2012年1月22日日曜日

倭面土国を考える その3

西嶋定生氏は『邪馬台国と倭国』では「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国があったことになるとされていますが、『倭国の出現』ではその存在を否定されています。

西嶋氏と王仲殊氏の「其国」についての見解の相違は、其国・倭国・女王国・邪馬台国の詳細が不明なためで、西嶋氏の面土国の存在を否定される考えは「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとする白鳥庫吉の説に依拠した主観論のように思われます。

王仲殊氏は「其国」を邪馬台国のことでもあるとしますが、邪馬台国は「女王乃所都」とあるだけで、卑弥呼が邪馬台国の王だという根拠はありません。戸数7万の邪馬台国を構成している小国のな  かの一国で、卑弥呼が国都を置いている国に過ぎないようです。

王仲殊氏は「其国」を邪馬台国のことであり女王国のことだし、西嶋氏は倭国のことだとしていますが、女王国は女王が支配している国という意味ですから、女王国と「其国」は同じものだと考えるのがよいでしょう。では倭国はどの範囲をいうのでしょうか。

倭人伝に「女王国の東、海を渡ること千余里に複た国有り、皆倭の種」とあります。これは女王国に居るのは倭人だが、海を渡った所にいるのも同じ倭人だということで、この場合の倭国は女王国ということになり、「其国」は女王国でもあり倭国でもあることになります。

『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成6年)で西嶋氏は、倭人伝に「倭女王」が3度出てくるが、いずれも卑弥呼・台与に関係するものだと述べていますが、この場合の倭も女王国と考えてよいでしょう。倭国と女王国とは同じものなのです。

西嶋氏は「其国」を倭国のことだとされていますが、「倭面土国」を「ヤマト国」と読んで、大和朝廷支配下の日本(倭国)のことだと考えられているようです。大和朝廷成立以前の日本(倭国)には2世紀に帥升という王がいて、それは伊都国王だとされているようです。

「其国」が3世紀の女王国のことであれば、倭面土国王の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになります。西嶋氏が「其国」を問題視されるのは「其国」を大和朝廷支配下の日本(倭国)のこととするためのようで、これは「換骨奪胎」というべきでしょう。

「倭面土国」をヤマト国と読んで大和朝廷支配下の日本(倭国)のこととすれば、面土国の存在を否定することができ、「この伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり、七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し・・・」とすることが可能になってきます。

そうは言っても「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国があったことになるのも事実で、それが『倭国の出現』の「今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである」という記述になっているでしょう。

西嶋氏は東京大学教授を勤められ白鳥庫吉の説を継承する立場にありますが、おそらく伊都国は糸島市の周辺であり、伊都国以後は放射行程だとされていると思います。しかし伊都国は糸島市周辺ではないので、帥升を伊都国王としても矛盾が生じます。

そこで伊都国を中心とする第一次の倭国は「倭国の乱」で崩壊したとして、面土国の存在を否定し「倭面土国」は「倭国」と表記されるようになるとされているのでしょう。10世紀前半に成立した『旧唐書』倭国・日本伝に「日本国は倭国の別種である」とあります。

日本国の中心は大和だが、その過去には大和を中心とする日本国とは別の、九州を中心とする倭国があったと記されていると考えるのがよさそうです。私は面土国が2世紀どころか3世紀にも存在しており、それは筑前宗像郡だと考えています。

卑弥呼は共立されて王になりますが、卑弥呼を共立した一方の当事者が面土国王であり、卑弥呼を共立した後の面土国王は「自女王国以北」の諸国を、あたかも中国の「州刺史」の如くに支配するようになると考えています。

私の考えも面土国が存在したことを前提とする主観論だと言えなくはありませんが、主観を主張するだけでは論争にはなるけれど結論は出てきません。必要なことは傍証を詰めていくことではないかと思っています。

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