2011年9月11日日曜日

西谷墳墓群 その6

弥生時代には出雲だけでなく全国各地で「寄り合い評定」が行われていたようです。大和の纒向遺跡は卑弥呼の都であったと喧伝されていますが、初期の纒向遺跡もやはりそうした「寄り合い評定」の場だったと考えています。

そして出雲では西谷墳墓群の北2キロにある万九千神社付近が「寄り合い評定」の場になったと考えます。西谷墳墓群の2号墓・3号墓は復元されていて墳丘上に登ることができ、墳丘上からは斐伊川下流域を見渡すことができます。

その視界の中央に、万九千神社と立虫神社の2社が同じ境内で祭られています。万九千神社から斐伊川を渡った対岸の出雲市大津は、中世に陸路の山陰道と斐伊川による河川交通が交差する港町として栄えた所です。

立虫神社は元は大津に近い所にあったが斐伊川の洪水で川筋が変わり現在地に移ったと言われています。大津の地名が示しているように万九千神社・立虫神社の付近は、弥生時代にあっても斐伊川流域の交通の要所になっていたようです。

そこが「寄り合い評定」の場になっていたようで、付近の地名を「神立」と言っています。「出雲神在祭」の最終日の晩に神々が万九千神社に集まって饗宴を催し、その後に各地に帰って行くのでこのように呼ぶと言われています。

仮に「寄り合い評定」に集まってきた人々が「寄り合い評定」の経てきた歴史を語り伝えたとしたら、その舞台は万九千神社周辺や、その南2キロにある西谷墳墓群が中心になるはずですが、事実、出雲平野や斐伊川流域・神戸川流域が神話の中心になっていると言えるようです。

西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の年代は1号墓・3号墓→2号墓→4号墓→6号墓・9号墓の順になりますが、1号墓・3号墓は後期後半の初頭で倭国大乱のころになるそうです。私は倭国大乱が中国地方に波及してきたことが、スサノオのオロチ退治として語られていると考えています。

2号墓・4号墓は後期後半の中葉で、布波能母遅久奴須奴神、深淵之水夜礼花神・淤美豆奴神の活動する時期になりそうですが、八島士奴美・布波能母遅久奴須奴については具体的な活動が見られません。深淵之水夜礼花も水の神格であり斐伊川との関係を感じさせますが、この地との直接の関係を示すものがありません。

淤美豆奴については『出雲国風土記』の八束水臣津野と同神とする説があり、国引きについては意宇郡に伝承がありますが、万九千神社に近い斐川町富村の富神社には、国引きを終えた八束水臣津野がこの地に住んだという伝承があります。

『出雲国風土記』杵築郷の条、伊努郷の条にも八束水臣津野に関する記述が見え、少なくとも八束水臣津野については斐伊川の下流部や出雲大社の周辺が活動の場になっています。

6号墓・9号墓は後期後半末期~古墳時代初頭で、出雲神話では天之冬衣・大国主の活動する時期になりそうです。天之冬衣には日御碕神社の宮司家の祖という伝承があり、大国主は出雲大社の祭神になっています。

4号墓と6号墓の間に位置している5号墓は、四隅突出型墳丘墓ではなく詳細が不明ですが、4号墓・6号墓との位置関係から弥生終末期のものと考えられています。このように考えると3号墓の被葬者はスサノオであり、最大の9号墓の被葬者は大国主だということになってきそうです。

しかしスサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、一面では銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になった面土国王でもあります。また大国主は銅鐸を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、大和盆地の支配者という一面を持っています。

『出雲国風土記』にはスサノオのオロチ退治が見られませんが、7代に亘る西谷墳墓群の被葬者の王統に、筑紫のスサノオや大和の大国主の事跡、或いは青銅祭器を配布した部族が結び付けられて、『古事記』『日本書記』の出雲神話が形成されたと見るのがよさそうです。

2011年9月4日日曜日

西谷墳墓群 その5

出雲市青木遺跡で銅鐸片が副葬品として出土したことは、青銅祭器の祭祀は後期後半も続いていたということでしょう。祭祀が終わるのは他の地域と同様に弥生時代の終わりになるようですが、四国の太平洋側では大型化した銅矛や銅鐸を受け入れているのに、瀬戸内や山陰はなぜ受け入れなかったのでしょうか。

この謎を解く鍵は出雲の特殊神事「出雲神在祭」にありそうです。旧暦の10月を「神無月」と言いますが、全国の神々が出雲に参集するために神々が居なくなるのでこのように呼ばれるとされ、出雲では逆に神在月になります。

宇佐神宮の放生会神事も規模の大きいことや、全国の八幡宮で行われることなど似ている点がありますが、「出雲神在祭」のように祭神の異なる神社が同じ神事を行うのではなく、全国から神々が集まるということも言われていません。

私は「出雲神在祭」の始原は部族の統治形態が「合議制統治」であったことによると考えています。小説家・思想家の白柳秀湖(1884~1950)は『民族歴史建国編』(昭和17年、千倉書房)で、出雲神有在祭がツングース族の「ムニャック」という「寄り合い評定」に似ていると述べています。

鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり、国政の得失を論じ、それは巨帥(統領)の任免にまで及んだということです。「出雲神在祭」で神々が出雲に参集するのは宗族の族長など有力者が召集され、いわば今日の「通常国会」に相当するものが開かれたということで、異常時には「臨時国会」に相当するものも召集されたようです。

江上波夫氏は『騎馬民族』(中公新書)で、匈奴の国家運営形態を蒙古族のクリュリタイに似たものであったとしています。匈奴は遊牧生活の変わり目に国家的な祭典を行い、国事を議定し人民・家畜数を調査し、租税の徴収を計画したと述べられています。

それには匈奴国家を形成する全部族(宗族)が集合する義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺されたと言います。匈奴も鮮卑と同様に部族連合国家で巨帥(統領)が統治しており、一般の族長は大会に参加する義務があったようです。

鮮卑・匈奴の例などから見て、部族に擁立された倭人の王の支配権は極めて弱く、鮮卑の巨帥(統領)のようなものだったでしょう。出雲神有在祭の原形は有力者を招集して行われる、白柳秀湖のいう「寄り合い評定」だと思われます。

出雲の場合にも匈奴の例のように「寄り合い評定」に強制力があり、故意に出席しないと国に対する敵意・謀反と受止められて抹殺されることもあったでしょう。荒神谷遺跡・賀茂岩倉遺跡にこれだけ多数の青銅祭器が集まったのは「寄り合い評定」の合意によるものであり、それに強制力があったからでしょう。

出雲神在祭で神々が参集する目的には縁結びや会議の他に 、酒作りや料理のためとするものもありますが、第一の目的は「縁結び」だったと思います。出雲大社が「縁結びの神」とされるのは祭神の大国主に多数の妻が居ることから艶福の神とされ、良縁に恵まれるからだと言われています。

これは俗説であって、「縁結び」とは部族が勢力を拡大しようとして通婚を強要し、それが争乱に発展したことから、強引な通婚と青銅祭器の配布を規制するものであったと考えます。余談ですが出雲の神は縁を結ぶ神であると同時に、道ならぬ縁を戒める神でもあるということになりそうです。

通婚を国家権力で規制すれば、部族は勢力を拡大することができず争乱も起きなくなります。これは部族の構成が固定されるということであり、青銅祭器を配布する必要がなくなるということです。

それに伴って「寄り合い評定」を召集する王(巨帥・統領)や、それに参加する宗族長など有力者個人の権威が高まり、四隅突出型墳丘墓が急に大型化すると考えられます。青銅祭器を製作・配布するエネルギーが、墳墓を巨大化させる方向に向かったとも言えるでしょう。

それが青銅祭器の祭祀が行われなくなったと考えられているのですが、「寄り合い評定」は合意があって初めて機能します。女王国では部族間の対立があり卑弥呼の下した神意が合意と見なされたようですが、出雲の場合には通婚を規制して部族の対立を防止する「根回し」が行われていたようです。

2011年8月28日日曜日

西谷墳墓群 その4

図は予想される弥生・古墳時代の出雲平野ですが、斐伊川は西流して「神門水海」(旧神在湖)に流入しており、宍道湖の西岸も現在よりも5キロほど西にあり、斐川町直江付近であったことが考えられています。

出雲平野の象徴とも言える仏経山を中心とする5~6キロ以内には、西出雲の重要な遺跡が集中しています。

図では割愛していますが仏経山の北北西14キロに出雲大社があり、出雲大社を除外しての出雲神話は存在しないと言ってよいでしょう。

それを端的に表しているのが寛文5年(1665)に、出雲大社の境外摂社・命主神社背後の真名井遺跡で銅剣1本・銅矛2本・銅戈1本・勾玉1個が出土したという記録が残っていることでしょう。

現存しているのは銅戈1本と勾玉1個だけで、当時、正確に銅剣・銅矛・銅戈の区別がされていたようには思えません。銅剣・銅矛が現存していたらこの地に出雲大社が存在するようになった理由を解明する格好の手懸りになりそうですが、現存していないのが残念です。

東南東5キロの神原神社古墳は卑弥呼に賜与された百枚の銅鏡ではないかとされる、景初3年銘のある三角縁神獣鏡が出土したことで知られています。しかしこの古墳は4世紀のもので卑弥呼と関係があるようには思えません。

西5キロには出雲市の今市大念寺古墳があります。付近は上塩治築山古墳など古墳の密集地帯になっており、西谷墳墓群に続く古墳時代の出雲の中心であったことが考えられています。この密集する古墳の被葬者については神門川流域の神門郡を本貫とする神門臣の一族が考えられています。

神門臣の一族に出雲郡健部郷の健部臣がありますが、言うまでもなく健部郷には荒神谷遺跡があります。荒神谷遺跡に青銅祭器が集まったについては神門臣やその一族の遠祖が関与したことを考える必要もありそうです。

律令制出雲国の中心は東部の意宇郡ですが、出雲国出雲郡の郡衙(郡役所)は出雲郷(斐川町求院付近)にありました。図で言えば仏経山と西谷墳墓群の間の、斐伊川沿いの地域になりますが、国名・郡名・郷名までもが「出雲」だということは、かつてはこの地が出雲国の中心であったということでしょう。

出雲郡神戸郷は出雲郷の北の平野部になりますが、出雲大社の神戸(神領)だということでしょう。神戸から出される租・庸・調(税)は神社の造営費用や供神料に当てられましたが、その名残が斐川町の「千家」という地名のようです。

千家は出雲大社の祭祀者で出雲国造とも称される千家氏のことでもあるようで、古く出雲国造は松江市大庭の神魂神社の祭祀を行っており、神魂神社付近に「国造館」という建物がありました。

斐川町の千家という地名については神魂神社や熊野大社の祭祀と関係があると言われていますが、詳しいことは分かっていないようです。斐川町千家付近が神戸郷であることから見て、出雲国造が神魂神社や熊野大社の祭祀を行うための費用・労務を負担していたようにも思われます。

出雲国造は『類聚三代格』に「慶雲三年以来令国造帯郡領」とあり、慶雲3年(706)から延暦17年(798)まで出雲国造と意宇郡の郡司を兼帯しており、神魂神社のある大庭で意宇郡司として執務したことが考えられます。

その後の出雲国造は意宇郡の郡司職を一族の者に譲り、出雲大社の祭祀に専念するようになると言われています。国造の代替わりの儀式である「火継式」が熊野大社と神魂神社で行われるのは、かつては意宇郡司を世襲していたことを表していると考えることもできそうです。

弥生時代後期後半(180~270年ころ)の出雲の中心は仏経山の周辺のようですが、それを支配していたのが西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の被葬者だと考えることができそうです。それがスサノオから大国主に至る7代の出雲の神になることが考えられ、それらの神を祀る立場にあるのがアメノホヒ(天穂日)の子孫とされている出雲国造だということになってきそうです。

2011年8月21日日曜日

西谷墳墓群 その3

山陰・吉備の青銅祭器の祭祀は倭国大乱以後も続いていたと考えていますが、その時期に吉備では盾築墳丘墓に代表される特殊器台・特殊壷を用いた墳墓の祭祀が行われ、山陰では四隅突出型墳丘墓と呼ばれている墓が急に巨大化します。

四隅突出型墳丘墓のビッグ5を挙げると次のようになります。これらは古墳時代の墓である古墳ならそう大きいとは言えませんが、弥生時代のものとしては岡山の盾築墳丘墓を除くと全国でも最大で、そのうちの4基が西谷墳墓群にあります。

① 出雲市西谷墳墓群9号墓  61m×55m×5m
② 鳥取市西桂見墳丘墓    約60m 消失
③ 出雲市西谷墳墓群3号墓  52m×42m×4、5m
④ 出雲市西谷墳墓群4号墓  47m×45m×3、5m
⑤ 出雲市西谷墳墓群2号墓  46m×29m×3、5m

西谷墳墓群は6基の四隅突出型墳丘墓、21基の円墳・方墳、3つの横穴墓群から成りますが、その立地から見て斐伊川下流域を勢力基盤とし、出雲平野や斐伊川流域に影響力を持っていた一族の墓域であることが考えられます。

6基の四隅突出型墳丘墓の年代は倭国大乱から古墳時代初頭と考えられており、1号墓・3号墓→2号墓→4号墓→6号墓・9号墓の順になるということです。それは前回・前々回に述べた、他地域に先立って山陰や吉備から青銅祭器が「姿を消した」とされている時期に当たります。

2号墓は当初小規模なものだと考えられていましたが、発掘調査の結果意外に大きな墓であることが分かってきました。そして南に隣接する3号墓とは、極めて近い時期のものであることも分かり、6基の四隅突出型墳丘墓はごく短期間に築造されたと考えられています。

私は90年間隔で時代が変転していると考え、倭国大乱を180年ころとし、古墳時代の始まりを270年ころとするのが良いと思っていますが、その間に6基が順次に築造されたと仮定すると15年間隔で築造されていることになります。

3号墓では中央の墓壙上で260点にも上る大量の土器が出土しましたが、その出土状況から神社の神事で行われる「直会、なおらい」のような「共飲共食」の葬送儀礼が行われたことが考えられています。

3号墓から出土した土器の3分の1は吉備や北陸~丹波地方のものだということで、山陰と吉備、そして山陰と北陸~丹波地方の間には様々な共通点があり、首長間に交流があったことが考えられています。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』図録からお借りしたもので一部省略していますが、西谷墳墓群に吉備や北陸~丹波地方の土器が集まっていることが説明されています。赤色が吉備の特殊器台・特殊壷の分布です。

これは西谷墳墓群だけでなく、青谷上寺地遺跡を始めとして山陰各地で確認されており、密接な関係があったと考えられています。四隅突出型墳丘墓の分布と特殊器台・特殊壷の分布が中国山地で接触していることに注意が必要なようです。

大国主の神話は一面で因幡の八上比売、越(北陸地方)の沼河比売、紀伊と関係の有りそうな須勢理比売を「妻問い」(つまどい、求婚)する物語だと言えますが、倭人伝は大人と呼ばれる階層が四・五婦を持っていると記しています。多くの妻を持つことはそれだけ女系(母系)の同族が多いということで、勢力の強いことを表します。

西谷墳墓群の被葬者の通婚圏は吉備や北陸~丹波地方にまで及んでいたのでしょう。私は大国主について銅鐸を配布した部族の神話・伝説上の始祖だと考えていますが、図には大国主の妻問いの物語の時代背景が説明されているとも言えそうです。

西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の時期とスサノオから大国主に至る6代の神の活動時期とは、共に倭国大乱から古墳時代初頭だと考えています。西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の被葬者が、6代の神のモデルになっていると考えることができそうです。


2011年8月14日日曜日

西谷墳墓群 その2

青銅祭器が埋納される時期ついての通説では、中広形の武器形祭器と「聞く銅鐸」の段階で一度埋納され、さらに広形の武器形祭器と「見る銅鐸」の段階でもう一度埋納されて、2度の埋納時期があるとされています。

荒神谷遺跡でも中広形銅剣b類と最古形式の近畿Ⅰ式銅鐸が隣り合わせで出土していて、中国・四国地方の青銅祭器は第一段階で埋納されたように思えます。しかし私は中国・四国地方の青銅祭器の祭祀はその後も続くと考えています。

その根拠は多くは有りませんが、出雲平野の北部に位置する出雲市青木遺跡で銅鐸の「飾耳」と言われている部分が副葬品として出土しています。通説では銅鐸片は鋳造の原材料だと考えられています。

青木遺跡の場合には埋葬された若い女性の頭部から出土しており、被葬者のアクセサリーではないかと言われています。銅鐸片が鋳造とは無関係の場所から出土していますが、銅鐸片には同時期の銅鏡片と共通する点があります。

福岡県平原遺跡の直径46,5センチの大鏡は当初4面だと考えられていましたが、成分々析の結果5面であることが分かりました。副葬された時点ですでに破砕されており大部分が無かったのですが、銅鏡片として配布されたとも言われます。

巨大な鏡が造られる一方で、この時期には直径5センチ程度の小型仿製鏡や、後漢鏡などを数個に分割した「分割鏡」が造られています。これらの銅鏡は絶対数の不足した大型鏡を補うために造られたとされています。

銅鐸にも同じ傾向が見られ、滋賀県小篠原1号鐸は135センチにもなりますが、その一方では三遠式銅鐸分布圏の東側の東海・関東を中心に10センチ以下の小銅鐸が見られるようになり、また各地に銅鐸片が現れてきます。

小銅鐸は中期に朝鮮半島からもたらされた「朝鮮式小銅鐸」とは別系統のもので、中には副葬されたものもあって一般の銅鐸とは性格が異なると言われていますが、通常の銅鐸とは異質の祭祀が行われたことが考えられます。

銅鏡は有力者の個人的な所有物であり銅鐸は宗族の共有物なので、銅鐸が副葬されることはありませんが、この時期には小銅鐸・銅鐸片を小型仿製鏡・分割鏡のように個人的に祀る者があり、銅鐸の絶対数が不足したことが考えられます。

中国では宗族が合流することを「連宗」と言い、連宗した宗族には一つの社会を形成できるほど巨大なものがありました。倭人の部族は中国の冊封体制に組み込まれたことにより王を擁立するための組織になり、宗族も連宗することによって規模が大きくなって、後に古墳時代の氏族になることが考えられます。

中国の宗族には特に族長を出す家系は無く、族長は年長者の中から選ばれるということですが、倭人伝には「尊卑各差序有り、相臣服するに足る」とあります。後期後半から終末期の倭人の宗族の場合には族長を出す家系が存在したと考えてよいように思います。

青銅祭器が大型化することは、部族が巨大化すると共に配布を受ける側の宗族の規模も時代が下ると共に大きくなるということでしょう。それに伴って身分差が大きくなり、それに応じた役割の分担があったことが考えられます。

族長を出す家系、あるいは祭祀を担当する家系が、本来は宗族の共有物である銅鐸を個人的に祀るようになることが考えられます。また青銅祭器の製作には宗族も相応の費用・労力を負担したでしょうから、規模の小さな宗族は巨大な銅鐸を入手することができなかったでしょう。

そこで10センチにも満たない小銅鐸が造られ、また一方では銅鐸片が造られ、特定の家系が個人的に祀るようになることが考えられます。大津遺跡で銅鐸片が副葬品として出土したことは、倭国大乱以後にも青銅祭器の祭祀は続いていたということだと考えます。

銅鐸片には銅鐸の「鰭」「飾耳」と呼ばれている、剥離し易すく原形をあまり損なわない部分が利用されることが多かったのではないかと思います。剥離された銅鐸片と元の銅鐸は一個の銅鐸と見なされており、「連宗」があったと考えると面白くなってきます。

2011年8月7日日曜日

西谷墳墓群 その1

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』図録からお借りしたものですが、私はこの図に出雲神話が集約されていると思っています。右下に図の説明がされていますが、字が小さくて読み難いので右側に書き出してみます。

神庭荒神谷遺跡に青銅器を埋めて青銅の神と決別した出雲は、全国にも先駆けて吉備とともに大きな墓を作ることによる「王」の神格化に成功した。しかし、ほかの地域は青銅器そのものをさらに巨大化させることによって、青銅の神をまつり続けようとしていた

図には山陰や吉備で銅剣・銅鐸が姿を消した弥生時代後期後半の状態が示されていますが、北部九州と四国西部に広形銅矛が分布し、近畿と四国東部にⅣ式・Ⅴ式の近畿式銅鐸が分布し、東海西部に三遠式銅鐸が分布するようになります。

3世紀後半にすべての青銅祭器が姿を消して古墳が出現しますが、山陰や吉備では古墳の出現に先立って青銅祭器の祭祀をやめて墳墓の祭祀に変えたが、周囲ではその後も青銅祭器の祭祀は続いていたと説明されています。

青銅祭器の祭祀に替えて吉備では特殊器台・特殊壷を用いた墳墓の祭祀が行われ、山陰では四隅突出型墳丘墓と呼ばれている墓が特に大型化しますが、それが「王の神格化に成功した」と述べられています。

荒神谷遺跡の銅剣358本は岩永省三氏の分類による中細形c類で、中期末~後期初頭のものと言われています。銅矛16本は2本が中細形で、2本が中広形a類、12本は中広形b類だそうですが、中細形は中期後半のものであり、中広形は後期前半のものだとされています。

銅鐸6個は最古形式のⅠ式が2個、古形式のⅡ式が4個ということで、中期のものとされています。加茂岩倉遺跡の銅鐸39個には荒神谷の銅鐸に続くⅡ式・Ⅲ式が多く、Ⅳ-1式も3個あるということですが、Ⅳ-1式以後の新形式の銅鐸が見られなくなります。

出雲国の青銅祭器は荒神谷の12本の中広形銅剣b類、加茂岩倉のⅣ-1式銅鐸を最後として姿を消しています。瀬戸内海沿岸に分布する平形銅剣もⅠ式とⅡ式に分類され、Ⅱ式は広形銅矛に平行する時期のものではないかとも言われていますが、やはり同じころに姿を消すようです。

荒神谷遺跡の中広形銅矛b類は後期前半の末期に鋳造されたとされていますから、それが埋納されるのは後期後半でなければいけません。上図には後期後半の状態が示されていることになります。

通説では後期の始まりは1世紀中葉とされていますが、私は107年に面土国王の帥升が遣使したことが原因になって中期から後期に移っていくと考えています。しかし後期の終わりは270~80年ころと考えるので、後期中葉は通説と大差はなく2世紀末の倭国大乱で、卑弥呼が共立されたころになると考えます。

九州の銅戈は中広形の段階では銅矛を凌駕する数が鋳造されていますが、広形になると激減しています。その原因については倭国に大乱が起きて面土国王から卑弥呼に倭王位が移り、面土国王を擁立した銅戈を配布した部族が衰退したことによると考えています。

九州の大乱に連動して中国・四国地方でも争乱が起きるようです。九州の争乱は銅矛と銅戈を配布した部族の対立ですが、中国・四国地方では銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族が対立する関係にあったが、その対立に銅矛を配布した部族が介入したことで争乱に発展したようです。

神話では中国・四国地方の争乱がスサノオのオロチ退治として語られているようです。オロチが娘を呑むというのは、銅矛を配布した部族が勢力を拡大しようとして通婚を強要し、荒神谷遺跡の中広形銅矛を配布したことが語られているようです。(2009年12月投稿)

上図の解説では倭国大乱以後、出雲や吉備では青銅祭器の祭祀は行なわれなくなるとされていますが、強引な通婚が規制されて、青銅祭器を鋳造することやそれを受け入れることはなくなるものの、祭祀そのものはその後も続くと思っています。

2011年7月31日日曜日

出雲神話 その4

倭人伝の記事で出雲に関係すると思われるのは「女王国の東、海を渡ること千余里に複た国有り、皆倭の種」とあるだけですが、「海を渡ること千余里」については二つの解釈ができます。倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡の東郷・土穴付近であり、千里は65キロですが、そうすると東の海は関門海峡になり、倭種の国は下関市付近にあったことになります。

もう一つの考え方はこの海を周防灘と考え、豊前の草野津(行橋市草野)から周防灘を渡ること65キロに倭種の国が有ると解釈するものです。

その場合には周防の佐波付近に国があることになりますが、これだと周防・長門の西半分は女王国に属していることになります。倭人伝の地理記事だと九州の東海岸までが女王国であり、海を渡ると女王国ではないように思えます。

どちらを選択したらよいのか迷っていますが、土器の分布状況などから周防灘・豊後灘沿岸に、「西瀬戸内文化圏」とでも呼ぶべきものを想定し、女王の主権下にはあるけれども半ば独立した国がある、と解釈するのも一案かと思っています。いずれにしても周防・長門を除いた中国・四国地方が稍を形成していると考えてよいようです。

この中国・四国地方の「稍」を、神話の出雲とするのがよいと考えますが、その中心になっていたのが律令制の出雲国を中心とする山陰地方だと考えます。神話には吉備や四国があまり登場してきませんが、その場合、吉備や四国を「出雲」の範疇に入れてよいのかという問題が出てきます。

島根半島はかつて島でしたが、斐伊川・神戸川の土砂による沖積で半島になりました。今の斐伊川は東流して宍道湖に流入していますが、『出雲国風土記』では西流して大社湾(神門水海)に流入しています。

江戸時代の寛永12年、16年の洪水で東流するようになったとも言われていますが、出雲平野の弥生遺跡は東流・西流を繰り返す斐伊川が残した自然堤防の上に営まれています。弥生時代には小型の川船なら大社湾から宍道湖に渡ることができたかもしれません。

この想定される水道をスサノオが活動する所と言う意味で「素尊水道」と呼ぶ人もいます。「素尊水道」周辺の出雲と伯耆西部の方言を「雲伯方言」と言いますが、雲伯地方に共通する文化が存在したことを表しているようです。

今では宍道湖・中海と、これに流入する河川を一括して「斐伊川水系」と言っていますが、そこに対馬海流に乗って朝鮮半島や北部九州の文化が伝わってきたことが考えられます。

それには北部九州の文化、ことに宗像(面土国)や周防など、対馬海流の影響を受ける響灘沿岸との関係が考えられています。、また神話や出土品などから、この地は九州と近畿北部・北陸との中継地になっていたことが考えられています。

その文化は出雲の斐伊川・神戸川、伯耆の日野川沿いに中国山地を越えて、美作や備中の高梁川、備後・安芸の江の川流域などに伝えられたことが考えられます。さらには瀬戸内海を渡って四国に伝わったことを考える必要もありそうです。

もちろん瀬戸内や四国には瀬戸内海航路による文化の流入があり、瀬戸内沿岸部の平形銅剣はこのことを表していると考えることができます。しかし備後北部の塩町式土器は吉備の上東式よりも山陰の青木Ⅱ式に近いということで、中国山地は山陰の文化圏に属していたことが考えられています。

大和朝廷が成立し大和が政治・文化の中心になると、逆に大和の文化が瀬戸内海を渡り、吉備から中国山地を越えて出雲に流入するようです。同時に山陰の文化圏に属していた吉備北部の山間部は山陽の文化圏に属すようになるようです。

とかく出雲と吉備は対比され、吉備と出雲とは別のものと思われがちですが、少なくとも弥生時代の吉備北部と山陰とは一体だと考えなければならないようです。それは吉備・安芸の平野部に及んでいたようです。

2011年7月24日日曜日

出雲神話 その3

出雲は地理的に筑紫と大和の中間に位置していますが、このことは必然的に神話や青銅祭器の分布に影響してきます。イザナギ・イザナミやスサノオは主として筑紫で活動する神ですが、突如として活動の場を出雲に移します。

青銅祭器を見ると中細形の段階で銅剣が九州から姿を消し、山陰に中細形銅剣c類が、また瀬戸内に平形銅剣が分布するようになります。度々述べてきたように銅剣が九州から姿を消すのは2世紀初頭に奴国王が滅んだことによります。

また大国主は出雲の神のように思えますが、名前が大物主やオオナムチに変わると大和や紀伊で活動します。これは大国主が中国・四国から東海・北陸にかけて分布する銅鐸を配布した部族の、神話・伝説上の始祖であることによります。

その内容の破天荒なことと共に、出雲神話では神話の舞台が目まぐるしく変わるので史実と思ってよいのか途惑いますが、これは史書に次のような形式があることにもよるようです。

紀事本末体  ストーリーの展開を、事件の筋が分かり易いように纏め直したもの
編年体     『春秋』に代表されるように年代順に記述を進めるもの
紀伝体     『三国志』のように本紀・列伝・志などの項目を立てて記述を進めるもの
国史体     日本独自のもので特定の個人を中心にして記述を進めるもの

私たちの関心を持っている『三国志』魏書・東夷伝・倭人条は紀伝体ですが、『古事記』の中・下巻は国史体であり、『日本書記』は国史体でありながら編年体でもあるようです。そして『古事記』、および『日本書記』の神話は「紀事本末体」のようです。

神話は時代も場所も異なる別の事件が、ひとつのストーリーに纏められています。4月投稿の「二人のヒコホホデミ」ではヒコホホデミが二人いることを述べましたが、侏儒国(日向)が統合される過程で起きた6つの事件が、神武天皇を天照大神(卑弥呼)の6世孫(ホノニニギの4世孫)とするために纏め直されているようです。

出雲神話にも紀事本末体の特徴が現れています。高天が原を追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治し「草薙の剣」を得ますが、これは2世紀末の倭国大乱が中国・四国地方に波及したことや、その結果スサノオに相当する王が立てられたことが語られているようです。

紀事本末体の出雲神話が伝えようとしているテーマは、天照大神(卑弥呼・台与)の王権が大和の大王(天皇)に継承されているのに対し、奴国王の王権は出雲の王に継承されているということであり、同様にスサノオが出雲でヤマタノオロチを退治するのは、面土国王の王権も出雲の王に継承されているということのようです。

紀事本末体の神話では事件の起きた年代が分かりませんが、これも私たちを途惑わせます。『古事記』は和銅5年(712)に成立しますが、翌和銅6年(713)には諸国に『風土記』の編纂が命じられ、養老4年(720)に『日本書紀』が成立します。

和銅6年から養老4年の間に国史体の『古事記』を、編年体併用の『日本書記』に変える作業が行われことが考えられます。神功皇后紀39年条には「是年、太歳己末」として倭人伝の記事が引用されており、太歳紀年法による編年が行われたことを表しているようです。

その結果、実際には4世紀末ころと考えられる神功皇后の活動時期は、木星の運行の2運(120年)古い3世紀とされ、神功皇后が卑弥呼・台与とされています。倭人伝に次の文があります。

魏略曰。其俗不知正歳四節。但計春耕秋収。為年紀・・(略)・・其人壽。或百年。或八九十年

この文については春と秋をそれぞれ1年とする「2倍年暦」が存在したとする説がありますが、寿命と平均壽命は違います。平均壽命は医療や食生活など生活環境によって異なりますが、人間の寿命は80~90年で、まれに100歳まで生きる人もいますがこれは不変です。

紀事本末体の神話で事件の起きた年代が分からないことと長寿の者が多いことには関係はなさそうです。倭人は生活環境が良く長寿の者が多いと述べられているのであって、暦がないから年代は伝えられなかったのであり、年代が創作されたことを表しているというのではないようです。

2011年7月17日日曜日

出雲神話 その2

青銅祭器は部族が通婚によって同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、青銅祭器を配布した部族の部族長と、配布を受けた宗族長の間に「擬似冊封体制」ともいうべき関係があったと考えるのがよいようです。

北部九州では青銅器は中細形になるまで副葬されますが、他の地方では中細形はすでに祭器になっており、中国地方で祭器になったことが考えられています。最近では九州で最古式の銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。

冊封体制については貢物を献上するという名目の貿易だと言う考え方もあるようですが、倭人伝では賜与の品を国中の人に示して国家(魏)が、汝(卑弥呼、及び倭人)を哀れむ(慈しむ)ことを知らしめよと命じられています。

これは貢納品に対する返礼の品が分与されたことを示していますが、分与する者とそれを受ける者との間には、魏の皇帝と卑弥呼の関係のような主従関係が存在したことが考えられます。

紀元前194年~180年に衛満が朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定めて朝鮮王と称するようになります。このころ朝鮮半島では多鈕細文鏡が作られています。

また銅矛、BⅡ式銅剣・銅戈・銅鐸が造られそれが倭国に流入してきます。これが朝鮮式銅鐸や、細形に分類される利器だと考えられますが、これは衛氏朝鮮と倭人の交流を示すものでしょう。

紀元前108年には武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪など四郡を設置しますが、前82年に真番、臨屯は廃止され玄菟も西に後退します。ただ楽浪郡だけは真番・臨屯の一部を吸収して大きくなり、朝鮮半島経営の拠点になります。

倭国は楽浪郡を通じて前漢の冊封体制に組み込まれて百余国が遣使し、前漢鏡や前漢製の青銅利器が流入してきます。百余国が遣使したのは前漢時代の後半で政情の最も安定していた宣帝・元帝(紀元前74~33)の時代でしょう。

王莽の時代に鋳造された貨泉が流入するのを最後に、鏡以外の青銅器の流入は止まるようですが、その後も青銅器を尊重する風習は残り祭器に変わっていくと考えます。つまり青銅器が祭器に変わるのは王莽の時代だと考えるのです。

それは王莽の時代に儒教の「礼」が国家教学として確立したことと関係がありそうです。儒教の礼に「君臣の礼」があり、君主と下臣の間の秩序を守ることが要求されましたが、それは冊封を受けた倭人の王にも適用されたでしょう。

後漢は25年に成立しますが、57年に奴国王に金印を授与したのはその現われであろうと思います。それは倭人の王と下臣の関係にも影響し、部族を構成している宗族の族長には王との間だけでなく、さらに部族長との間にも「君臣の礼」が要求されるようになったということでしょう。

中国と冊封関係にあった王は皇帝から下賜された銅鏡を分与することが可能ですが、冊封関係のない王にはそれができません。それができたのは奴国王・面土国王、そして卑弥呼・台与だけです。おそらく銅鏡には皇帝が下賜した印綬のような性格があるのでしょう。

そこで王を擁立する可能性のある大部族が考え出したのが、銅鏡以外の青銅器を鋳造して配布することで「擬似冊封体制」を構築することだったと考えます。銅剣・銅矛・銅戈が利器から祭器に変わる経過は分かりませんが、九州で最古式の福田形銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。

私は福田形銅鐸を青銅器が祭器に変わる最初の時期のものだと考えます。銅鐸を祭器に変えたのは楽浪郡に対抗した朝鮮半島からの渡来民の子孫だと考えるのも面白そうです。福田形銅鐸が中国地方に配布されたことで、中国地方では銅剣も祭器になっていくと考えます。

そして青銅器の鋳造技術を持っていた九州でも銅矛・銅戈が祭器に変わるのでしょう。九州では北方遊牧民の風習を始原とする銅鐸が早い時期に姿を消しますが、九州では中国の青銅器を副葬する風習の影響を受けて、中細形の段階になっても副葬されるものがあると考えます。

2011年7月10日日曜日

出雲神話 その1

日向神話・高天原神話に触れてきましたが、当然のこととして出雲神話にも触れないわけにはいきません。一昨年6月に投稿を始めて今回で202回目になりますが、その間には小さな修正はしましたが大筋の考えは一貫しているつもりです。それを再確認しつつ出雲神話に挑戦してみようと思います。

今まで述べてきたことを大別すると、①面土国に関するもの ②「稍」と冊封体制に関するもの ③面土国王とスサノオに関するもの ④部族と青銅祭器に関するものになりますが、それぞれは独立しているのではなく相関々係にあると考えています。

①面土国に関するもの
倭人伝の記事の多くは正始8(247)年に黄幢・詔書を届けに来た張政の面土国での見聞ですが、面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しておりそれは筑前宗像郡です。方位が南とされている邪馬台国・投馬国は宗像郡の南に位置しているはずです。

倭人伝・韓伝以外の諸伝の千里は魏里の300里(130キロ)ですが、倭人伝・韓伝だけは150里(65キロ)になっており、倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡(面土国)の土穴・東郷付近です。現在の宗像市役所の周辺ですが、「自女王国以北」は遠賀川流域になります。

②「稍」と冊封体制に関するもの
弥生時代後半(紀元前後以降)の倭人は朝鮮半島に在った楽浪郡・帯方郡を介して、後漢・魏の冊封体制に組み込まれますが、冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないというものがありました。

冊封を受けた国の領域は「王城を去ること三百里」、或いは「方六百里」に制限されていましたが、それより以遠は隣国になります。これを「稍」と言い「稍」は260キロ四方になります。

魏と冊封関係にあったのは北部九州の女王国(筑紫)だけでしたが、冊封体制は職約(義務)によって自動的に南九州(侏儒国、日向)や中国・四国地方(女王国の東の国、出雲)、或いは近畿・北陸(越)地方に及ぶようになっていました。東海東部や関東にも及んでいたことが考えられますが、神話はこれに言及しておらず、青銅祭器の分布も希薄です。

「稍」にはそれぞれ部族によって擁立された首長(王)がいますが、筑紫の王が卑弥呼・台与(天照大神)であり、出雲の王が大国主です。邪馬台国が筑紫・畿内のいずれにあったにせよ、南九州や中国・四国地方は独立した国であり女王の統治下にはありませんでした。

③神話に関するもの
天照大神が卑弥呼・台与であるとはよく言われていることですが、白鳥庫吉はスサノオについて狗奴国の男王であろうと言っています。しかし面土国が宗像郡だというのであれば、宗像三女神との関係などからスサノオは面土国王だと考えることができるようになります。

北部九州の「稍」、つまり筑紫の歴史が「高天原神話」であり、南九州の「稍」の歴史が「日向神話」になります。中国・四国地方の「稍」の歴史が「出雲神話」ということになりますが、そうであれば「大和神話」や「越神話」もあるはずです。しかしこれは「出雲神話」の中に含まれています。

神話の主テーマは北部九州勢力が「稍」を統合して統一国家の倭国を出現させたことですが、大和や越の神話が出雲神話の中に含まれるのは、北部九州から見て出雲を統合することと、出雲以東を統合することとが同義だからです。出雲ではなく大和が中心になってもよさそうなものですが、これは「稍」の地理的な位置関係があり無理なことです。

④部族と青銅祭器に関するもの
倭人が中国の冊封体制に組み込まれたことにより部族は地縁・血縁的な文化的結合体から、支配者階層が通婚することによって結合した政治的結合体に変質し、王を擁立するための組織になっていくようです。

部族は通婚によって同族関係の生じた宗族に青銅祭器を配布しますが、「稍」によって分布する青銅祭器の器種が異なり、北部九州には銅矛・銅戈が、中国・四国には銅剣・銅鐸が、また近畿・東海西部には銅鐸が分布しています。

部族は王を擁立しますが王の擁立を巡って対立しました。倭人伝に見える倭国大乱や卑弥呼死後の争乱は、北部九州の銅矛と銅戈を配布した部族が対立したものですが、中国・四国地方の「稍」では銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族が対立したことが考えられます。