2011年8月14日日曜日

西谷墳墓群 その2

青銅祭器が埋納される時期ついての通説では、中広形の武器形祭器と「聞く銅鐸」の段階で一度埋納され、さらに広形の武器形祭器と「見る銅鐸」の段階でもう一度埋納されて、2度の埋納時期があるとされています。

荒神谷遺跡でも中広形銅剣b類と最古形式の近畿Ⅰ式銅鐸が隣り合わせで出土していて、中国・四国地方の青銅祭器は第一段階で埋納されたように思えます。しかし私は中国・四国地方の青銅祭器の祭祀その後も続く考えています。

その根拠は多くは有りませんが、出雲平野の北部に位置する出雲市青木遺跡で銅鐸の「飾耳」と言われている部分が副葬品として出土しています。通説では銅鐸片は鋳造の原材料だと考えられています。

青木遺跡の場合には埋葬された若い女性の頭部から出土しており、被葬者のアクセサリーではないかと言われています。銅鐸片が鋳造とは無関係の場所から出土していますが、銅鐸片には同時期の銅鏡片と共通する点があります。

福岡県平原遺跡の直径46,5センチの大鏡は当初4面だと考えられていましたが、成分々析の結果5面であることが分かりました。副葬された時点ですでに破砕されており大部分が無かったのですが、銅鏡片として配布されたとも言われます。

巨大な鏡が造られる一方で、この時期には直径5センチ程度の小型仿製鏡や、後漢鏡などを数個に分割した「分割鏡」が造られています。これらの銅鏡は絶対数の不足した大型鏡を補うために造られたとされています。

銅鐸にも同じ傾向が見られ、滋賀県小篠原1号鐸は135センチにもなりますが、その一方では三遠式銅鐸分布圏の東側の東海・関東を中心に10センチ以下の小銅鐸が見られるようになり、また各地に銅鐸片が現れてきます。

小銅鐸は中期に朝鮮半島からもたらされた「朝鮮式小銅鐸」とは別系統のもので、中には副葬されたものもあって一般の銅鐸とは性格が異なると言われていますが、通常の銅鐸とは異質の祭祀が行われたことが考えられます。

銅鏡は有力者の個人的な所有物であり銅鐸は宗族の共有物なので、銅鐸が副葬されることはありませんが、この時期には小銅鐸・銅鐸片を小型仿製鏡・分割鏡のように個人的に祀る者があり、銅鐸の絶対数が不足したことが考えられます。

中国では宗族が合流することを「連宗」と言い、連宗した宗族には一つの社会を形成できるほど巨大なものがありました。倭人の部族は中国の冊封体制に組み込まれたことにより王を擁立するための組織になり、宗族も連宗することによって規模が大きくなって、後に古墳時代の氏族になることが考えられます。

中国の宗族には特に族長を出す家系は無く、族長は年長者の中から選ばれるということですが、倭人伝には「尊卑各差序有り、相臣服するに足る」とあります。後期後半から終末期の倭人の宗族の場合には族長を出す家系が存在したと考えてよいように思います。

青銅祭器が大型化することは、部族が巨大化すると共に配布を受ける側の宗族の規模も時代が下ると共に大きくなるということでしょう。それに伴って身分差が大きくなり、それに応じた役割の分担があったことが考えられます。

族長を出す家系、あるいは祭祀を担当する家系が、本来は宗族の共有物である銅鐸を個人的に祀るようになることが考えられます。また青銅祭器の製作には宗族も相応の費用・労力を負担したでしょうから、規模の小さな宗族は巨大な銅鐸を入手することができなかったでしょう。

そこで10センチにも満たない小銅鐸が造られ、また一方では銅鐸片が造られ、特定の家系が個人的に祀るようになることが考えられます。大津遺跡で銅鐸片が副葬品として出土したことは、倭国大乱以後にも青銅祭器の祭祀は続いていたということだと考えます。

銅鐸片には銅鐸の「鰭」「飾耳」と呼ばれている、剥離し易すく原形をあまり損なわない部分が利用されることが多かったのではないかと思います。剥離された銅鐸片と元の銅鐸は一個の銅鐸と見なされており、「連宗」があったと考えると面白くなってきます。

1 件のコメント:

  1. めんとこく2011年8月14日 7:13

    岐阜県 宗像様
    2007年に長野県中野市柳沢遺跡で銅鐸、大阪湾型銅戈6本と共に、九州型銅戈1本が出土していますが、これは1・2世紀の長野盆地に筑前宗像郡の宗像族と同族関係にある人々が居たということだと思っています。

    九州型銅戈1本は直接に、また大阪湾型銅戈6本は大阪湾沿岸を介して間接的に、筑前宗像郡の宗像族と関係を持っていたと考えています。これが現在の銅戈の分布の北限ですが、分布の北限については私も関心を持っています。

    推察になってしまいますが、信濃川の下流域や阿賀野川流域にも銅戈が存在する可能性はあると思います。信濃の安曇野には九州の安曇族との関係が言われていますが、岩代(福島県)の阿賀野川流域に宗像姓が見られることは有り得ることだと思います。

    筑前宗像族との結びつきは九州型銅戈が出土すれば出雲を経由する日本海沿いの航路によるものであり、大阪湾型銅戈が出土すればそれは瀬戸内海・大阪湾を経由するものだということになりそうです。

    筑前宗像郡がなぜ面土国なのかについては2009年8~9月の投稿で述べていますので、ぜひ読んでみてください。

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