穏な時代でした。このころ倭人も楽浪郡を通じて前漢王朝と接触したと考えられます。倭人伝に「旧百余国、漢時有朝見者」とあるのはこのころのことでしょう。
福岡県春日市須玖岡本遺跡、飯塚市立岩遺跡、前原市三雲南小路遺跡などの出土品が流入してくるのがこの時期だと考えられます。ただこれらの遺跡の副葬品が作られた時と、副葬された時には時間差があると考えなければいけないでしょう。前漢王朝の滅亡が原因になって前漢鏡が価値を失い、王莽の新鏡や後漢初期の鏡が流入してきたことで副葬されるのであり、遺跡の実年代は紀元後一世紀前半以後になると思います。
紀元前三三年に成帝が即位しますが、このころから前漢末の社会不安が広がっていきます。次の哀帝は同性愛の相手を大司馬に任ずる愚帝でした。次の平帝も九歳で即位しましたが、14歳で王莽に毒殺されます。3期は変革期ですが、中期前半3期の中国は王莽による前漢王朝簒奪が準備された時期でした。
この中期前半で特記されなければならことは、儒教が国教として定着したことです。前漢の高祖、劉邦は遊侠の徒から成り上がって皇帝になりましたから、倫理思想とか政治思想には関心を持たず、儒者の勿体ぶった態度を嫌い儒者の冠帽に小便をしたといわれています。
しかし前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、武帝の治世の紀元前一三六年に、菫仲舒の奏上により五経博士が定められて、太学で儒教の経典である五経を講義させるようになります。しかしまだ国教として定着したわけではありません。儒学が国教として定着するのは紀元前四九年に即位した元帝以後のことです。
元帝は熱心な儒学信奉者で、まだ皇太子であったころ父の宣帝の統治を批判して儒教に元づく統治を進言しました。その執着ぶりに宣帝は「国家を乱すのは皇太子であろう」と嘆いたということですが、宣帝の嘆いた通りに元帝の甥の王蒙が儒学を弄して前漢を滅ぼすことになります。
元帝が父の宣帝に儒教に元づく統治を進言した時、宣帝は「王道と覇道とは時に応じて使い分けるものだ」と答えています。王道とは儒教に基づく統治であり、覇道とは秦の法治主義などを言っているのでしょう。元帝の統治時代は平穏で覇道は必要のないものでしたので儒教が重視されました。
即位した元帝は儒家を登用して彼らの言う理想的な政治を行おうとしました。孔子は周初期やそれ以前を理想的な社会とし、その時代の道徳を取り戻すことを目標としたが、登用された儒家は周初期やそれ以前の社会を再現すれば、それが理想的な社会だと考えていました。
周初期と前漢時代とでは時代背景が違いますから、当然のこととして矛盾が生じています。また思想には得てして理想論が加わりやすいものです。そのため元帝の政治は孔子の理想を追求するだけの、現実を無視したものになりました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。
こうしたことから孔子の思想に忠実であろうとする儒者を今文派というのに対し、儒教を現実に合うように解釈しようとする一派が生まれ、その一派を古文派と言っています。古文派は秦の始皇帝による「焚書坑儒」で焼け残った儒書をテキストにしていると称したのでこう呼ばれています。これが冊封体制によって倭人に伝わってきたようです。
ただし倭人がこの時に儒教を知ったというのではありません。中国の統治方法が儒教の教理に基づいており、冊封体制の根本原理でもあったので、倭人はこれを部族国家の統治方法として受け入れたのです。換言するとそうとは知らずに儒教を受け入れていたということでしょう。
儒教では宗廟祭祀が重視されていますが、私はそうとは知らずに儒教を受け入れたことが、青銅器を祭器に変えていく原因になっており、また神道が成立する要因にもなっていると考えています。青銅祭器は巨大な部族が同族関係にある宗族に配布しましたが、青銅祭器の配布を受けた宗族は、これを神体とする宗廟祭祀を行ないました。それが後に氏族の行なう氏神の祭りになり、神社の神体の鏡になると考えています。
2009年10月16日金曜日
弥生時代前期後半
中区分の90年間を30年ごとに3期に小区分していますが、1期には草創期という性格があるようです。2期は1期の延長で比較的に平穏で大きな動きがありません。そして3期は変革期になっています。3期の変革が次の90年間の1期の草創に繋がっていて、それが繰替えされていくのですが、人間のバイオリズムがそうさせているとしか思えません。
前期前半を紀元前270年から180年までをとし、前期後半を180年から90年までとしますが、その前期前半3期の202年に劉邦が前漢皇帝として即位します。前期前半3期は中国を統一した秦が短期間で滅び、前漢が誕生するという、統一中国への変革期になっています。
劉邦は建国の功臣を王に冊封しますが、政権が安定するとこの王を排除し、国内の王は劉姓の同族に限定するようになります。劉邦の少年時代からの友人で燕王に冊封されていた廬綰も、匈奴と内通しているという嫌疑を受けて匈奴に亡命します。
廬綰が匈奴に亡命すると燕人の衛満も千余人をひきいて朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準(じゅん)を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定め、朝鮮王と称するようになります。
衛満は紀元前180年に前漢から朝鮮王に冊封されます。建国間もない前漢が国内政策と匈奴対策に腐心していたころ、衛氏朝鮮は周辺の部族国家を統合していき、紀元前150年ころには真番・辰国を支配下に置きます。
前期後半は倭人が衛氏朝鮮の影響を受けた時期で、朝鮮半島では銅矛、BⅡ式銅剣、銅戈、銅鐸が造られ、また多鈕細文鏡が作られ、それが倭国に流入してきます。玄界灘・響灘沿岸、あるいは日本海沿岸で、衛氏朝鮮に追われた渡来民を中心にした部族国家が生まれ、それが衛氏朝鮮と接触していたことが考えられます。
ただこれらの朝鮮半島製の青銅器が製作された時期と、日本で墓に副葬された時期とに年代差があることを考えなければならないようです。銅鏡の場合、その差は100年を最長として限りなくゼロに近づける説まで諸説がありますが、概して数値の設定は恣意的で、発表年が新しくなるに従ってゼロに近づく傾向があります。
しかし近いとは言ってもその差がゼロということはあり得ません。柳田康雄氏は当時の平均寿命を4~50年と考えて王の在位期間を2~30年とし、鏡が作られた時に2~30年をプラスしたものが副葬された時期とされていますが、最短でもそれくらいの経過を見込まなければならないでしょう。
私は鏡は威信財であり、鏡が造られた時に、鏡としての価値がなくなるまでの期間をプラスしたものが副葬された時だと考えます。鏡が副葬される時期についての問題点は、鏡に備わっている威信を一代限りのものと見るか、それとも威信は子孫が継承したと見るかの違いにあるように思います。
威信を自分の子や孫に伝えたいと思うのが古今を問わない人情であろうと思います。鏡に威信財としての価値がある間は子、孫へと伝世され、同時に鏡によって顕示されることになる威信も子孫に伝えられていくが、その価値がなくなった時に所有者が死ぬと副葬されるのだと思います。
多鈕細文鏡が造られたのは衛氏朝鮮時代ですが、紀元前108年に楽浪郡が設置されて倭人が中国の冊封体制に組み込まれ、前漢後半の鏡が流入して来たことにより多鈕細文鏡が価値を失い副葬されたことが考えられます。
製作時期と埋納時期の差をゼロに近づけることが進歩的だとは言えないように思います。朝鮮半島製の青銅器を副葬している墓の年代は紀元前108年以後だと考えなければならないでしょう。
前期前半を紀元前270年から180年までをとし、前期後半を180年から90年までとしますが、その前期前半3期の202年に劉邦が前漢皇帝として即位します。前期前半3期は中国を統一した秦が短期間で滅び、前漢が誕生するという、統一中国への変革期になっています。
劉邦は建国の功臣を王に冊封しますが、政権が安定するとこの王を排除し、国内の王は劉姓の同族に限定するようになります。劉邦の少年時代からの友人で燕王に冊封されていた廬綰も、匈奴と内通しているという嫌疑を受けて匈奴に亡命します。
廬綰が匈奴に亡命すると燕人の衛満も千余人をひきいて朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準(じゅん)を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定め、朝鮮王と称するようになります。
衛満は紀元前180年に前漢から朝鮮王に冊封されます。建国間もない前漢が国内政策と匈奴対策に腐心していたころ、衛氏朝鮮は周辺の部族国家を統合していき、紀元前150年ころには真番・辰国を支配下に置きます。
前期後半は倭人が衛氏朝鮮の影響を受けた時期で、朝鮮半島では銅矛、BⅡ式銅剣、銅戈、銅鐸が造られ、また多鈕細文鏡が作られ、それが倭国に流入してきます。玄界灘・響灘沿岸、あるいは日本海沿岸で、衛氏朝鮮に追われた渡来民を中心にした部族国家が生まれ、それが衛氏朝鮮と接触していたことが考えられます。
ただこれらの朝鮮半島製の青銅器が製作された時期と、日本で墓に副葬された時期とに年代差があることを考えなければならないようです。銅鏡の場合、その差は100年を最長として限りなくゼロに近づける説まで諸説がありますが、概して数値の設定は恣意的で、発表年が新しくなるに従ってゼロに近づく傾向があります。
しかし近いとは言ってもその差がゼロということはあり得ません。柳田康雄氏は当時の平均寿命を4~50年と考えて王の在位期間を2~30年とし、鏡が作られた時に2~30年をプラスしたものが副葬された時期とされていますが、最短でもそれくらいの経過を見込まなければならないでしょう。
私は鏡は威信財であり、鏡が造られた時に、鏡としての価値がなくなるまでの期間をプラスしたものが副葬された時だと考えます。鏡が副葬される時期についての問題点は、鏡に備わっている威信を一代限りのものと見るか、それとも威信は子孫が継承したと見るかの違いにあるように思います。
威信を自分の子や孫に伝えたいと思うのが古今を問わない人情であろうと思います。鏡に威信財としての価値がある間は子、孫へと伝世され、同時に鏡によって顕示されることになる威信も子孫に伝えられていくが、その価値がなくなった時に所有者が死ぬと副葬されるのだと思います。
多鈕細文鏡が造られたのは衛氏朝鮮時代ですが、紀元前108年に楽浪郡が設置されて倭人が中国の冊封体制に組み込まれ、前漢後半の鏡が流入して来たことにより多鈕細文鏡が価値を失い副葬されたことが考えられます。
製作時期と埋納時期の差をゼロに近づけることが進歩的だとは言えないように思います。朝鮮半島製の青銅器を副葬している墓の年代は紀元前108年以後だと考えなければならないでしょう。
2009年10月14日水曜日
弥生時代の実年代 その4
私は弥生時代は部族が国を形成していた時代だと考えています。弥生時代の始まりについては稲作の始まった時だとか、弥生式系の土器が作られ始めた時だとする考え方があるようですが、私は部族国家が出現した時に弥生時代が始まると考えるのがよいと思っています。部族国家についてはすでに述べていますが、部族のことがほとんど考えられていないことが、弥生時代を分かり難くしているように思っています。
紀元前一〇八年に楽浪郡が設置されると、倭人も冊封体制に組み込まれますが、弥生時代の倭国は中国、朝鮮半島の影響を強く受けており、冊封体制と倭人の部族国家や時代区分に関係がないとは思えません。
周は姫氏の一族が支配する国でしたが、紀元前403年、周王が韓、魏、趙の3氏を諸侯と認めたことにより姫氏の一族の晋が滅びます。385年には田氏が諸侯に任ぜられて、やはり姫氏の一族の斉を乗っ取ります。こうして姫氏一族の支配は衰退していき、戦国七雄といわれる諸国が勢揃いします。戦国時代の始まりですが、弥生時代前期の前に早期を置く説ではこのころを早期の始めとする説があります。
七雄の諸国は諸子百家と呼ばれる人材を登用して富国強兵を図りますが、それが最も成功したのが秦でした。紀元前361年、秦の孝公は法家の商鞅(しょうおう)を登用して商鞅変法と呼ばれる政治改革を行い、七雄最強の国になります。その秦の名君として知られているのが昭襄王で、紀元前307年から251年まで、56年間在位しました。この昭襄王の時代に後の始皇帝による中国統一の基礎が確立します。
同じころ燕の昭王(在位前313~279)も、「まず隗(かい)より始めよ」の故事で知られる人材登用を行い、楽毅、蘇秦、鄒衍、劇辛などの人材が集まりました。紀元前311年、昭王は東胡を討伐し、その地に遼東、遼西、右北平、魚陽、上谷の五郡を設置しますが、このころ朝鮮半島には箕氏朝鮮(きしちょうせん)がありました。
五郡の設置で遼東方面の韓族が朝鮮半島に移動したと言われており、漢族と箕氏朝鮮の接触が始まりますが、その影響で朝鮮半島の韓族が南下し、その一部が海を渡って倭国に来たことが考えられます。このことが弥生時代の始まりの直接の原因になっているように思われます。
その後箕氏朝鮮が燕の意に従わなくなり、前284年、燕は武将の秦開を遣わして二千余里の土地を奪い、満番汗(まんばんかん)という土地まで兵を進め、そこを燕と箕氏朝鮮の国境にします。箕氏朝鮮はその後力を失い、秦が燕を滅ぼした後にはこれに従属するようになります。
秦や燕、あるいは箕氏朝鮮の動きに触発されて弥生時代が始まると考えるのですが、紀元前3世紀の前半ころまでには確実に弥生時代になるようです。ですから前期の前に早期を置く説に従えば、早期の始まりを秦の孝公が商鞅を登用した紀元前360年ころとすることができそうに思われます。
『山海経』海内北経(紀元前後に成立)には「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」という記述があります。蓋国は高句麗領の蓋馬に在った国だといわれていますが、「倭属燕」とありますから、倭人が燕と接触していたことが考えられます。冊封関係があったのなら面白いのですが記録にはありません。対馬で遼寧式銅剣が出土しているのはこのことを示しているのかも知れません。
また『漢書』地理志の燕地の条には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って献見るすと云う」とあります。燕は紀元前222年に滅んでいますし、百余国の遣使も紀元前一世紀のことと考えられていますから、この文が倭人と燕との接触を示しているとは言えませんが、少なくとも倭国と燕は無関係ではないとは言えそうです。
倭人の部族は秦や燕、あるいは箕氏朝鮮と接触することによって国という統治機構を持つようになることが考えられます。それまでの部族は通婚によって結びついた同族集団でした。水利を共有し、物資を融通し合ったり共同して敵と戦ったりする「文化統一体」でしたが、それが秦や燕と接触したことによって「政治統一体」に変質し始めるのだと考えます。その変化が弥生時代の始まりとして捉えられているように思います。
紀元前一〇八年に楽浪郡が設置されると、倭人も冊封体制に組み込まれますが、弥生時代の倭国は中国、朝鮮半島の影響を強く受けており、冊封体制と倭人の部族国家や時代区分に関係がないとは思えません。
周は姫氏の一族が支配する国でしたが、紀元前403年、周王が韓、魏、趙の3氏を諸侯と認めたことにより姫氏の一族の晋が滅びます。385年には田氏が諸侯に任ぜられて、やはり姫氏の一族の斉を乗っ取ります。こうして姫氏一族の支配は衰退していき、戦国七雄といわれる諸国が勢揃いします。戦国時代の始まりですが、弥生時代前期の前に早期を置く説ではこのころを早期の始めとする説があります。
七雄の諸国は諸子百家と呼ばれる人材を登用して富国強兵を図りますが、それが最も成功したのが秦でした。紀元前361年、秦の孝公は法家の商鞅(しょうおう)を登用して商鞅変法と呼ばれる政治改革を行い、七雄最強の国になります。その秦の名君として知られているのが昭襄王で、紀元前307年から251年まで、56年間在位しました。この昭襄王の時代に後の始皇帝による中国統一の基礎が確立します。
同じころ燕の昭王(在位前313~279)も、「まず隗(かい)より始めよ」の故事で知られる人材登用を行い、楽毅、蘇秦、鄒衍、劇辛などの人材が集まりました。紀元前311年、昭王は東胡を討伐し、その地に遼東、遼西、右北平、魚陽、上谷の五郡を設置しますが、このころ朝鮮半島には箕氏朝鮮(きしちょうせん)がありました。
五郡の設置で遼東方面の韓族が朝鮮半島に移動したと言われており、漢族と箕氏朝鮮の接触が始まりますが、その影響で朝鮮半島の韓族が南下し、その一部が海を渡って倭国に来たことが考えられます。このことが弥生時代の始まりの直接の原因になっているように思われます。
その後箕氏朝鮮が燕の意に従わなくなり、前284年、燕は武将の秦開を遣わして二千余里の土地を奪い、満番汗(まんばんかん)という土地まで兵を進め、そこを燕と箕氏朝鮮の国境にします。箕氏朝鮮はその後力を失い、秦が燕を滅ぼした後にはこれに従属するようになります。
秦や燕、あるいは箕氏朝鮮の動きに触発されて弥生時代が始まると考えるのですが、紀元前3世紀の前半ころまでには確実に弥生時代になるようです。ですから前期の前に早期を置く説に従えば、早期の始まりを秦の孝公が商鞅を登用した紀元前360年ころとすることができそうに思われます。
『山海経』海内北経(紀元前後に成立)には「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」という記述があります。蓋国は高句麗領の蓋馬に在った国だといわれていますが、「倭属燕」とありますから、倭人が燕と接触していたことが考えられます。冊封関係があったのなら面白いのですが記録にはありません。対馬で遼寧式銅剣が出土しているのはこのことを示しているのかも知れません。
また『漢書』地理志の燕地の条には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って献見るすと云う」とあります。燕は紀元前222年に滅んでいますし、百余国の遣使も紀元前一世紀のことと考えられていますから、この文が倭人と燕との接触を示しているとは言えませんが、少なくとも倭国と燕は無関係ではないとは言えそうです。
倭人の部族は秦や燕、あるいは箕氏朝鮮と接触することによって国という統治機構を持つようになることが考えられます。それまでの部族は通婚によって結びついた同族集団でした。水利を共有し、物資を融通し合ったり共同して敵と戦ったりする「文化統一体」でしたが、それが秦や燕と接触したことによって「政治統一体」に変質し始めるのだと考えます。その変化が弥生時代の始まりとして捉えられているように思います。
2009年10月12日月曜日
弥生時代の実年代 その3
弥生時代の実年代は流動的で研究者によって違いがあります。そこで私は弥生時代を180年ごとに大区分し、これをさらに90年ごとに中区分し、30年ごとに小区分して実年代を推定することにしています。もちろん時代区分は今日までが中期で明日からは後期になるというような機械的なものではありませんから、これはあくまでも通説に準拠した目安に過ぎません。
そこで各期の境の前後には三〇年間のグレーゾーンを設定することにしています。弥生時代の終わりの場合は、270年の前後の各15年間で、255年から285年までの30年間の或る時期だと考えるわけです。弥生時代の始まりも紀元前255年から285年までの、或る時期だというふうに考えます。
例えば奈良県箸墓古墳の外提から出土したという「布留0(ふるゼロ)式土器」の場合、後期終末か古墳時代初頭の土器ということなので、その実年代は255年~285年になるだろうと判断するわけです。従って国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表した炭素14年代測定法による240~260年という年代は、15~25年ほど古く見ていると判断するのです。
私は邪馬台国は北部九州に在ったと考えていますので箸墓が卑弥呼の墓だとは考えませんが、いずれにしても布留0式土器は、卑弥呼の死んだ247年よりも後のものということになります。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮(筑前遠賀郡)滞在中に行なわれたと考え、箸墓古墳は神武天皇の墓だと考えています。
弥生式土器は1世代1形式と言われていますが、那珂通世は『上世年紀考』の中で、孔安国が『論語』に「三〇年を世という」としていることや、許慎が『説文』で「三〇年を一世とする」としていることを紹介しています。30年ごとに小さな文化の変化が起きると考えなければならないようです。
例えば後期後半の場合、倭国に大乱の起きた180年から三世紀後半の270年までの90年間だと判断するわけですが、この90年間をさらに30年ごとに3区分すると、1期は180~210年に、2期は210~240年に、3期は240~270年になります。
後期後半1期は倭国大乱で王の居なかった時期だと考えることができ、卑弥呼はまだ即位していなかった可能性があります。2期は卑弥呼が確実に王であった時期に当たります。3期は台与とその後の男王の時代になります。そして270年に弥生時代が終わることになります。
私はこの180年ごとの大区分、90年ごとの中区分、30年ごとの小区分は根拠のない数ではないと考えています。それには人間のバイオリズムが関係しているようです。一般家庭でも30歳までには親になり、60歳で孫を持つことになって、30年で世代交代が起きています。
私は自分を運命論者とは思っていませんが、90歳になったころに死ぬことは間違いありません。90年は人間の寿命に当たります。180年は祖父母から聞いたことを孫に語って聞かせる期間に相当します。文字のない時代には歴史は口伝されましたが、それは180年が限度でしょう。
倭人伝に「其人壽考。或百年、或八九十年」とありますが、倭人の寿命は100年、あるいは8~90年だとされています。平均寿命は生活環境に左右されて変わりますが、寿命は80~90年で変わりません。
これは人間のバイオリズムであって、それを人間が変えることはできません。歴史も人間のバイオリズムに合わせて変わっていくようです。那珂通世は30年を一世代と考えていますが、およそ30年ごとに世代交替があり、90年で生きている人間が全部入れ替わって過去の歴史が忘れられ、それにつれて時代が変わっていくようです。
幕末のペリーの来航から1945年の終戦までの、およそ90年間もその例だと考えます。列強諸国に「追い着け・追い越せ」の文化が破綻したのが1945年であり、その後には「東洋の奇跡」と言われている経済発展を遂げることになります。
そして6世代180年で社会が一変するようです。中国の歴史を見ても、およそ90年ごとに歴史を大きく変えてしまうような事件が起きたり、名君、賢臣が現れ、あるいは逆に暗君、愚臣が現れたりしているように見えます。そして事実として前漢・後漢王朝は実質180年間で消滅しています。
それに連動して倭国にも動きが出てきます。前々回紹介したように西島定生氏は中国を中心とした「東アジア世界」という領域を設定し、その中で日本の歴史を再考察すべきだと提唱されていますが、倭国の歴史は中国・朝鮮半島の歴史に連動しています。
それは90年あるいは180年ごとに変化しています。表は中国・朝鮮半島の歴史に連動した、私の考える前期後半以後の時代区分です。
そこで各期の境の前後には三〇年間のグレーゾーンを設定することにしています。弥生時代の終わりの場合は、270年の前後の各15年間で、255年から285年までの30年間の或る時期だと考えるわけです。弥生時代の始まりも紀元前255年から285年までの、或る時期だというふうに考えます。
例えば奈良県箸墓古墳の外提から出土したという「布留0(ふるゼロ)式土器」の場合、後期終末か古墳時代初頭の土器ということなので、その実年代は255年~285年になるだろうと判断するわけです。従って国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表した炭素14年代測定法による240~260年という年代は、15~25年ほど古く見ていると判断するのです。
私は邪馬台国は北部九州に在ったと考えていますので箸墓が卑弥呼の墓だとは考えませんが、いずれにしても布留0式土器は、卑弥呼の死んだ247年よりも後のものということになります。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮(筑前遠賀郡)滞在中に行なわれたと考え、箸墓古墳は神武天皇の墓だと考えています。
弥生式土器は1世代1形式と言われていますが、那珂通世は『上世年紀考』の中で、孔安国が『論語』に「三〇年を世という」としていることや、許慎が『説文』で「三〇年を一世とする」としていることを紹介しています。30年ごとに小さな文化の変化が起きると考えなければならないようです。
例えば後期後半の場合、倭国に大乱の起きた180年から三世紀後半の270年までの90年間だと判断するわけですが、この90年間をさらに30年ごとに3区分すると、1期は180~210年に、2期は210~240年に、3期は240~270年になります。
後期後半1期は倭国大乱で王の居なかった時期だと考えることができ、卑弥呼はまだ即位していなかった可能性があります。2期は卑弥呼が確実に王であった時期に当たります。3期は台与とその後の男王の時代になります。そして270年に弥生時代が終わることになります。
私はこの180年ごとの大区分、90年ごとの中区分、30年ごとの小区分は根拠のない数ではないと考えています。それには人間のバイオリズムが関係しているようです。一般家庭でも30歳までには親になり、60歳で孫を持つことになって、30年で世代交代が起きています。
私は自分を運命論者とは思っていませんが、90歳になったころに死ぬことは間違いありません。90年は人間の寿命に当たります。180年は祖父母から聞いたことを孫に語って聞かせる期間に相当します。文字のない時代には歴史は口伝されましたが、それは180年が限度でしょう。
倭人伝に「其人壽考。或百年、或八九十年」とありますが、倭人の寿命は100年、あるいは8~90年だとされています。平均寿命は生活環境に左右されて変わりますが、寿命は80~90年で変わりません。
これは人間のバイオリズムであって、それを人間が変えることはできません。歴史も人間のバイオリズムに合わせて変わっていくようです。那珂通世は30年を一世代と考えていますが、およそ30年ごとに世代交替があり、90年で生きている人間が全部入れ替わって過去の歴史が忘れられ、それにつれて時代が変わっていくようです。
幕末のペリーの来航から1945年の終戦までの、およそ90年間もその例だと考えます。列強諸国に「追い着け・追い越せ」の文化が破綻したのが1945年であり、その後には「東洋の奇跡」と言われている経済発展を遂げることになります。
そして6世代180年で社会が一変するようです。中国の歴史を見ても、およそ90年ごとに歴史を大きく変えてしまうような事件が起きたり、名君、賢臣が現れ、あるいは逆に暗君、愚臣が現れたりしているように見えます。そして事実として前漢・後漢王朝は実質180年間で消滅しています。
それに連動して倭国にも動きが出てきます。前々回紹介したように西島定生氏は中国を中心とした「東アジア世界」という領域を設定し、その中で日本の歴史を再考察すべきだと提唱されていますが、倭国の歴史は中国・朝鮮半島の歴史に連動しています。
それは90年あるいは180年ごとに変化しています。表は中国・朝鮮半島の歴史に連動した、私の考える前期後半以後の時代区分です。
2009年10月11日日曜日
弥生時代の実年代 その2
弥生時代は紀元前3世紀から3世紀にかけてのおよそ数百年間だとされ、前期、中期、後期に3区分されていますが、最近では早期・前期・中期・後期に4区分することが主流になりつつあります。
しかしその実年代については非常に流動的で近年では「年輪年代法」や「炭素14年代測定法」により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説が出てきています。
表は都出比呂志氏の『古代国家はこうして生まれた』(角川書店、1998年)から引用させていただいたものです。表でも分かるように研究者によって実年代が異なり、また実年代が示されていてもそれが実年代として正しいのか判断に迷います。
近畿の研究者と九州の研究者とでも違いがありますし、最近では炭素14年代測定法によって中期の始まりを紀元前400年ころとする考えも出てきています。
ある研究者の後期後半と、別の研究者の「古式土師器の時代」とはどのように違うのかとなるとさらに混乱してきます。そこで私は個々の研究者の年代観とは別の、私流の年代観で実年代を判断することにしています。
弥生時代を前期180年間、中期180年間、後期180年間に大区分しようというもので、弥生時代の始まりは紀元前270年とします。中期の始まりは紀元前90年になり、後期の始まりは紀元後90年になって、弥生時代の終わりは紀元後270年になります。そして180年を90年ごとに中区分します。
つまり前期の土器を6形式に分類して、それは180年間に作られたことにしてしまおうというのです。中期・後期も同様で弥生時代全体では18形式が540年間に作られたと考えるわけです。縄文時代と古墳時代との境に各1形式を置けば20形式、600年間になります。
この年代観は結果的には、1960年に杉原荘介氏(1913~83)が発表し、その後しばらく影響力を持っていた説の焼き直しということになります。杉原氏は1期間を100年としています。それを10年短縮して90年にしたに過ぎないのですが、半世紀も前のクラシックな年代観だと言えます。
ただ10年短縮したことによりその分だけ現在の通説に近くなっています。杉原氏は弥生時代の終わりを300年ごろとしていますが、私の年代観だと270年になって、3世紀後半とする最近の通説に近くなっています。中期と後期の境も通説では1世紀中葉とされていますが、私の年代観では90年になり杉原氏の説より10年だけ近くなります。
寺沢氏は近畿地方の弥生式土器を19形式に分類され、弥生時代と古墳時代の境に4形式の庄内式を入れています。寺沢氏の分類では庄内式は弥生時代の土器なのか、それとも古墳時代の土器なのか判然としませんが、4形式を半分ずつにすると弥生時代の土器を、およそ21・2形式程度に分類されていると見ることができます。
弥生時代を600年間とすると29年で形式に変化が起きることになりますが、およそ30年が土器の形式に変化の起きる期間だとするのです。ただしこの方法は前期の前に早期を置く4区分では矛盾が生じるようです。
弥生式土器は一世代一形式といわれています。早期の1形式が30年間で変化するようには思えませんが、幸いなことに地方ごとの土器の形式分類は緻密に行われています。この土器の形式分類の1形式を強引に小区分(30年間)に当て嵌めてしまおうというのです。
しかしその実年代については非常に流動的で近年では「年輪年代法」や「炭素14年代測定法」により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説が出てきています。
表は都出比呂志氏の『古代国家はこうして生まれた』(角川書店、1998年)から引用させていただいたものです。表でも分かるように研究者によって実年代が異なり、また実年代が示されていてもそれが実年代として正しいのか判断に迷います。
近畿の研究者と九州の研究者とでも違いがありますし、最近では炭素14年代測定法によって中期の始まりを紀元前400年ころとする考えも出てきています。
ある研究者の後期後半と、別の研究者の「古式土師器の時代」とはどのように違うのかとなるとさらに混乱してきます。そこで私は個々の研究者の年代観とは別の、私流の年代観で実年代を判断することにしています。
弥生時代を前期180年間、中期180年間、後期180年間に大区分しようというもので、弥生時代の始まりは紀元前270年とします。中期の始まりは紀元前90年になり、後期の始まりは紀元後90年になって、弥生時代の終わりは紀元後270年になります。そして180年を90年ごとに中区分します。
つまり前期の土器を6形式に分類して、それは180年間に作られたことにしてしまおうというのです。中期・後期も同様で弥生時代全体では18形式が540年間に作られたと考えるわけです。縄文時代と古墳時代との境に各1形式を置けば20形式、600年間になります。
この年代観は結果的には、1960年に杉原荘介氏(1913~83)が発表し、その後しばらく影響力を持っていた説の焼き直しということになります。杉原氏は1期間を100年としています。それを10年短縮して90年にしたに過ぎないのですが、半世紀も前のクラシックな年代観だと言えます。
ただ10年短縮したことによりその分だけ現在の通説に近くなっています。杉原氏は弥生時代の終わりを300年ごろとしていますが、私の年代観だと270年になって、3世紀後半とする最近の通説に近くなっています。中期と後期の境も通説では1世紀中葉とされていますが、私の年代観では90年になり杉原氏の説より10年だけ近くなります。
寺沢氏は近畿地方の弥生式土器を19形式に分類され、弥生時代と古墳時代の境に4形式の庄内式を入れています。寺沢氏の分類では庄内式は弥生時代の土器なのか、それとも古墳時代の土器なのか判然としませんが、4形式を半分ずつにすると弥生時代の土器を、およそ21・2形式程度に分類されていると見ることができます。
弥生時代を600年間とすると29年で形式に変化が起きることになりますが、およそ30年が土器の形式に変化の起きる期間だとするのです。ただしこの方法は前期の前に早期を置く4区分では矛盾が生じるようです。
弥生式土器は一世代一形式といわれています。早期の1形式が30年間で変化するようには思えませんが、幸いなことに地方ごとの土器の形式分類は緻密に行われています。この土器の形式分類の1形式を強引に小区分(30年間)に当て嵌めてしまおうというのです。
2009年10月8日木曜日
弥生時代の実年代 その1
倭人伝の記述と神話がどのように似ているかを見てきましたが、天の岩戸の神話と卑弥呼の死の前後の様子とは非常によく似ています。主として倭人伝の人物と神話の神との関係を述べましたが、安本美典氏は一連の著書で人物以外にも似ている点の多いことを具体的に述べられています。
都市牛利・以聲耆・載斯烏越についても触れてみたいのですが、残念ながらこの3人には具体的な動きがなく特徴がありません。いずれにしても天の岩戸から天孫降臨にかけて活動する神に当たると考えてよいようです。天石門別神や玉祖命・天児屋命・布刀玉命などを考えてよいでしょう。
私がこのような考えを持つに至ったについては、安本氏の著書に接したことが大きいのですが、違う点もあります。そのひとつは3世紀にも面土国が存在しており、スサノオは面土国王だということです。面土国の存在を認め、それを解明するという視線で神話に接すると、神話が史実を含んでいることがよく理解できるようになってきます。
しかし神話には史実と創作とがないまぜになった危うさがあって、創作部分にこだわると「神話の迷路」に迷い込むことになります。「神話の迷路」とは後世に加わった創作部分に、さらに恣意的な解釈を加えるということです。考古学・民族学など実証を重視する分野と神話との間には、越えがたい障壁がありますが、その原因の一つに「神話の迷路」に迷い込んだ説が氾濫していることがあるようです。
倭人伝と神話の関係を見てきましたが、ここでいったん神話を終わり、次回から年代論に入ります。年代論は地味であまり面白くないかもしれませんが、邪馬台国の位置と同様に大事なことのようです。それに関して西島定生氏は『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成六年)で次のように述べています。
日本の歴史を考えるばあいに、日本の国内だけに目を向けていては、十分な理解が得られないと言うことである。これが、大陸あるいはヨーロッパの歴史であると、そのようなことは常識であって、一つの国だけで独自の歴史が展開するということはなく、当然周辺の諸民族ないしは諸国家と関係しながら、その歴史が進行するのである。
ところが日本のばあいには、幸か不幸か島国であって、大陸とは海を隔てているために、ともすれば、日本の歴史というものは日本だけで完結しているという考え方が意識的、無意識的に生じやすい。もちろん大陸との交渉があったことは何人も知っていながらも、なおかつ基本的には、日本の国内だけで歴史の進行が行われているごとく考えやすい。
西嶋氏は中国を中心とした「東アジア世界」という領域を設定し、その中で日本の歴史を再考察すべきだと提唱されています。西嶋氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制をあげ、これらの文化が伝播してきたことにも冊封体制が貢献をしていると見ています。
東アジア世界を結び付けているのが冊封体制です。紀元前108年、前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡を設置して以後、倭人も冊封体制に組み込まれて中国の影響を強く受けるようになります。しかし冊封体制は外交儀礼のように思われていて、あまり意識されていないようです。
弥生時代の日本は中国を中心とする「東アジア世界」の一員でしたが、西嶋氏の述べられるように日本では「それでもなおかつ基本的には、日本の国内だけで歴史の進行が行われているごとく考え」られています。この点を追及してみたいと思っています。
都市牛利・以聲耆・載斯烏越についても触れてみたいのですが、残念ながらこの3人には具体的な動きがなく特徴がありません。いずれにしても天の岩戸から天孫降臨にかけて活動する神に当たると考えてよいようです。天石門別神や玉祖命・天児屋命・布刀玉命などを考えてよいでしょう。
私がこのような考えを持つに至ったについては、安本氏の著書に接したことが大きいのですが、違う点もあります。そのひとつは3世紀にも面土国が存在しており、スサノオは面土国王だということです。面土国の存在を認め、それを解明するという視線で神話に接すると、神話が史実を含んでいることがよく理解できるようになってきます。
しかし神話には史実と創作とがないまぜになった危うさがあって、創作部分にこだわると「神話の迷路」に迷い込むことになります。「神話の迷路」とは後世に加わった創作部分に、さらに恣意的な解釈を加えるということです。考古学・民族学など実証を重視する分野と神話との間には、越えがたい障壁がありますが、その原因の一つに「神話の迷路」に迷い込んだ説が氾濫していることがあるようです。
倭人伝と神話の関係を見てきましたが、ここでいったん神話を終わり、次回から年代論に入ります。年代論は地味であまり面白くないかもしれませんが、邪馬台国の位置と同様に大事なことのようです。それに関して西島定生氏は『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成六年)で次のように述べています。
日本の歴史を考えるばあいに、日本の国内だけに目を向けていては、十分な理解が得られないと言うことである。これが、大陸あるいはヨーロッパの歴史であると、そのようなことは常識であって、一つの国だけで独自の歴史が展開するということはなく、当然周辺の諸民族ないしは諸国家と関係しながら、その歴史が進行するのである。
ところが日本のばあいには、幸か不幸か島国であって、大陸とは海を隔てているために、ともすれば、日本の歴史というものは日本だけで完結しているという考え方が意識的、無意識的に生じやすい。もちろん大陸との交渉があったことは何人も知っていながらも、なおかつ基本的には、日本の国内だけで歴史の進行が行われているごとく考えやすい。
西嶋氏は中国を中心とした「東アジア世界」という領域を設定し、その中で日本の歴史を再考察すべきだと提唱されています。西嶋氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制をあげ、これらの文化が伝播してきたことにも冊封体制が貢献をしていると見ています。
東アジア世界を結び付けているのが冊封体制です。紀元前108年、前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡を設置して以後、倭人も冊封体制に組み込まれて中国の影響を強く受けるようになります。しかし冊封体制は外交儀礼のように思われていて、あまり意識されていないようです。
弥生時代の日本は中国を中心とする「東アジア世界」の一員でしたが、西嶋氏の述べられるように日本では「それでもなおかつ基本的には、日本の国内だけで歴史の進行が行われているごとく考え」られています。この点を追及してみたいと思っています。
2009年10月2日金曜日
大気都比売
白鳥庫吉はスサノオを狗奴国の男王だと考えていますが、スサノオは面土国王ですから、天照大神とスサノオの対立は女王国と狗奴国の対立ではありません。『日本書紀』第十一の一書と『古事記』は殺された神の体から五穀と牛馬、あるいは蚕が化成するという同質の物語を伝えています。
『日本書紀』はツキヨミが保食神(うけもちのかみ)を殺したとし、『古事記』はスサノヲが大気都比売(おおけつひめ)を殺したとしていますが、両者は食物の神であることが共通しています。『日本書紀』では天照大神に保食神を見てくるようにと命ぜられたツキヨミが、命令に反して保食神を殺したため、天照大神とツキヨミが一日一夜隔て離れて住むようになったとされています。
よく知られているように狗奴国に比定できる阿蘇外輪山のなだらかで広大な台地は、日本有数の畑作地帯になっています。そして眼前の内海は魚介類の宝庫です。この神話は五穀の起源を語っていますが肥後の農作が意識されており、このことが狗奴国との対立に結び付けられているようです。
その時期は『古事記』ではスサノヲが高天原を追放されて出雲に下る前のことになっています。ツキヨミが保食神を殺す物語もスサノヲが大気都比売を殺す物語も、卑弥呼死後の争乱の事後処理が行われ、面土国王が滅ぶころのことになります。
二四七年に帯方郡使の張政が難升米に黄幢と詔書を届けに来ますが、黄幢の性格から見て詔書には難升米が魏の武官として狗奴国を討伐することを許可するということが書かれていたはずです。難升米はこの黄幢と詔書を根拠として、狗奴国の官の狗古智卑狗、あるいは狗奴国の男王の卑弥狗呼を討伐するのでしょう。
大気都比売、あるいは保食神は狗奴国の官の狗古智卑狗、あるいは狗奴国の男王の卑弥狗呼だと思われます。狗古智卑狗は菊地彦のことで、肥後の菊池川流域の支配者であることが考えられます。
菊地川流域などの肥後北半には青銅祭器や須玖式系土器が分布しており、北九州文化圏に属しています。ところが緑川流域から南は「火の国」の文化で、菊池川流域は北部九州の文化と南部九州の接点になっています。
ツキヨミは保食神から、またスサノヲは大気都比売から饗応を受けますが、食物を汚しているとして保食神、あるいは大気都比売は殺されています。狗古智卑狗は北部九州勢力と南部九州勢力の両方から影響を受けており、両面外交を余儀なくされていたように思われます。
この神話から狗古智卑狗が殺され狗奴国が滅ぶことが考えられます。女王国内では面土国王が滅び、さらに狗奴国も滅ぶようです。この時点で九州の半分が統合されたのです。とすれば次は全九州の統合ということになりますが、これがニニギの天孫降臨の神話になっています。
『日本書紀』はツキヨミが保食神(うけもちのかみ)を殺したとし、『古事記』はスサノヲが大気都比売(おおけつひめ)を殺したとしていますが、両者は食物の神であることが共通しています。『日本書紀』では天照大神に保食神を見てくるようにと命ぜられたツキヨミが、命令に反して保食神を殺したため、天照大神とツキヨミが一日一夜隔て離れて住むようになったとされています。
よく知られているように狗奴国に比定できる阿蘇外輪山のなだらかで広大な台地は、日本有数の畑作地帯になっています。そして眼前の内海は魚介類の宝庫です。この神話は五穀の起源を語っていますが肥後の農作が意識されており、このことが狗奴国との対立に結び付けられているようです。
その時期は『古事記』ではスサノヲが高天原を追放されて出雲に下る前のことになっています。ツキヨミが保食神を殺す物語もスサノヲが大気都比売を殺す物語も、卑弥呼死後の争乱の事後処理が行われ、面土国王が滅ぶころのことになります。
二四七年に帯方郡使の張政が難升米に黄幢と詔書を届けに来ますが、黄幢の性格から見て詔書には難升米が魏の武官として狗奴国を討伐することを許可するということが書かれていたはずです。難升米はこの黄幢と詔書を根拠として、狗奴国の官の狗古智卑狗、あるいは狗奴国の男王の卑弥狗呼を討伐するのでしょう。
大気都比売、あるいは保食神は狗奴国の官の狗古智卑狗、あるいは狗奴国の男王の卑弥狗呼だと思われます。狗古智卑狗は菊地彦のことで、肥後の菊池川流域の支配者であることが考えられます。
菊地川流域などの肥後北半には青銅祭器や須玖式系土器が分布しており、北九州文化圏に属しています。ところが緑川流域から南は「火の国」の文化で、菊池川流域は北部九州の文化と南部九州の接点になっています。
ツキヨミは保食神から、またスサノヲは大気都比売から饗応を受けますが、食物を汚しているとして保食神、あるいは大気都比売は殺されています。狗古智卑狗は北部九州勢力と南部九州勢力の両方から影響を受けており、両面外交を余儀なくされていたように思われます。
この神話から狗古智卑狗が殺され狗奴国が滅ぶことが考えられます。女王国内では面土国王が滅び、さらに狗奴国も滅ぶようです。この時点で九州の半分が統合されたのです。とすれば次は全九州の統合ということになりますが、これがニニギの天孫降臨の神話になっています。
2009年10月1日木曜日
猿田彦
ニニギが天降り(あまくだり)しようとした時、天の八衢(あめのやちまた)に立って高天が原から葦原中国までを照らす神がいました。その神の鼻の長は七咫(ななあた)、背丈は七尺、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、またホオズキのように照り輝いているという異様な姿でした。そこで天照大神と髙木神はアメノウズメ(天宇受売、天鈿女命))に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じます。その神が国津神のサルタヒコ(猿田彦)で、ニニギの降臨を先導しようと迎えに来たのです。
「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる道祖神と同一視され、全国各地で賽の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られています。この場合、妻とされるアメノウズメとともに祀られるのが通例です。また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面をかぶり一本歯の足駄を履いた猿田彦役の者が先導をすることがあります。
「自女王国以北」には特に一大率が置かれ、それは常に伊都国に治すとされ、諸国を検察していて諸国はこれを畏憚すると述べられています。一方のサルタヒコ(猿田彦大神)はアメノヤチマタにいる神とされ、道路が交わる辻を守護する神として道祖神と同一視されています。
一大率はサルタヒコだと思われます。人々は一大率を畏憚していましたが、そのことが語り伝えられているうちに、サルタヒコは異様な姿をしているという風に語られるようになったのでしょう。
私は田川郡が伊都国だと考えていますが、香春付近には猿田彦大神と陰刻された石塔が多くみられます。これは一大率が香春付近を根拠地にしていたということのようです。なぜ一大率が香春付近にいたのかについては「伊都国その3」で、伊都国の特殊性に触れていますので参考にしてください。
藤原広嗣の反乱では田河路沿いに進攻してくる朝廷軍を阻止するために、この付近は多胡古麻呂が守備していました。女王にとっては関門海峡・周防灘方面への進出路を確保する必要があり、この地が重視されていました。
サルタヒコはアメノウズメとペアで活動しますが、アメノウズメには卑弥呼のようなシャーマンとしての性格があるように感じられます。天の岩戸の前でのストリップダンスは巫女が神憑りして演ずる狂態(通常者から見て)のように思われます。『日本書紀』第一の一書ではアメノウズメがサルタヒコに何者かと問いかけた時にも、同じようにストリップを演じています。
ニニギが高千穂の峰に降臨したというのは女王国によって侏儒国が併合されたということで、天孫降臨は軍事行動でした。軍事行動は一大率の監視下にあり一大率の同意が必要でしたが、巫女であるアメノウズメの下した託宣によって降臨が可能になったというのでしょう。
私はアメノウズメは伊都国王でもあると考えるのがよいと思っています。アメノウズメがサルタヒコに何者かと問いかけたのは、女王制の終焉に際して一大率も廃止されたということであり、女王の統治権と一大率の軍事、警察権が統合されて、一本化されたということだと考えています。
卑弥呼の死と台与の共立との間に男王が立つが千余人が殺される争乱になります。伊都国には王が居るが女王国に統属しているとありますが、男王の時代に卑弥呼や台与のように巫女であると同時に王でもあるという役割を演じていたのが、伊都国王だったと思うのです。一大率(サルタヒコ)と伊都国王(アメノウズメ)がペアで男王の時代の混乱を乗り切ったのでしょう。
「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる道祖神と同一視され、全国各地で賽の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られています。この場合、妻とされるアメノウズメとともに祀られるのが通例です。また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面をかぶり一本歯の足駄を履いた猿田彦役の者が先導をすることがあります。
「自女王国以北」には特に一大率が置かれ、それは常に伊都国に治すとされ、諸国を検察していて諸国はこれを畏憚すると述べられています。一方のサルタヒコ(猿田彦大神)はアメノヤチマタにいる神とされ、道路が交わる辻を守護する神として道祖神と同一視されています。
一大率はサルタヒコだと思われます。人々は一大率を畏憚していましたが、そのことが語り伝えられているうちに、サルタヒコは異様な姿をしているという風に語られるようになったのでしょう。
私は田川郡が伊都国だと考えていますが、香春付近には猿田彦大神と陰刻された石塔が多くみられます。これは一大率が香春付近を根拠地にしていたということのようです。なぜ一大率が香春付近にいたのかについては「伊都国その3」で、伊都国の特殊性に触れていますので参考にしてください。
藤原広嗣の反乱では田河路沿いに進攻してくる朝廷軍を阻止するために、この付近は多胡古麻呂が守備していました。女王にとっては関門海峡・周防灘方面への進出路を確保する必要があり、この地が重視されていました。
サルタヒコはアメノウズメとペアで活動しますが、アメノウズメには卑弥呼のようなシャーマンとしての性格があるように感じられます。天の岩戸の前でのストリップダンスは巫女が神憑りして演ずる狂態(通常者から見て)のように思われます。『日本書紀』第一の一書ではアメノウズメがサルタヒコに何者かと問いかけた時にも、同じようにストリップを演じています。
ニニギが高千穂の峰に降臨したというのは女王国によって侏儒国が併合されたということで、天孫降臨は軍事行動でした。軍事行動は一大率の監視下にあり一大率の同意が必要でしたが、巫女であるアメノウズメの下した託宣によって降臨が可能になったというのでしょう。
私はアメノウズメは伊都国王でもあると考えるのがよいと思っています。アメノウズメがサルタヒコに何者かと問いかけたのは、女王制の終焉に際して一大率も廃止されたということであり、女王の統治権と一大率の軍事、警察権が統合されて、一本化されたということだと考えています。
卑弥呼の死と台与の共立との間に男王が立つが千余人が殺される争乱になります。伊都国には王が居るが女王国に統属しているとありますが、男王の時代に卑弥呼や台与のように巫女であると同時に王でもあるという役割を演じていたのが、伊都国王だったと思うのです。一大率(サルタヒコ)と伊都国王(アメノウズメ)がペアで男王の時代の混乱を乗り切ったのでしょう。
登録:
投稿 (Atom)