『粱書』『北史』に「複立卑弥呼宗女・臺與為王。其後複立男王。竝受中国爵命」とありますが、台与の後にも男王が並び立ち中国の爵命を受けたというのです。「竝」には2人が横に並ぶということで「並び立つ」という意味があり、この文によると台与が女王だった3世紀後半に2人の王がいたことになります。
台与が即位して間もなく面土国王は卑弥呼死後の争乱の当事者として処罰され失脚するようです。王が2人居れば王位を巡る対立が起きるものですが、面土国王が排除されたことで台与は有名無実の王になり男王が立てられたようです。これが「天孫降臨」の神話になりますが、台与の後に男王が立ったこと自体がほとんど考えられていません。
図は倭人伝中の人物と高天ヶ原神話に登場してくる神を対比させたもので()内が倭人伝中の人物です。『日本書記』神功皇后紀は卑弥呼・台与を神功皇后だとしていますが、安本美典氏は卑弥呼を天照大神とし、台与を万幡豊秋津師比売とされています。
その名に「トヨ」の音が含まれていることやその系譜をみると、安本氏の言われるように万幡豊秋津師比売が台与の可能性がありますが、私は天照大神の別名のオオヒルメムチ(大日孁貴、卑弥呼)と『日本書記』第一の一書に見えるワカヒルメ(稚日女、台与)を合成したものが天照大神だと考えています。
白鳥庫吉はスサノオ(須佐之男・素戔鳴)を狗奴国の男王だとしていますが、これは面土国の存在が考えられていないことによるものであり、スサノオは面土国王であり宗像氏のはるかな遠祖です。
天照大神とスサノオの誓約(ウケヒ)で生まれたオシホミミ(忍穂耳・忍骨)は、葦原中国に降るために「天の浮橋」まで来て引き返しますが、これは卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱になったことが語られているようで、オシホミミは弥呼死後の男王だと考えてよさそうです。
台与は卑弥呼死後の争乱を決着させるために、13歳で即位した名目だけの女王でしたが、倭人伝の記述が終わる正始8年(247)から間もないころに、争乱の当事者だった面土国王(スサノオ)が排除されたことにより、女王の存在理由がなくなります。そこで台与を退位させ男王を立てることが考えられたと思います。
この男王がホノニニギですが、私はこの男王も名目だけの王で、その背後にキングメーカー(陰の実力者)が居て、2人の王を操っていると考えています。そのキングメーカーこそ倭人伝の大倭であり、それが神話のタカミムスヒ(高皇産霊、高御産巣日、高木神)だと考えます。
倭人伝中でその名が最も多く見えるのは7回の難升米ですが、難升米は魏から「率善中朗将」に任ぜられ、245年には黄幢・詔書を授与されています。大倭を補佐して台与の退位と台与の後の男王の擁立を画策したのは難升米のようで、それは神話のオモイカネ(思金、思兼)だと考えています。(2011年1~2月投稿)
其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初 遣使重譯入貢
其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す
文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるが、その後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初め(泰始2年、266)にも倭人が遣使したというのです。
『日本書記』神功皇后紀は、泰始の初めの遣使は台与が行ったとしていますが、『晋書』武帝紀によると司馬昭が相だった258年~265年の7年間か、或いはそれ以前にも何度かの倭人の遣使があったことになり、その中に台与の後の男王(ホノニニギ)が中国の爵命を受けるための遣使があったとすることができます。
2012年3月25日日曜日
2012年3月18日日曜日
日向神話の構成 その1
新井白石・本居宣長以来続いている邪馬台国論争は決着する気配がありませんが、これは『古事記』や『日本書紀』が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていることに始まる「ボタンの掛け違い」でしょう。最初のボタン穴を間違えると最後まで喰い違ってしまいますが、面土国の存在を認めない限り、この状態は永遠に続くと思います。
このことは邪馬台国の位置論だけでなく神話にも関係してきます。白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で卑弥呼を天照大神としスサノオは狗奴国の男王だとしていますが、スサノオは宗像郡と深い関係がある一方で出雲の山間部でも活発に活動することになっています。
邪馬台国=九州説では一般に狗奴国は肥後とされますが、スサノオが狗奴国の男王なら出雲に狗奴国、あるいは肥後との関係を思わせるものがあるはずですがそれがまったく見られません。スサノオは狗奴国の男王ではなく面土国王であり、面土国は宗像郡なのです。
宗像郡にはスサノオの所持する剣から生まれたとされている宗像三女神を祭神とする宗像大社があり、4世紀になると朝鮮半島と大和朝廷の関係を思わせる沖ノ島祭祀遺跡が出現してきますが、平成20年には弥生中期の田熊石畑遺跡で全国最多の銅剣・銅矛・銅戈15点が出土しました。宗像には面土国とするにふさわしい歴史があります。
図は出土した弥生時代人骨の形質を地域別に区分したものですが、赤色の実線は地学上の臼杵―八代構造線(九州山地)です。構造線は九州の南北の交通を分断しており、南北で文化の違いが見られます。
青銅祭器は通婚することにより巨大化した部族が同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、臼杵―八代構造線の北側には多数の青銅祭器が見られるのに南側には殆ど見られず、肥前でも東半には見られるのに西半には見られません。
出土した弥生人骨の形質別分布という点からみると、佐賀県の中央部で東の北部九州・山口タイプと、西の西北九州タイプに分かれています。その特徴をみると北部九州・山口タイプは、身長が高く長頭で顔つきはのっぺりとしており、朝鮮半島からの渡来民が流入したことが考えられています。これを「渡来系弥生人」と呼ぶ考え方があります。
南西諸島と薩摩半島には南九州・南西諸島タイプがみられ、西北九州タイプと南九州・南西諸島タイプは、身長が低く短頭で、目鼻立ちがはっきりしていますが、西北九州と南九州・西南諸島には渡来民の流入がなく縄文時代以来の形質が残ったと考えられていて、これを「縄文系弥生人」と呼んでいます。西北九州と南九州・南西諸島との間にも差異があるそうです。
紀元前1世紀に中国と交渉を持った倭人の百余国は、中国・朝鮮半島製の青銅器を受け入れ、それを祭器に発展させた渡来系弥生人の形成する国であり、それが30ほどに統合されたものが後の女王国なのでしょう。それは臼杵―八代構造線以北であり、壱岐・対馬や松浦半島・糸島郡などの玄界灘・響灘沿岸が中心になっていたと考えます。
それには図に示されているように周防・長門(山口県)の響灘沿岸が含まれる可能性があります。周防灘と響灘の境に位置している宗像市田熊石畑遺跡で出土した銅剣・銅矛・銅戈15点は全国最多ですが、百余国と響灘沿岸の宗像、および周防・長門の関係を考える上で重要な意味を持っているように思います。
狗奴国は後世に熊襲と呼ばれるようになる西北九州の縄文系弥生人が形成する国で、後に律令制の肥後と肥前の西半分になるようです。肥前の東半は渡来系弥生人と融合し女王国に属していたと考えます。侏儒国は隼人と呼ばれるようになる南九州・西南諸島の縄文系弥生人の形成する国で、薩摩・大隅・日向になると考えています。
卑弥呼は天照大神であり、その卑弥呼を共立したのは面土国王(スサノオ)と博多湾沿岸の海人族(イザナギ)だと考えますが、博多湾沿岸にはイザナギに関係する福岡市の住吉神社や志賀島の志賀海神社があり、また福岡平野には須玖岡本遺跡などが、早良平野には吉武高木遺跡などがあります。
イザナギ・イザナミや天照大神・スサノオの神話、つまり高天ヶ原神話は博多湾を中心とする玄界灘・響灘沿岸で起きた、実際にあった渡来系弥生人の歴史であり、それに対しホノニニギの天孫降臨以後の日向神話は、渡来系弥生人の女王国が臼杵―八代構造線以南にあった縄文系弥生人の熊襲・隼人の国である狗奴国・侏儒国を統合したことが語られているようです。
このことは邪馬台国の位置論だけでなく神話にも関係してきます。白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で卑弥呼を天照大神としスサノオは狗奴国の男王だとしていますが、スサノオは宗像郡と深い関係がある一方で出雲の山間部でも活発に活動することになっています。
邪馬台国=九州説では一般に狗奴国は肥後とされますが、スサノオが狗奴国の男王なら出雲に狗奴国、あるいは肥後との関係を思わせるものがあるはずですがそれがまったく見られません。スサノオは狗奴国の男王ではなく面土国王であり、面土国は宗像郡なのです。
宗像郡にはスサノオの所持する剣から生まれたとされている宗像三女神を祭神とする宗像大社があり、4世紀になると朝鮮半島と大和朝廷の関係を思わせる沖ノ島祭祀遺跡が出現してきますが、平成20年には弥生中期の田熊石畑遺跡で全国最多の銅剣・銅矛・銅戈15点が出土しました。宗像には面土国とするにふさわしい歴史があります。
図は出土した弥生時代人骨の形質を地域別に区分したものですが、赤色の実線は地学上の臼杵―八代構造線(九州山地)です。構造線は九州の南北の交通を分断しており、南北で文化の違いが見られます。
青銅祭器は通婚することにより巨大化した部族が同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、臼杵―八代構造線の北側には多数の青銅祭器が見られるのに南側には殆ど見られず、肥前でも東半には見られるのに西半には見られません。
出土した弥生人骨の形質別分布という点からみると、佐賀県の中央部で東の北部九州・山口タイプと、西の西北九州タイプに分かれています。その特徴をみると北部九州・山口タイプは、身長が高く長頭で顔つきはのっぺりとしており、朝鮮半島からの渡来民が流入したことが考えられています。これを「渡来系弥生人」と呼ぶ考え方があります。
南西諸島と薩摩半島には南九州・南西諸島タイプがみられ、西北九州タイプと南九州・南西諸島タイプは、身長が低く短頭で、目鼻立ちがはっきりしていますが、西北九州と南九州・西南諸島には渡来民の流入がなく縄文時代以来の形質が残ったと考えられていて、これを「縄文系弥生人」と呼んでいます。西北九州と南九州・南西諸島との間にも差異があるそうです。
紀元前1世紀に中国と交渉を持った倭人の百余国は、中国・朝鮮半島製の青銅器を受け入れ、それを祭器に発展させた渡来系弥生人の形成する国であり、それが30ほどに統合されたものが後の女王国なのでしょう。それは臼杵―八代構造線以北であり、壱岐・対馬や松浦半島・糸島郡などの玄界灘・響灘沿岸が中心になっていたと考えます。
それには図に示されているように周防・長門(山口県)の響灘沿岸が含まれる可能性があります。周防灘と響灘の境に位置している宗像市田熊石畑遺跡で出土した銅剣・銅矛・銅戈15点は全国最多ですが、百余国と響灘沿岸の宗像、および周防・長門の関係を考える上で重要な意味を持っているように思います。
狗奴国は後世に熊襲と呼ばれるようになる西北九州の縄文系弥生人が形成する国で、後に律令制の肥後と肥前の西半分になるようです。肥前の東半は渡来系弥生人と融合し女王国に属していたと考えます。侏儒国は隼人と呼ばれるようになる南九州・西南諸島の縄文系弥生人の形成する国で、薩摩・大隅・日向になると考えています。
卑弥呼は天照大神であり、その卑弥呼を共立したのは面土国王(スサノオ)と博多湾沿岸の海人族(イザナギ)だと考えますが、博多湾沿岸にはイザナギに関係する福岡市の住吉神社や志賀島の志賀海神社があり、また福岡平野には須玖岡本遺跡などが、早良平野には吉武高木遺跡などがあります。
イザナギ・イザナミや天照大神・スサノオの神話、つまり高天ヶ原神話は博多湾を中心とする玄界灘・響灘沿岸で起きた、実際にあった渡来系弥生人の歴史であり、それに対しホノニニギの天孫降臨以後の日向神話は、渡来系弥生人の女王国が臼杵―八代構造線以南にあった縄文系弥生人の熊襲・隼人の国である狗奴国・侏儒国を統合したことが語られているようです。
2012年3月11日日曜日
倭面土国を考える その10
通説では王莽の新の時代に鋳造された「貨泉」の流通が停止され、五銖銭が復活した40年ころが中期と後期の境とされていますが、私は貨泉の鋳造が始まった7年ころを中期中葉とし、後漢第四代の和帝が在位した88~105年ころを後期の初めとするのがよいと思っています。
こうすると面土国王の帥升が遣使した107年は後期の初頭になり、倭国大乱以後の3世紀を後期後半とすることができ、後期は部族連盟国家の倭国(後の女王国)の時代であり、3世紀後半に弥生時代が終わると考えることができます。『後漢書』倭伝に次のように記されています。
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見
建武中元二年は57年ですが、その前年に後漢の光武帝が功績のあった皇帝(王)だけが行うことのできる「封禅の儀」を挙行しています。57年の遣使は「奉貢朝賀」とされていますから、奴国王が封禅の儀の挙行を祝う使者を送ったのに対し、光武帝は印綬を授与したのでしょう。
107年の面土国王帥升の遣使については「願請見」とあるだけで印綬が授与されたという記述がなく、帥升は倭王に冊封されていないという考え方がありますが、『後漢書』が帥升を倭国王としていることは冊封されて印綬も授与されたということでしょう。
2世紀の中国は幼帝の即位が続いて外戚・宦官が跋扈し、後漢王朝は次第に衰退していきますが、それに連動して倭国でも部族の対立が激化したようで、その結果が中広形の銅矛と銅戈の出土数に表れていると考えます。
中広形銅戈の出土数は銅矛を凌駕しますが、銅戈が多いのは奴国王に代わって面土国王が倭国を統治するようになることを示しているのでしょう。それが広形になると銅戈は3本ほどに激減し銅矛のみが目立つようになりますが、これは面土国王が卑弥呼を共立して倭王位を譲ったために、銅戈を配布した部族が衰退したことを表わしています。
部族が神格化されて神話の神になりますが、その歴史を語り伝えたものが神話です。図は私の考えている神話の神が活動する場所ですが、このことは2011年5月、6月に投稿した「高天が原神話」で述べていますので参照してみてください。
イザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものであると同時に、銅矛を配布した部族に属していた安曇・住吉など博多湾沿岸の海人族でもあり、それに対しイザナミは銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王のようです。
イザナミは火の神カグツチを生んだために焼死し、出雲に葬られていることになっていますが、カグツチについては阿蘇山とその周辺、つまり狗奴国の部族だと考えています..
奴国王は部族国家の奴国の王であって倭王ではなく、狗奴国を統治する権限が無かったのでしょう。中期後半(1世紀)の中広形青銅祭器を見ると、九州には銅剣が殆ど見られなくなり、出雲に中細銅剣C類が、また瀬戸内に平型銅剣が現れますが、これが焼死したイザナミが出雲に葬られる神話になっているようです。
奴国王に代わって倭国を統治するようになるのが帥升ですが、帥升は部族国家の面土国の王でした。しかし奴国王と違って後漢王朝から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王になるようです。これが神話のスサノオです。
倭国大乱で卑弥呼(天照大神)を共立したのは面土国王(スサノオ)と、博多湾沿岸の海人族(イザナギ)、すなわち銅戈を配布した部族と銅矛を配布した部族です。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持しており、「自女王国以北」の諸国を「刺史の如く」に支配し、女王の行う外交々渉を捜露するようになります。
以前の投稿では触れていませんが、図ではホノニニギ(番能邇邇芸・火瓊瓊杵)の活動する場所を、通説で伊都国とされている糸島郡としています。いささか突飛な発想ですが最近気になっていて、このことについて述べてみたいものだと思っています。
こうすると面土国王の帥升が遣使した107年は後期の初頭になり、倭国大乱以後の3世紀を後期後半とすることができ、後期は部族連盟国家の倭国(後の女王国)の時代であり、3世紀後半に弥生時代が終わると考えることができます。『後漢書』倭伝に次のように記されています。
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見
建武中元二年は57年ですが、その前年に後漢の光武帝が功績のあった皇帝(王)だけが行うことのできる「封禅の儀」を挙行しています。57年の遣使は「奉貢朝賀」とされていますから、奴国王が封禅の儀の挙行を祝う使者を送ったのに対し、光武帝は印綬を授与したのでしょう。
107年の面土国王帥升の遣使については「願請見」とあるだけで印綬が授与されたという記述がなく、帥升は倭王に冊封されていないという考え方がありますが、『後漢書』が帥升を倭国王としていることは冊封されて印綬も授与されたということでしょう。
2世紀の中国は幼帝の即位が続いて外戚・宦官が跋扈し、後漢王朝は次第に衰退していきますが、それに連動して倭国でも部族の対立が激化したようで、その結果が中広形の銅矛と銅戈の出土数に表れていると考えます。
中広形銅戈の出土数は銅矛を凌駕しますが、銅戈が多いのは奴国王に代わって面土国王が倭国を統治するようになることを示しているのでしょう。それが広形になると銅戈は3本ほどに激減し銅矛のみが目立つようになりますが、これは面土国王が卑弥呼を共立して倭王位を譲ったために、銅戈を配布した部族が衰退したことを表わしています。
イザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものであると同時に、銅矛を配布した部族に属していた安曇・住吉など博多湾沿岸の海人族でもあり、それに対しイザナミは銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王のようです。
イザナミは火の神カグツチを生んだために焼死し、出雲に葬られていることになっていますが、カグツチについては阿蘇山とその周辺、つまり狗奴国の部族だと考えています..
奴国王は部族国家の奴国の王であって倭王ではなく、狗奴国を統治する権限が無かったのでしょう。中期後半(1世紀)の中広形青銅祭器を見ると、九州には銅剣が殆ど見られなくなり、出雲に中細銅剣C類が、また瀬戸内に平型銅剣が現れますが、これが焼死したイザナミが出雲に葬られる神話になっているようです。
奴国王に代わって倭国を統治するようになるのが帥升ですが、帥升は部族国家の面土国の王でした。しかし奴国王と違って後漢王朝から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王になるようです。これが神話のスサノオです。
倭国大乱で卑弥呼(天照大神)を共立したのは面土国王(スサノオ)と、博多湾沿岸の海人族(イザナギ)、すなわち銅戈を配布した部族と銅矛を配布した部族です。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持しており、「自女王国以北」の諸国を「刺史の如く」に支配し、女王の行う外交々渉を捜露するようになります。
以前の投稿では触れていませんが、図ではホノニニギ(番能邇邇芸・火瓊瓊杵)の活動する場所を、通説で伊都国とされている糸島郡としています。いささか突飛な発想ですが最近気になっていて、このことについて述べてみたいものだと思っています。
2012年3月4日日曜日
倭面土国を考える その9
西嶋定生氏は倭面土国を古墳時代のヤマト国のことだとされているようですが、弥生時代が「部族制社会」であるのに対して古墳時代は「氏姓制社会」であり、更には「律令制社会」に変るという変遷が考えられていないように思います。
私は倭人が中国の冊封体制に組み込まれる紀元前1世紀以前には、律令制の郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、3世紀にはそれが統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になると考えています。(1910年8月投稿「部族 その4」)
「倭面土国王帥升等」の「等」は複数の倭人が遣使したことを表わすと考えられていますが、「等」は帥升が部族国家の面土国の王に過ぎないことを表わしており、『後漢書』などが帥升を倭国王とするのは帥升が部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王でもあるということでしょう。
通説では奴国は福岡平野とされていますが、遠賀川中・上流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、それが統合されて戸数2万の奴国になると考えます。
同様に筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半にある10郡(10国)ほどが統合されて、戸数7万の邪馬台国が形成されたと考え、また筑後の7郡(7国)ほどが統合されて戸数5万の投馬国が形成されたと考えています。
奴・ 邪馬台・投馬の3国は20ほどの部族国家の統合された部族連盟国家だが、女王国は更に大きな部族連盟国家で、この3国は部族国家と女王国の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。
筑前を三郡山地で東西に2分した時の東半には面土国(宗像郡)と不弥国(遠賀郡)もあって、五つの部族国家が存在したと考えていますが、これに対馬国・一支国、および国名のみの21ヶ国を加えると約55ヶ国になりそうです。
55ほどの部族国家は筑前・筑後・豊前・豊後、及び肥前の佐賀県部分にあったと考えていますが、図に示しているようにそれが30国に統合されたものが女王国だと考えます。(2010年4月投稿「再考 国名のみの21ヶ国」)
紀元前108年に武帝が朝鮮半島に楽浪郡など4郡を設置しますが、後に4郡は楽浪郡を残して廃止されます。残された楽浪郡は朝鮮半島経営の拠点になり、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれます。
冊封体制では支配権の強弱に応じて授与される称号が異なり、支配地が広いことや支配する人民の多いことが高位の称号を得るための条件になります。そのため部族が形勢する部族国家は統合され、規模の大きな部族連盟国家を形成するようです。
倭人伝に「旧百余国、漢の時に朝見する者有り。今使譯の通じる所三十国」とありますが、中国の冊封体制に組み込まれたことにより、紀元前1世紀の百余国が1世紀には55国ほどに統合され、2世紀~3世紀にはさらに統合が進んで三十国になると考えます。
帥升が倭面土国王とされるのは、57年の奴国王と同様に55ほどの部族国家のうちの一国の王という意味であり、倭国王とされるのは30ほどに統合された部族連盟国家の王という意味だと考えています。
換言すると面土国王の帥升が後漢から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国が誕生したと言えると思います。これが弥生時代中期から後期への転換点であり、青銅祭器が中細形から中広形に変わる原因になっていると考えます。
私は倭人が中国の冊封体制に組み込まれる紀元前1世紀以前には、律令制の郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、3世紀にはそれが統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になると考えています。(1910年8月投稿「部族 その4」)
「倭面土国王帥升等」の「等」は複数の倭人が遣使したことを表わすと考えられていますが、「等」は帥升が部族国家の面土国の王に過ぎないことを表わしており、『後漢書』などが帥升を倭国王とするのは帥升が部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王でもあるということでしょう。
通説では奴国は福岡平野とされていますが、遠賀川中・上流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、それが統合されて戸数2万の奴国になると考えます。
同様に筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半にある10郡(10国)ほどが統合されて、戸数7万の邪馬台国が形成されたと考え、また筑後の7郡(7国)ほどが統合されて戸数5万の投馬国が形成されたと考えています。
奴・ 邪馬台・投馬の3国は20ほどの部族国家の統合された部族連盟国家だが、女王国は更に大きな部族連盟国家で、この3国は部族国家と女王国の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。
筑前を三郡山地で東西に2分した時の東半には面土国(宗像郡)と不弥国(遠賀郡)もあって、五つの部族国家が存在したと考えていますが、これに対馬国・一支国、および国名のみの21ヶ国を加えると約55ヶ国になりそうです。
55ほどの部族国家は筑前・筑後・豊前・豊後、及び肥前の佐賀県部分にあったと考えていますが、図に示しているようにそれが30国に統合されたものが女王国だと考えます。(2010年4月投稿「再考 国名のみの21ヶ国」)
紀元前108年に武帝が朝鮮半島に楽浪郡など4郡を設置しますが、後に4郡は楽浪郡を残して廃止されます。残された楽浪郡は朝鮮半島経営の拠点になり、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれます。
冊封体制では支配権の強弱に応じて授与される称号が異なり、支配地が広いことや支配する人民の多いことが高位の称号を得るための条件になります。そのため部族が形勢する部族国家は統合され、規模の大きな部族連盟国家を形成するようです。
倭人伝に「旧百余国、漢の時に朝見する者有り。今使譯の通じる所三十国」とありますが、中国の冊封体制に組み込まれたことにより、紀元前1世紀の百余国が1世紀には55国ほどに統合され、2世紀~3世紀にはさらに統合が進んで三十国になると考えます。
帥升が倭面土国王とされるのは、57年の奴国王と同様に55ほどの部族国家のうちの一国の王という意味であり、倭国王とされるのは30ほどに統合された部族連盟国家の王という意味だと考えています。
換言すると面土国王の帥升が後漢から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国が誕生したと言えると思います。これが弥生時代中期から後期への転換点であり、青銅祭器が中細形から中広形に変わる原因になっていると考えます。
2012年2月26日日曜日
倭面土国を考える その8
伊都国・末盧国のあたりで倭人伝の地理記事に変化が起きていますが、これは末盧国までが「従郡至倭」の行程で、伊都国以後は「自女王国以北」になるということで、その間の地理記事上の断絶部分に面土国があると考えることが可能になってきます。このことが考慮されないと面土国は存在しないことになります。
西嶋氏は面土国を解明する方法として音韻学と文献学を挙げています。他に考古学や民俗学もありますが、地政学が軽視されているように感じています。地政学は地理的な環境が軍事・政治・経済などに与える影響を考察する学問です。
倭人伝の地理記事についても地政学が応用できますが、図は私の考えている地政学的な意味での各国の位置です。右に国名とその理由を記しています。
国名 音 意味 位置
①斯馬 しま 島 志麻郡
②面土 みなと 港・水門 宗像郡
③伊都 いと 稜威(いつ)? 田河郡
④奴 の 野 鞍手郡
⑤不弥 うみ 海 遠賀郡
⑥邪馬台 やまと 山戸・山門 上座郡
⑦投馬 つま 水沼 妻郡
⑧邪馬 やま 山 日田郡
土地勘のある人ならこの図から、地勢が国名になっていることが分ると思います。しかし③の伊都国については地勢が国名になっているようには思えません。そこで伊都は稜威(いつ)ではないかと考えてみました。
稜威は厳と同義で、 ①斎み清められていること、神聖なこと ②勢いの激しいこと、威力の強烈なこと といった意味があり、天孫降臨の神話に「稜威(いつ)の道別き(ちわき)道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります」という用例があり、出雲の語源を「稜威藻」とする考え方もあります。
伊都国は田河郡だと考えていますが、田河郡は九州東北部の内陸交通の要所で南の英彦山方面、北の響灘方面、西の博多方面、東の周防灘方面、そして東北の関門海峡方面と、道路が五方に分岐しています。
そこで伊都国には一大率が置かれ、これを「常治」していました。伊都とは一大率が諸国を検察し諸国がこれを畏憚(恐れ憚る)していることを表す国名だと考えるのです。こじつけのようにも思えますが出雲=稜威藻の例もあります。
図では那珂郡を中心にした福岡平野に?を付けています。筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半の10郡ほどが戸数7万の邪馬台国だと考えますが、福岡平野がその中心であり、福岡平野に邪馬台という名の部族国家があってもよさそうなものです。
しかし部族国家としての邪馬台国は⑥の上座郡(朝倉郡)のようで、朝倉郡には斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」の伝承があります。?の部族国家としての国名が判明すればこのことが明らかになってくると考えますが、残念ながらそれは望めそうもありません。
私は?の福岡平野が神話の「竺紫の日向の小門の橘の阿波伎原」だと考えています。竺紫は筑紫のことであり、日向は太陽に向かった所という意味で、小門は小さな水門、もしくは瀬戸と考えられており、阿波伎原は平野を表しているとされています。
当時の三笠川・那珂川下流域は大きく湾入していたと考えられており、私は福岡平野と二日市地峡の境の須玖岡本遺跡付近が「小門の橘の阿波伎原」だと考え、?の部族国家としての国名も同様の意味を持ったものだったと推察しています。
部族国家としての邪馬台国は⑥の朝倉郡のようですが、これは筑後川下流部の筑後三瀦郡が⑦の投馬国であり、上流部の豊後日田郡が⑧の邪馬国であることによる国名のようです。邪馬台とは山戸・山門・山止・山登・山処の文字で表すことのできる、平野と山間地との境という意味の国名だと考えます。
私は倭面土国を「倭の面土国」と読む説に従い、それは筑前宗像郡だと考えています。山尾幸久氏は面土をmian-tagと読んでおられますが、その音はミナトであり、港・湊・水門の文字で表される海と陸の境の国という意味になります。地政学の面から言っても、またその歴史から言っても宗像郡はまさに「港の国」そのものです。
西嶋氏は面土国を解明する方法として音韻学と文献学を挙げています。他に考古学や民俗学もありますが、地政学が軽視されているように感じています。地政学は地理的な環境が軍事・政治・経済などに与える影響を考察する学問です。
倭人伝の地理記事についても地政学が応用できますが、図は私の考えている地政学的な意味での各国の位置です。右に国名とその理由を記しています。
国名 音 意味 位置
①斯馬 しま 島 志麻郡
②面土 みなと 港・水門 宗像郡
③伊都 いと 稜威(いつ)? 田河郡
④奴 の 野 鞍手郡
⑤不弥 うみ 海 遠賀郡
⑥邪馬台 やまと 山戸・山門 上座郡
⑦投馬 つま 水沼 妻郡
⑧邪馬 やま 山 日田郡
土地勘のある人ならこの図から、地勢が国名になっていることが分ると思います。しかし③の伊都国については地勢が国名になっているようには思えません。そこで伊都は稜威(いつ)ではないかと考えてみました。
稜威は厳と同義で、 ①斎み清められていること、神聖なこと ②勢いの激しいこと、威力の強烈なこと といった意味があり、天孫降臨の神話に「稜威(いつ)の道別き(ちわき)道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります」という用例があり、出雲の語源を「稜威藻」とする考え方もあります。
伊都国は田河郡だと考えていますが、田河郡は九州東北部の内陸交通の要所で南の英彦山方面、北の響灘方面、西の博多方面、東の周防灘方面、そして東北の関門海峡方面と、道路が五方に分岐しています。
そこで伊都国には一大率が置かれ、これを「常治」していました。伊都とは一大率が諸国を検察し諸国がこれを畏憚(恐れ憚る)していることを表す国名だと考えるのです。こじつけのようにも思えますが出雲=稜威藻の例もあります。
図では那珂郡を中心にした福岡平野に?を付けています。筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半の10郡ほどが戸数7万の邪馬台国だと考えますが、福岡平野がその中心であり、福岡平野に邪馬台という名の部族国家があってもよさそうなものです。
しかし部族国家としての邪馬台国は⑥の上座郡(朝倉郡)のようで、朝倉郡には斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」の伝承があります。?の部族国家としての国名が判明すればこのことが明らかになってくると考えますが、残念ながらそれは望めそうもありません。
私は?の福岡平野が神話の「竺紫の日向の小門の橘の阿波伎原」だと考えています。竺紫は筑紫のことであり、日向は太陽に向かった所という意味で、小門は小さな水門、もしくは瀬戸と考えられており、阿波伎原は平野を表しているとされています。
当時の三笠川・那珂川下流域は大きく湾入していたと考えられており、私は福岡平野と二日市地峡の境の須玖岡本遺跡付近が「小門の橘の阿波伎原」だと考え、?の部族国家としての国名も同様の意味を持ったものだったと推察しています。
部族国家としての邪馬台国は⑥の朝倉郡のようですが、これは筑後川下流部の筑後三瀦郡が⑦の投馬国であり、上流部の豊後日田郡が⑧の邪馬国であることによる国名のようです。邪馬台とは山戸・山門・山止・山登・山処の文字で表すことのできる、平野と山間地との境という意味の国名だと考えます。
私は倭面土国を「倭の面土国」と読む説に従い、それは筑前宗像郡だと考えています。山尾幸久氏は面土をmian-tagと読んでおられますが、その音はミナトであり、港・湊・水門の文字で表される海と陸の境の国という意味になります。地政学の面から言っても、またその歴史から言っても宗像郡はまさに「港の国」そのものです。
2012年2月19日日曜日
倭面土国を考える その7
私が宗像郡を面土国だと考えるようになったのは、作家の高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』を読んだことがきっかけになりました。小説は探偵神津恭介が東松浦半島(末盧国)から糸島(伊都国)への陸行に不審を抱いたことに始まります。
また一大国(壱岐)から末盧国までの距離は千里ですが、末盧国の記事に方位と官名の記載がないのも不思議です。
通説は矛盾だらけで、末盧国と伊都国の間、伊都国と奴国の間の方位・距離も倭人伝の記述と合いません。私は帯方郡使が宗像に上陸したという高木氏の考えに強い関心を持ちました。
これは後に気づいたことですが、纒向遺跡・吉野ヶ里遺跡などのような有名遺跡を卑弥呼の王都とする説がありますが、「稍」の考え方では方位・距離の起点は王城だが、終点は国境、大きな河川、海岸線などの「境界」であって、相手国の国都や王城ではありません。
末盧国の記事に方位や官名がないのは末盧国の海岸が「従群至倭」の行程の終点だからで、倭人伝にとっては方位や官名は問題ではなく、一支国から千里のところが末盧国の境界であればよかったのです。
これは末盧国の境界までが「従郡至倭」の行程の国であり、伊都国以後は「自女王国以北」の国であって、倭人伝の文脈上では「従郡至倭」と「自女王国以北」とは連続しておらず、その接点に面土国が位置していることを示しています。
宗像郡の東南の田川市周辺に位登、伊田、糸田、伊方、糸飛、猪国など伊都によく似た地名が集中しており、田川市周辺が伊都国であることが考えられました。とすれば東南百里の奴国は鞍手郡になり、東百里の不弥国は遠賀郡になります。
高木氏の『邪馬台国の秘密』では末盧国から邪馬台国までの九ヶ国は直線行程とされ、邪馬台国は宇佐だとされていますが、私は放射行程を考えたのです。
前回の投稿では榎一雄氏の伊都国を起点とする放射行程と、高橋善太郎氏の末盧国を起点とする説に対し、面土国を起点とするのがよいと述べましたが、結果的に見ると私の考えは、両氏の説と高木氏の考えを折衷していることになります。
高木氏は帯方郡使の上陸地を宗像郡の神湊としていますが、「浜山海居。草木茂盛。行不見前人。好捕魚鰒。水無深浅。皆沈没取之」という末盧国のイメージと神湊の光景とが一致せず、私には宗像郡が末盧国だとは思えませんでした。
そこで考えたのが末盧国の記述は東松浦半島の呼子付近の光景とみてよいが、面土国には帯方郡使の上陸した港があったので「港の国」と呼ばれていたのではないかということです。その「港の国」が宗像郡ではなかと考えたのです。
確かに通説で伊都国とされている糸島郡は朝鮮半島に近く、その影響を受けた弥生時代の遺跡・遺物も多く、ことに平原遺跡は卑弥呼の時代に近いことは事実ですが、四世紀以降の宗像には沖ノ島祭祀遺跡が現れてきます。
また倭人伝は伊都国について「郡使往来常所駐」と記していますが、田川郡香春・鏡山を中心として渡来人の伝承があり、遺跡・遺物ではなく伝承の点では伊都国は糸島郡とするよりも田川郡とするほうが理に適っています。
こうして宗像郡が面土国であり宗像氏のはるかな遠祖が帥升であり、神話のスサノオだという考えが生まれてきました。そして今回は西嶋氏の考えを、面土国を伊都国のこととする白鳥庫吉の説に基づいた主観論だとしてきました。
帥升を「倭面土国王」・「倭面上国」とする資料は中国にはなく日本で書写された『通典』『翰苑』に限定されているという事実からすれば、面土国は存在するという私の考えも主観論だということになりますが、面土国は筑前宗像郡だということを前提にすると通説では考えられないことが現れてきます。
2012年2月12日日曜日
倭面土国を考える その6
西嶋氏の面土国の存在を否定される考えは、「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとした白鳥庫吉の説に基づいたものだと言えそうですが、ここで放射行程説を考えてみる必要がありそうです。
『古事記』『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとし、大和が邪馬台国だと思わせようとしていますが、これは直線行程になります。おそらく西嶋氏は邪馬台国=九州説であり放射行程説を採っておられると思います。
放射行程については榎一雄氏の伊都国を起点とする説が知られていますが、伊都国は女王国内でも特殊な国であることが考えられ、末盧国までは方位・距離・国名の順になっているのに対し、伊都国以後は方位・国名・距離の順になっているというものです。
これに対し高橋善太郎氏は榎氏の説について、伊都国の特殊性に着目したに過ぎないと批評し末盧国を起点とする説を提唱しています。(『愛知大学文学部論集』、昭和43年、44年)高橋氏の説は合理性があり適切だと考えています。
高橋氏は正史(中国の公式史書)には直線行程の記事は少ないが、その少ない直線行程の記事には「又」「次」「乃」など行程が連続していることを表す文字を使用したり、前に用いた文を繰り返して使用するなど、何らかの方法で直線行程であることが明示されているとしています。
高橋氏の指摘のように帯方郡から末盧国までの記事には直線行程であることを表す文字や文が見られます。「従群至倭」は帯方郡が直線行程の起点であることを表しているし、帯方郡から狗邪韓国までの行程には「韓国を歴て」「海岸に環い」「乍南し、乍南し」の文が見られます。
対海国の文には「始めて一海を度る」とあり、一大国についても「又南に一海を渡る」とあり、末盧国にも「又一海を渡る」とありますが、伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文、文字が見られません。
高橋氏はこれを「末盧からの四至になるとさえも考えられる」としていますが、四至とは放射行程のことです。いずれにしても伊都国・末盧国のあたりで地理記事に変化が起きていることは確かです。
帯方郡から末盧国(佐賀県東松浦半島)までは一万里だとされ、残りの2千里が末盧国から邪馬台国までの距離だとされていますが、通説では狗邪韓国は金海・釜山とされ、その距離が七千余里だとされています。しかし狗弥韓国の七千余里は辰韓と馬韓の国境までの距離のようです。
対馬国(対馬南島)の寄港地も厳原ではなく浅茅湾のようです。そうであれば万二千里の終点は末盧国の海岸になり、「従郡至倭」の行程も末盧国で終わることになります。(2011年11月投稿「再考 従郡至倭の行程」)
高橋氏が末盧国と伊都国の間で地理記事に変化が生じているとするのは、末盧国までが「従郡至倭」の行程であり、伊都国以後は「自女王国以北」の国になることによります。図の左が私の考える放射行程ですが、末盧国と伊都国の中間に面土国があり、面土国が放射の起点になっていると考えています。
末盧国=東松浦半島、伊都国=糸島市付近とする限り、地理的な現実の問題として末盧国・伊都国を起点とする放射行程は成立しません。西嶋氏が帥升を伊都国王とすることについて「文献的に確認された事実ではない」とされている遠因に、こうした点もあると推察しています。
『古事記』『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとし、大和が邪馬台国だと思わせようとしていますが、これは直線行程になります。おそらく西嶋氏は邪馬台国=九州説であり放射行程説を採っておられると思います。
放射行程については榎一雄氏の伊都国を起点とする説が知られていますが、伊都国は女王国内でも特殊な国であることが考えられ、末盧国までは方位・距離・国名の順になっているのに対し、伊都国以後は方位・国名・距離の順になっているというものです。
これに対し高橋善太郎氏は榎氏の説について、伊都国の特殊性に着目したに過ぎないと批評し末盧国を起点とする説を提唱しています。(『愛知大学文学部論集』、昭和43年、44年)高橋氏の説は合理性があり適切だと考えています。
高橋氏は正史(中国の公式史書)には直線行程の記事は少ないが、その少ない直線行程の記事には「又」「次」「乃」など行程が連続していることを表す文字を使用したり、前に用いた文を繰り返して使用するなど、何らかの方法で直線行程であることが明示されているとしています。
高橋氏の指摘のように帯方郡から末盧国までの記事には直線行程であることを表す文字や文が見られます。「従群至倭」は帯方郡が直線行程の起点であることを表しているし、帯方郡から狗邪韓国までの行程には「韓国を歴て」「海岸に環い」「乍南し、乍南し」の文が見られます。
対海国の文には「始めて一海を度る」とあり、一大国についても「又南に一海を渡る」とあり、末盧国にも「又一海を渡る」とありますが、伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文、文字が見られません。
高橋氏はこれを「末盧からの四至になるとさえも考えられる」としていますが、四至とは放射行程のことです。いずれにしても伊都国・末盧国のあたりで地理記事に変化が起きていることは確かです。
帯方郡から末盧国(佐賀県東松浦半島)までは一万里だとされ、残りの2千里が末盧国から邪馬台国までの距離だとされていますが、通説では狗邪韓国は金海・釜山とされ、その距離が七千余里だとされています。しかし狗弥韓国の七千余里は辰韓と馬韓の国境までの距離のようです。
対馬国(対馬南島)の寄港地も厳原ではなく浅茅湾のようです。そうであれば万二千里の終点は末盧国の海岸になり、「従郡至倭」の行程も末盧国で終わることになります。(2011年11月投稿「再考 従郡至倭の行程」)
高橋氏が末盧国と伊都国の間で地理記事に変化が生じているとするのは、末盧国までが「従郡至倭」の行程であり、伊都国以後は「自女王国以北」の国になることによります。図の左が私の考える放射行程ですが、末盧国と伊都国の中間に面土国があり、面土国が放射の起点になっていると考えています。
末盧国=東松浦半島、伊都国=糸島市付近とする限り、地理的な現実の問題として末盧国・伊都国を起点とする放射行程は成立しません。西嶋氏が帥升を伊都国王とすることについて「文献的に確認された事実ではない」とされている遠因に、こうした点もあると推察しています。
2012年2月5日日曜日
倭面土国を考える その5
面土国の存在を否定される西嶋定生氏の考えは、「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとした白鳥庫吉の説に基づいた主観論であり、客観的に言えば「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになります。
白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で、天照大神が天の岩戸に籠る前後の状況と、卑弥呼の死の前後の状況が似ていることから、天照大神を卑弥呼・台与とし、その原因になったスサノオは狗奴国の男王の卑弥弓呼だとしています。
倭国大乱は狗奴国との争いだということですが、とすれば大乱以前の70~80年間の男王は狗奴国王ということになります。西嶋氏も『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)、(「倭面土国論」の問題点)で同じ考えであることを述べています。
私は狗奴国王を『古事記』の大気都比売、『日本書記』の保食神と考え、スサノオは面土国王だと考えていますが、スサノオを狗奴国王としたために、「倭面土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとしなければならなかったようです。
女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。
私は通説とは違って、伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があって、その国に「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者がいると仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというように解釈しています。
この文についての通説では一大率が諸国を検察し、また港で文書や献納物を捜露している有様があたかも中国の州刺史の如くだとされていますが、2011年5月投稿の「関八州取締出役」で、このように解釈したのも白鳥庫吉ではないかという推察を述べました。
幕末の関八州取締出役には直接ではないが横浜の外国船を取締りの対称にするものがあったようで、白鳥庫吉は一大率を横浜の外国船を取り締まるために配置された関八州取締出役のようなものだと考え、一大率は伊都国の津(糸島郡の港)に出向いて朝鮮半島から来た船を捜露する役人だと考えたようです。
何度も言及してきましたが、文中の「於国中有如刺史」の「於」の意味について『大辞泉』は 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うときに用いられるとしています。
通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味のようで、「伊都国の中にあって刺史の如し」と解釈され、一大率が諸国を検察し、また津(港)では文書や献納物を捜露している有様が、中国の刺史の如くだと解釈されています。
この場合、一大率は常に伊都国にいるというのですから、国は伊都国に限定され他の国は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。そこに「於国中有」の4文字が加わると意味が変わってきます。
この文は4の、仮定条件の伴う場合だということで、何かが仮定されており、条件が伴っています。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定され、それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になります。「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。
この「於」の文字の4つの解釈は漢文を和文に翻訳する時に生じるということですが、魏・晋朝の州刺史は最高位の地方行政官であって、関八州取締出役のように諸国を検察したり、外国から来た船を捜露する役人ではありません。通説は大変な誤解で、この誤解から面土国の存在を否定する考えが生じたように思われます。
伊都国は筑前糸島郡ではなく田川郡であり、面土国は宗像郡のようです。「自女王国以北」は遠賀川流域だと考えますが、その「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者こそ、帥升の140年後の子孫の面土国王であり、これが神話のスサノオなのです。
倭人伝に面土国の名が見えないことが問題ですが、狗奴国は「自女王国以北」の国ではありません。大乱以前の男王を狗奴国の男王と見れば面土国の存在は否定され、逆に面土国の存在を肯定すれば大乱以前の70~80年間の男王は面土国王であってもよいことになります。どちらを選択するかで結果は大きく変ってきます。
白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で、天照大神が天の岩戸に籠る前後の状況と、卑弥呼の死の前後の状況が似ていることから、天照大神を卑弥呼・台与とし、その原因になったスサノオは狗奴国の男王の卑弥弓呼だとしています。
倭国大乱は狗奴国との争いだということですが、とすれば大乱以前の70~80年間の男王は狗奴国王ということになります。西嶋氏も『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)、(「倭面土国論」の問題点)で同じ考えであることを述べています。
私は狗奴国王を『古事記』の大気都比売、『日本書記』の保食神と考え、スサノオは面土国王だと考えていますが、スサノオを狗奴国王としたために、「倭面土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとしなければならなかったようです。
女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。
私は通説とは違って、伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があって、その国に「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者がいると仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというように解釈しています。
この文についての通説では一大率が諸国を検察し、また港で文書や献納物を捜露している有様があたかも中国の州刺史の如くだとされていますが、2011年5月投稿の「関八州取締出役」で、このように解釈したのも白鳥庫吉ではないかという推察を述べました。
幕末の関八州取締出役には直接ではないが横浜の外国船を取締りの対称にするものがあったようで、白鳥庫吉は一大率を横浜の外国船を取り締まるために配置された関八州取締出役のようなものだと考え、一大率は伊都国の津(糸島郡の港)に出向いて朝鮮半島から来た船を捜露する役人だと考えたようです。
何度も言及してきましたが、文中の「於国中有如刺史」の「於」の意味について『大辞泉』は 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うときに用いられるとしています。
通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味のようで、「伊都国の中にあって刺史の如し」と解釈され、一大率が諸国を検察し、また津(港)では文書や献納物を捜露している有様が、中国の刺史の如くだと解釈されています。
この場合、一大率は常に伊都国にいるというのですから、国は伊都国に限定され他の国は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。そこに「於国中有」の4文字が加わると意味が変わってきます。
この文は4の、仮定条件の伴う場合だということで、何かが仮定されており、条件が伴っています。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定され、それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になります。「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。
この「於」の文字の4つの解釈は漢文を和文に翻訳する時に生じるということですが、魏・晋朝の州刺史は最高位の地方行政官であって、関八州取締出役のように諸国を検察したり、外国から来た船を捜露する役人ではありません。通説は大変な誤解で、この誤解から面土国の存在を否定する考えが生じたように思われます。
伊都国は筑前糸島郡ではなく田川郡であり、面土国は宗像郡のようです。「自女王国以北」は遠賀川流域だと考えますが、その「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者こそ、帥升の140年後の子孫の面土国王であり、これが神話のスサノオなのです。
倭人伝に面土国の名が見えないことが問題ですが、狗奴国は「自女王国以北」の国ではありません。大乱以前の男王を狗奴国の男王と見れば面土国の存在は否定され、逆に面土国の存在を肯定すれば大乱以前の70~80年間の男王は面土国王であってもよいことになります。どちらを選択するかで結果は大きく変ってきます。
2012年1月29日日曜日
倭面土国を考える その4
西嶋定生氏の「この伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し」という考えを継承されているのが寺沢薫氏で、『王権誕生』(講談社、2000年12月)で次のように述べられています。
だが、王仲殊氏(もと中国社会科学院考古学研究所長)や中国古代史の西嶋定生氏は、『後漢書』より約五十年前に編纂された『後漢紀』に「倭国」とあることや、『魏志』、『魏略』などの検討から、『後漢書』にはもともと「倭国」もしくは「倭国王」と書かれ、「倭国土地」「倭面土国」「倭面上国」こそ実在しない国名であることを主張している。私もこの説をとる。
寺沢氏は大和の纒向遺跡を卑弥呼の王都とする畿内説を主張されていますが、大乱が起きる以前の倭国を「イト(伊都)倭国」と呼び、それは伊都国王を盟主とする北部九州の部族的な国家の連合体で、伊都国王の統治は大和には及んでいなかったとされているようです。
広形銅矛の分布範囲がイト「倭国」であり、近畿式銅鐸圏がそれに対峙していたとされ、「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、卑弥呼の共立でヤマト(大和)に権力の中枢を置く、新しい政体が誕生したと考え、これを新生倭国(ヤマト王権)と呼んでおられます。
この時に銅矛と銅鐸分布圏が統一されて、九州から近畿・東海にかけて統一国家が誕生したと考えられているようです。この考えは畿内説に共通すると言えますが、これだと神武天皇や「欠史八代」の天皇を認める必要がありません。
寺沢氏の言われる北部九州を中心とする「イト倭国」、及び大和を中心とする新生倭国(ヤマト王権)と、西嶋氏の言われる伊都国を中心とする「第一次の倭国」、及び卑弥呼を中心とする「第二次の倭国」は一見すると同じもののように思えます。しかしそれは「似て非なるもの」のようです。
西嶋氏は邪馬台国の位置を九州とも大和とも断定されていないと思いますが、その念頭には「倭面土国」を伊都国のことだとした白鳥庫吉の考えがあったと思います。そのために伊都国や邪馬台国は九州にあったが、「倭面土国」は大和朝廷によって統一された日本ということになったと思われます。
一方の寺沢氏の考えは内藤湖南の邪馬台国は大和にあったとする説、あるいは、「倭面土国」を大和朝廷によって統一された日本とする説に従ったものだと思われます。面土国の存在は邪馬台国の位置論に直結しており、これが別問題とされているために、邪馬台国の位置論がさらに複雑になっているようです。
両氏は『後漢紀』『魏志』『魏略』などの検討からは、「倭国土地」「倭面土国」「倭面上国」は実在しないことになるとされていますが、帥升を「倭面土国王」・「倭面上国」とする資料は中国にはなく、日本で書写された『通典』『翰苑』に限定されており、「倭面土国」を大和朝廷によって統一された日本とする根拠も見出すことができません。
面土国は存在しないという見解は畿内説にも九州説にも応用できますが、倭人伝の地理記事は説明不足で畿内説が正しいとも九州説が正しいとも断定できません。結果論になりますが、面土国は存在しないとする白鳥庫吉・内藤湖南の説を前提にした主観が述べられていることになりそうです。
寺沢氏は広形銅矛の分布範囲がイト「倭国」であり、近畿式銅鐸圏が「新生倭国」の中枢とされ、卑弥呼の登場を銅矛・銅鐸の分布圏が対峙していたと説明とされています。
寺沢氏は大和の纒向遺跡を王都とする卑弥呼の時代に古墳時代が始まるとされていますが、私は卑弥呼の王都は銅矛分布圏の九州にあったが、卑弥呼の死後に九州勢力の東への移動(神武東遷)があったと考えるのがよいと思っています。(2009年7月投稿「部族と青銅祭器」)
面土国が存在したことを前提にすると、西嶋氏の言われるように「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになります。卑弥呼を王に共立した一方の当事者が大乱以前の男王の面土国王だと考えるのが穏当であり、またそう考えるのが自然です。
だが、王仲殊氏(もと中国社会科学院考古学研究所長)や中国古代史の西嶋定生氏は、『後漢書』より約五十年前に編纂された『後漢紀』に「倭国」とあることや、『魏志』、『魏略』などの検討から、『後漢書』にはもともと「倭国」もしくは「倭国王」と書かれ、「倭国土地」「倭面土国」「倭面上国」こそ実在しない国名であることを主張している。私もこの説をとる。
寺沢氏は大和の纒向遺跡を卑弥呼の王都とする畿内説を主張されていますが、大乱が起きる以前の倭国を「イト(伊都)倭国」と呼び、それは伊都国王を盟主とする北部九州の部族的な国家の連合体で、伊都国王の統治は大和には及んでいなかったとされているようです。
広形銅矛の分布範囲がイト「倭国」であり、近畿式銅鐸圏がそれに対峙していたとされ、「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、卑弥呼の共立でヤマト(大和)に権力の中枢を置く、新しい政体が誕生したと考え、これを新生倭国(ヤマト王権)と呼んでおられます。
この時に銅矛と銅鐸分布圏が統一されて、九州から近畿・東海にかけて統一国家が誕生したと考えられているようです。この考えは畿内説に共通すると言えますが、これだと神武天皇や「欠史八代」の天皇を認める必要がありません。
寺沢氏の言われる北部九州を中心とする「イト倭国」、及び大和を中心とする新生倭国(ヤマト王権)と、西嶋氏の言われる伊都国を中心とする「第一次の倭国」、及び卑弥呼を中心とする「第二次の倭国」は一見すると同じもののように思えます。しかしそれは「似て非なるもの」のようです。
西嶋氏は邪馬台国の位置を九州とも大和とも断定されていないと思いますが、その念頭には「倭面土国」を伊都国のことだとした白鳥庫吉の考えがあったと思います。そのために伊都国や邪馬台国は九州にあったが、「倭面土国」は大和朝廷によって統一された日本ということになったと思われます。
一方の寺沢氏の考えは内藤湖南の邪馬台国は大和にあったとする説、あるいは、「倭面土国」を大和朝廷によって統一された日本とする説に従ったものだと思われます。面土国の存在は邪馬台国の位置論に直結しており、これが別問題とされているために、邪馬台国の位置論がさらに複雑になっているようです。
両氏は『後漢紀』『魏志』『魏略』などの検討からは、「倭国土地」「倭面土国」「倭面上国」は実在しないことになるとされていますが、帥升を「倭面土国王」・「倭面上国」とする資料は中国にはなく、日本で書写された『通典』『翰苑』に限定されており、「倭面土国」を大和朝廷によって統一された日本とする根拠も見出すことができません。
面土国は存在しないという見解は畿内説にも九州説にも応用できますが、倭人伝の地理記事は説明不足で畿内説が正しいとも九州説が正しいとも断定できません。結果論になりますが、面土国は存在しないとする白鳥庫吉・内藤湖南の説を前提にした主観が述べられていることになりそうです。
寺沢氏は広形銅矛の分布範囲がイト「倭国」であり、近畿式銅鐸圏が「新生倭国」の中枢とされ、卑弥呼の登場を銅矛・銅鐸の分布圏が対峙していたと説明とされています。
寺沢氏は大和の纒向遺跡を王都とする卑弥呼の時代に古墳時代が始まるとされていますが、私は卑弥呼の王都は銅矛分布圏の九州にあったが、卑弥呼の死後に九州勢力の東への移動(神武東遷)があったと考えるのがよいと思っています。(2009年7月投稿「部族と青銅祭器」)
面土国が存在したことを前提にすると、西嶋氏の言われるように「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになります。卑弥呼を王に共立した一方の当事者が大乱以前の男王の面土国王だと考えるのが穏当であり、またそう考えるのが自然です。
2012年1月22日日曜日
倭面土国を考える その3
西嶋定生氏は『邪馬台国と倭国』では「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国があったことになるとされていますが、『倭国の出現』ではその存在を否定されています。
西嶋氏と王仲殊氏の「其国」についての見解の相違は、其国・倭国・女王国・邪馬台国の詳細が不明なためで、西嶋氏の面土国の存在を否定される考えは、「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとする白鳥庫吉の説に依拠した主観論のように思われます。
王仲殊氏は「其国」を邪馬台国のことでもあるとしますが、邪馬台国は「女王乃所都」とあるだけで、卑弥呼が邪馬台国の王だという根拠はありません。戸数7万の邪馬台国を構成している小国のな かの一国で、卑弥呼が国都を置いている国に過ぎないようです。
王仲殊氏は「其国」を邪馬台国のことであり女王国のことだし、西嶋氏は倭国のことだとしていますが、女王国は女王が支配している国という意味ですから、女王国と「其国」は同じものだと考えるのがよいでしょう。では倭国はどの範囲をいうのでしょうか。
西嶋氏は「其国」を倭国のことだとされていますが、「倭面土国」を「ヤマト国」と読んで、大和朝廷支配下の日本(倭国)のことだと考えられているようです。大和朝廷成立以前の日本(倭国)には2世紀に帥升という王がいて、それは伊都国王だとされているようです。
「其国」が3世紀の女王国のことであれば、倭面土国王の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになります。西嶋氏が「其国」を問題視されるのは「其国」を大和朝廷支配下の日本(倭国)のこととするためのようで、これは「換骨奪胎」というべきでしょう。
「倭面土国」をヤマト国と読んで大和朝廷支配下の日本(倭国)のこととすれば、面土国の存在を否定することができ、「この伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり、七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し・・・」とすることが可能になってきます。
そうは言っても「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国があったことになるのも事実で、それが『倭国の出現』の「今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである」という記述になっているでしょう。
西嶋氏は東京大学教授を勤められ白鳥庫吉の説を継承する立場にありますが、おそらく伊都国は糸島市の周辺であり、伊都国以後は放射行程だとされていると思います。しかし伊都国は糸島市周辺ではないので、帥升を伊都国王としても矛盾が生じます。
そこで伊都国を中心とする第一次の倭国は「倭国の乱」で崩壊したとして、面土国の存在を否定し「倭面土国」は「倭国」と表記されるようになるとされているのでしょう。10世紀前半に成立した『旧唐書』倭国・日本伝に「日本国は倭国の別種である」とあります。
日本国の中心は大和だが、その過去には大和を中心とする日本国とは別の、九州を中心とする倭国があったと記されていると考えるのがよさそうです。私は面土国が2世紀どころか3世紀にも存在しており、それは筑前宗像郡だと考えています。
卑弥呼は共立されて王になりますが、卑弥呼を共立した一方の当事者が面土国王であり、卑弥呼を共立した後の面土国王は「自女王国以北」の諸国を、あたかも中国の「州刺史」の如くに支配するようになると考えています。
私の考えも面土国が存在したことを前提とする主観論だと言えなくはありませんが、主観を主張するだけでは論争にはなるけれど結論は出てきません。必要なことは傍証を詰めていくことではないかと思っています。
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