もう一つの宇佐神宮の特殊神事の行幸会神事は、大分県中津市大貞の薦神社境内にある三角池(御澄池とも)で刈り取られたマコモ(真薦、苽)で枕が調製され、調製された新しい薦枕が宇佐郡内の10社を巡幸する神事です。
巡幸が終わると前回に調製された古い薦枕は国東半島東南端にある奈多八幡宮に納められ、奈多八幡宮にあった前々回に調整された薦枕と取り替えられます。奈多八幡宮にあった古い薦枕は愛媛県瀬戸町三机に運ばれ、海に流されたということです。
この神事の主体は薦枕ですが、薦枕は神社の神体の鏡を入れるマコモで作られた箱だと考えています。出雲大社・鹿島神宮・八坂神社などにもマコモを用いる神事があり、マコモには魔よけの力があるとされています。それを新品に取り替えることで神霊が蘇生すると考えられているのでしょう。
前回には宇佐神宮の神体の鏡の鋳造に香春の古宮八幡宮が関与したことを述べましたが、その神官の鶴賀氏は辛国(からくに、新羅)からの渡来民だと言われています。宇佐神宮の神官を出す家系には宇佐・辛島・大神の3氏がありますが、豊前には渡来系氏族が多く辛島氏も渡来してきた泰氏系の氏族だと考えられています。
薦枕が調製される薦神社は辛島氏の祭る神社ですが、豊前北部の田河・京都から築城・上毛郡にかけて泰氏系の渡来民勢力が存在し、南部の宇佐氏系土着民と対立していたことが考えられます。辛島氏が宇佐神宮に関与するのはそうした由来によるのでしょう。
薦枕の巡幸は宇佐郡の全域にわたりますが、巡幸先は古伝では8社、現在では10社とされていて、10社のうちの宇佐系神社は5社、辛島系神社は4社で、大神系は1社だけだということです。行幸会神事は宇佐氏・辛島氏の神事であり、大神氏との関係は薄いようです。
不思議なことは薦枕の巡幸に大神宝と呼ばれる鉾が同行することです。旧暦11月初午の日に神事が始まりますが、翌日の下毛郡(中津市大貞)の薦神社と、4日目の豊後国速見郡(山香町)の辛川神社には薦枕は巡幸せず大神宝の鉾だけが巡幸します。
大神宝の鉾だけが巡幸する薦神社と辛川神社は辛島氏と関係があるようで、大神宝の鉾を祀る宇佐氏が、銅鏡を祀る辛島氏を牽制しているような感じを受けます。薦枕の巡幸は宇佐氏に対抗して辛島氏が創りだした神事であり、大神宝の鉾は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来すると考えます。
鉾の巡幸については四国・対馬に青銅祭器の銅矛が巡幸する実例がありますが、宇佐の大神宝の鉾は青銅祭器の銅矛が巡幸したことを伝えているのでしょう。奈多八幡宮の古い薦枕が愛媛県瀬戸町三机に運ばれるのも、四国西部に分布している多数の広形銅矛が運ばれたことを表しているように思えます。
それには大神氏は関係していないと思われますが、その始祖の大神比義は大和大神氏の分流で宇佐神宮の創始に参画し、以後大神氏が禰宜職・大宮司職を継いたが、宇佐氏との抗争に敗れて豊後に本拠を移したとされています。
平安後期以後の大神氏は、豊後の大野川・大分川流域を勢力基盤にしています。この大神氏は宗像氏と深い関係があるようで、『日本書記』第3の一書は次のように述べています。
即ち日神の生れませる三の女神を以っては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。
「宇佐嶋」は宇佐神宮のことであり「海の北の道の中」は宗像大社のことです。宇佐神宮二の御殿の比賣大神を宗像3女神とする説は大神氏が持ち込んだのでしょう。
この伝承は筑後三潴郡の豪族、水沼君の伝えたもののようで、大神氏が宗像氏・水沼君と関係のあったことを表しているようです。私は始祖の明確なものを宗族とし、始祖が不明確で神話・伝説上の始祖を持つのが氏族だと考えていますが、宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖なのでしょう。
周防灘・豊後灘沿岸部の青銅祭器の分布密度を見ると、宇佐周辺がもっとも濃密です。このことは宇佐が如何に重要な地であったかを示していますが、大神宝の鉾の巡幸は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来するのでしょう。
豊後国内の青銅祭器を見ると、筑後川流域には銅矛は見られるものの銅戈は見られず、逆に大野川流域には銅矛が見られません。そして宇佐では銅矛・銅戈が混在しています。大野川流域を勢力基盤とする大神氏は、筑前の宗像氏や筑後の水沼君と共に銅戈を配布した部族に属していたと考えます。
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