2011年7月31日日曜日

出雲神話 その4

倭人伝の記事で出雲に関係すると思われるのは「女王国の東、海を渡ること千余里に複た国有り、皆倭の種」とあるだけですが、「海を渡ること千余里」については二つの解釈ができます。倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡の東郷・土穴付近であり、千里は65キロですが、そうすると東の海は関門海峡になり、倭種の国は下関市付近にあったことになります。

もう一つの考え方はこの海を周防灘と考え、豊前の草野津(行橋市草野)から周防灘を渡ること65キロに倭種の国が有ると解釈するものです。

その場合には周防の佐波付近に国があることになりますが、これだと周防・長門の西半分は女王国に属していることになります。倭人伝の地理記事だと九州の東海岸までが女王国であり、海を渡ると女王国ではないように思えます。

どちらを選択したらよいのか迷っていますが、土器の分布状況などから周防灘・豊後灘沿岸に、「西瀬戸内文化圏」とでも呼ぶべきものを想定し、女王の主権下にはあるけれども半ば独立した国がある、と解釈するのも一案かと思っています。いずれにしても周防・長門を除いた中国・四国地方が稍を形成していると考えてよいようです。

この中国・四国地方の「稍」を、神話の出雲とするのがよいと考えますが、その中心になっていたのが律令制の出雲国を中心とする山陰地方だと考えます。神話には吉備や四国があまり登場してきませんが、その場合、吉備や四国を「出雲」の範疇に入れてよいのかという問題が出てきます。

島根半島はかつて島でしたが、斐伊川・神戸川の土砂による沖積で半島になりました。今の斐伊川は東流して宍道湖に流入していますが、『出雲国風土記』では西流して大社湾(神門水海)に流入しています。

江戸時代の寛永12年、16年の洪水で東流するようになったとも言われていますが、出雲平野の弥生遺跡は東流・西流を繰り返す斐伊川が残した自然堤防の上に営まれています。弥生時代には小型の川船なら大社湾から宍道湖に渡ることができたかもしれません。

この想定される水道をスサノオが活動する所と言う意味で「素尊水道」と呼ぶ人もいます。「素尊水道」周辺の出雲と伯耆西部の方言を「雲伯方言」と言いますが、雲伯地方に共通する文化が存在したことを表しているようです。

今では宍道湖・中海と、これに流入する河川を一括して「斐伊川水系」と言っていますが、そこに対馬海流に乗って朝鮮半島や北部九州の文化が伝わってきたことが考えられます。

それには北部九州の文化、ことに宗像(面土国)や周防など、対馬海流の影響を受ける響灘沿岸との関係が考えられています。、また神話や出土品などから、この地は九州と近畿北部・北陸との中継地になっていたことが考えられています。

その文化は出雲の斐伊川・神戸川、伯耆の日野川沿いに中国山地を越えて、美作や備中の高梁川、備後・安芸の江の川流域などに伝えられたことが考えられます。さらには瀬戸内海を渡って四国に伝わったことを考える必要もありそうです。

もちろん瀬戸内や四国には瀬戸内海航路による文化の流入があり、瀬戸内沿岸部の平形銅剣はこのことを表していると考えることができます。しかし備後北部の塩町式土器は吉備の上東式よりも山陰の青木Ⅱ式に近いということで、中国山地は山陰の文化圏に属していたことが考えられています。

大和朝廷が成立し大和が政治・文化の中心になると、逆に大和の文化が瀬戸内海を渡り、吉備から中国山地を越えて出雲に流入するようです。同時に山陰の文化圏に属していた吉備北部の山間部は山陽の文化圏に属すようになるようです。

とかく出雲と吉備は対比され、吉備と出雲とは別のものと思われがちですが、少なくとも弥生時代の吉備北部と山陰とは一体だと考えなければならないようです。それは吉備・安芸の平野部に及んでいたようです。

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