2011年8月21日日曜日

西谷墳墓群 その3

山陰・吉備の青銅祭器の祭祀は倭国大乱以後も続いていた考えていますが、その時期に吉備では盾築墳丘墓に代表される特殊器台・特殊壷を用いた墳墓の祭祀が行われ、山陰では四隅突出型墳丘墓と呼ばれている墓が急に巨大化します。

四隅突出型墳丘墓のビッグ5を挙げると次のようになります。これらは古墳時代の墓である古墳ならそう大きいとは言えませんが、弥生時代のものとしては岡山の盾築墳丘墓を除くと全国でも最大で、そのうちの4基が西谷墳墓群にあります。

① 出雲市西谷墳墓群9号墓  61m×55m×5m
② 鳥取市西桂見墳丘墓    約60m 消失
③ 出雲市西谷墳墓群3号墓  52m×42m×4、5m
④ 出雲市西谷墳墓群4号墓  47m×45m×3、5m
⑤ 出雲市西谷墳墓群2号墓  46m×29m×3、5m

西谷墳墓群は6基の四隅突出型墳丘墓、21基の円墳・方墳、3つの横穴墓群から成りますが、その立地から見て斐伊川下流域を勢力基盤とし、出雲平野や斐伊川流域に影響力を持っていた一族の墓域であることが考えられます。

6基の四隅突出型墳丘墓の年代は倭国大乱から古墳時代初頭と考えられており、1号墓・3号墓→2号墓→4号墓→6号墓・9号墓の順になるということです。それは前回・前々回に述べた、他地域に先立って山陰や吉備から青銅祭器が「姿を消した」とされている時期に当たります。

2号墓は当初小規模なものだと考えられていましたが、発掘調査の結果意外に大きな墓であることが分かってきました。そして南に隣接する3号墓とは、極めて近い時期のものであることも分かり、6基の四隅突出型墳丘墓ごく短期間に築造された考えられています。

私は90年間隔で時代が変転していると考え、倭国大乱を180年ころとし、古墳時代の始まりを270年ころとするのが良いと思っていますが、その間に6基が順次に築造されたと仮定すると15年間隔で築造されていることになります。

3号墓では中央の墓壙上で260点にも上る大量の土器が出土しましたが、その出土状況から神社の神事で行われる「直会、なおらい」のような「共飲共食」の葬送儀礼が行われたことが考えられています。

3号墓から出土した土器の3分の1は吉備や北陸~丹波地方のものだということで、山陰と吉備、そして山陰と北陸~丹波地方の間には様々な共通点があり、首長間に交流があったことが考えられています。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』図録からお借りしたもので一部省略していますが、西谷墳墓群に吉備や北陸~丹波地方の土器が集まっていることが説明されています。赤色が吉備の特殊器台・特殊壷の分布です。

これは西谷墳墓群だけでなく、青谷上寺地遺跡を始めとして山陰各地で確認されており、密接な関係があったと考えられています。四隅突出型墳丘墓の分布と特殊器台・特殊壷の分布が中国山地で接触していることに注意が必要なようです。

大国主の神話は一面で因幡の八上比売、越(北陸地方)の沼河比売、紀伊と関係の有りそうな須勢理比売を「妻問い」(つまどい、求婚)する物語だと言えますが、倭人伝は大人と呼ばれる階層が四・五婦を持っていると記しています。多くの妻を持つことはそれだけ女系(母系)の同族が多いということで、勢力の強いことを表します。

西谷墳墓群の被葬者の通婚圏は吉備や北陸~丹波地方にまで及んでいたのでしょう。私は大国主について銅鐸を配布した部族の神話・伝説上の始祖だと考えていますが、図には大国主の妻問いの物語の時代背景が説明されているとも言えそうです。

西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の時期とスサノオから大国主に至る6代の神の活動時期とは、共に倭国大乱から古墳時代初頭だと考えています。西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の被葬者が、6代の神のモデルになっていると考えることができそうです。


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