伊都国・末盧国のあたりで倭人伝の地理記事に変化が起きていますが、これは末盧国までが「従郡至倭」の行程で、伊都国以後は「自女王国以北」になるということで、その間の地理記事上の断絶部分に面土国があると考えることが可能になってきます。このことが考慮されないと面土国は存在しないことになります。
西嶋氏は面土国を解明する方法として音韻学と文献学を挙げています。他に考古学や民俗学もありますが、地政学が軽視されているように感じています。地政学は地理的な環境が軍事・政治・経済などに与える影響を考察する学問です。
倭人伝の地理記事についても地政学が応用できますが、図は私の考えている地政学的な意味での各国の位置です。右に国名とその理由を記しています。
国名 音 意味 位置
①斯馬 しま 島 志麻郡
②面土 みなと 港・水門 宗像郡
③伊都 いと 稜威(いつ)? 田河郡
④奴 の 野 鞍手郡
⑤不弥 うみ 海 遠賀郡
⑥邪馬台 やまと 山戸・山門 上座郡
⑦投馬 つま 水沼 妻郡
⑧邪馬 やま 山 日田郡
土地勘のある人ならこの図から、地勢が国名になっていることが分ると思います。しかし③の伊都国については地勢が国名になっているようには思えません。そこで伊都は稜威(いつ)ではないかと考えてみました。
稜威は厳と同義で、 ①斎み清められていること、神聖なこと ②勢いの激しいこと、威力の強烈なこと といった意味があり、天孫降臨の神話に「稜威(いつ)の道別き(ちわき)道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります」という用例があり、出雲の語源を「稜威藻」とする考え方もあります。
伊都国は田河郡だと考えていますが、田河郡は九州東北部の内陸交通の要所で南の英彦山方面、北の響灘方面、西の博多方面、東の周防灘方面、そして東北の関門海峡方面と、道路が五方に分岐しています。
そこで伊都国には一大率が置かれ、これを「常治」していました。伊都とは一大率が諸国を検察し諸国がこれを畏憚(恐れ憚る)していることを表す国名だと考えるのです。こじつけのようにも思えますが出雲=稜威藻の例もあります。
図では那珂郡を中心にした福岡平野に?を付けています。筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半の10郡ほどが戸数7万の邪馬台国だと考えますが、福岡平野がその中心であり、福岡平野に邪馬台という名の部族国家があってもよさそうなものです。
しかし部族国家としての邪馬台国は⑥の上座郡(朝倉郡)のようで、朝倉郡には斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」の伝承があります。?の部族国家としての国名が判明すればこのことが明らかになってくると考えますが、残念ながらそれは望めそうもありません。
私は?の福岡平野が神話の「竺紫の日向の小門の橘の阿波伎原」だと考えています。竺紫は筑紫のことであり、日向は太陽に向かった所という意味で、小門は小さな水門、もしくは瀬戸と考えられており、阿波伎原は平野を表しているとされています。
当時の三笠川・那珂川下流域は大きく湾入していたと考えられており、私は福岡平野と二日市地峡の境の須玖岡本遺跡付近が「小門の橘の阿波伎原」だと考え、?の部族国家としての国名も同様の意味を持ったものだったと推察しています。
部族国家としての邪馬台国は⑥の朝倉郡のようですが、これは筑後川下流部の筑後三瀦郡が⑦の投馬国であり、上流部の豊後日田郡が⑧の邪馬国であることによる国名のようです。邪馬台とは山戸・山門・山止・山登・山処の文字で表すことのできる、平野と山間地との境という意味の国名だと考えます。
私は倭面土国を「倭の面土国」と読む説に従い、それは筑前宗像郡だと考えています。山尾幸久氏は面土をmian-tagと読んでおられますが、その音はミナトであり、港・湊・水門の文字で表される海と陸の境の国という意味になります。地政学の面から言っても、またその歴史から言っても宗像郡はまさに「港の国」そのものです。
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